詩編講解

22.詩編第46編『神を避けどころとし』

この詩は、どのような困難な時にも共にいて助けを与えてくださる神への信頼が歌われています。そして、イザヤを精神的郷里としているといわれています。前701年、ユダ王国の首都エルサレムは、北の大国アッシリアのセンナケリブの大軍に包囲され、陥落の一大危機にさらされていました。陥落寸前のエルサレムの住民は、右往左往し動揺するばかりでした。その時イザヤは、次のように王や民に向かって激励しました。

まことに、イスラエルの聖なる方
わが主なる神は、こう言われた。
「お前たちは、立ち帰って
静かにしているならば救われる。
安らかに信頼していることにこそ力がある」と。(イザヤ書30章15節)

アッシリアの大軍は敗北して、エルサレムを去るという奇跡は起こりませんでしたが、不思議なことに、この大軍にペストが流行し、一夜にして何十万という大軍が撤退しました。アッシリア国内にクーデターが起こり、センナケリブは暗殺されたため、エルサレムはそれによって救われるという奇跡が起こりました。それを偶然の出来事として人は片付けることもできます。しかし、神の助けと導きは、わたしたちの目の見えないところで、また、人下の目には不思議と思える方法で与えられるものです。その導きを静かに信じる信の道をこの詩篇はわたしたちに教えてくれます。

この詩編の詩人は2節において、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」と歌っております。苦しい時、恐ろしい敵に囲まれた時、人は安全で安心できる場所を探します。堅固な砦はそれに適しています。神は、その様な時の避けどころ、砦としておられると告白しています。深みにはまって助けを求めて手を上げても、助けてくれる人がなければ、その危険から逃れることができません。しかし、神は、「必ずそこにいまして助けてくださる」と詩人は歌っています。

新共同訳聖書には、この2節に続く3節の始めに「それゆえ」という言葉が省略されていますが、原文のヘブル語聖書には、「それゆえ」という言葉がついています。「わたしたちは決して恐れない」とこの詩編の詩人は告白しますが、その信仰の根拠となるのが、どの様な苦難、危機に際しても、神が「必ずそこにいまして助けてくださる」からだという根拠を示すのが「それゆえ」という言葉です。神が必ずそこにいますから、わたしたちには恐れる必要がないのだというのです。いつも心静かに落ち着いていられるのです。

わたしたちを取り巻く環境は、わたしたちの想像する以上に早く、あっという間に変わることがあります。あるのが当然と思っていたものが一瞬にしてなくなることがあります。「地が姿を変え、山々が海の中に移る」ような大地震を、わたくしは神戸で経験しました。それはとっても恐ろしい経験でした。しかし、「必ずそこにいまして助けてくださる」神を知っている人は、一時的に動揺し、恐れを抱くことがあっても、その恐れが取り除かれるのを経験しました。「苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる」神がおられるからです。

この詩編は、神信頼の歌であると同時に、神の都シオンへの賛歌であるといわれます。それはまた、神の都、天上のエルサレムの雛形、教会への賛歌でもあります。

5節に、「大河とその流れは、神の都に喜びを与える」とありますが、エルサレムには、川は流れていません。しかしそれなのになぜこの詩人は、「大河とその流れは、神の都に喜びを与える」というのでしょうか。エルサレムの町は川がないので水に苦労していました。だから地下水道を造り、水をよそから引いて生活のために、また戦争などの危機に備えたのです。実際、この詩篇でも歌われていますように、エルサレムの町は、戦争で敵に包囲され、万事休すという危機に何度も遭い、何度も持ちこたえました。地下水道があったからです。

この地下水道の存在は、日常生活をしている時には、人々はほとんど意識することはありません。しかし、戦争などの危機に直面した時、それがもたらす恵みの大きさを本当に深く覚えます。わたしたちに与えられている神の支配と恵みというのも、人が健康で順調に行っているとほとんど感じず、また必要ないと考えてしまうかもしれません。しかし、エルサレムの町がその地中深くある地下に流れる川の水によって守られ、その命に喜びと潤いが与えられているように、神が共におられ、神がその言葉をもって励まし導かれる現実の助けと力は、人の目に見えないようですが、わたしたちの存在の奥深いところで大河となって流れ、わたしたちの人生に喜びを与えるのです。

神はその様に、苦難の中にあるものに、見えない隠れた業において助け導かれるだけでなく、健康で何不自由なく生きている人の人生にも、大きな恵みを与えていてくださるお方です。この詩篇の詩人は、エルサレムの目に見えない地の中にある川を信仰の目で洞察することによって、神の臨在を霊の目で洞察することができました。

神の都を流れる川は、普段は人の目には隠れていて見ることはできなくても、その都の中央を流れていて、大河となって、都全体を潤し、その都に生命と活力を豊かに漲らせる働きをしています。そして、普段人の目に見えない都を流れるこの大河は、御言葉の恵みを表しています。

詩篇1篇2節~3節には、その事実が次のように歌われています。

主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

また、エゼキエル書47章には、神殿を流れる川のことが記されています。神の都の神殿を流れる川の両岸には、植わる果樹は枯れることなく果実は絶えず、その葉は薬用となり、その水が流れる海は汚れが清められると言います。川が流れる所の生き物は生き返り、魚も非常に多くなる、といわれています。

さらに、ヨハネ黙示録22章には、天上の神と小羊の玉座から流れ出る「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。」(ヨハネ黙示録22章2節)といわれています。

また、神が現在されるエルサレムとは、キリストの教会を表しています。

神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。
夜明けとともに、神は助けをお与えになる。(6節)

「神はその中にいまし」給うのです。神の言葉が語られる教会に、「神はその中にいまし」給うのです。そして、神が共にいますこと(インマヌエル)が救いなのです。神が共にいます教会には、どんなに暗い恐ろしい暗黒の夜が訪れても、必ず「夜明け」が与えられます。「夜明けと共に、神は助けをお与えになる」からです。それは、個々人の人生の歩みにおいても与えられている確かなゆるぎない神の守りを表わしています。

そして、どんなに強大な地上の帝国といえども、「神が御声を出されると、地は溶け去る」(7節)ように、くずおれ倒れていきます。敵対する敵の力や、巨大な組織や運命の力に翻弄されているようなわたしたちの人生に見えますが、そうした力も、神の前には所詮「溶け去る」運命にあり無力な存在でしかありません。神の御声を聞き、その御声が信仰を持って受け入れ、その御声に委ねて生きる者には、いつも神が共にいまし、ゆるぎない助けの力が与えられています。

万軍の主はわたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。(6、12節)

となってくださるからです。

苦難のときや、自分の力でどうすることもできない問題直面した時、人の心は平静さを失い、右往左往してしまいます。神が共におられることを見失うと、突然訪れる災いに、どう対処してよいか判断できなくなります。だからそのような時にこそ、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」となって、「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」(2節)、というこの詩篇の言葉を思い起こすことがたいせつです。神を避けどころとして、いつも神に身を寄せ、身を委ねて生きるのです。神に委ねないから、不安になり、心が神から離れだんだん遠ざかり、敵の力や病や色んな力にますます翻弄されるようになるのです。しかし、その苦難の中で思い切って、避けどこるとなってくださる神に委ねるなら、この詩人のように、恐れのない静かな心でいることができるでしょう。

旧約聖書講解