詩編講解

21.詩篇第42~43篇『神を待ち望め』

この二篇は一つの詩です。この詩は三連からできています。第一連は、第42篇2~6節で、神を慕う心と悲しい追憶が歌われています。第二連は7~12節で、神に捨てられ敵に嘲られる作者の苦悩が歌われています。そして、第三連の第43篇は、祈りであり、願いと望みが歌われています。

ヨルダン川の源流がヘルモンの峯の一つから流れ出ていますが、この詩篇の作者は、エルサレムとその神殿から遠く離れて立って、エルサレムの神殿で神と親しく交わっていた日のことを追憶しています。彼はエルサレムの神殿において要職を占めていたかもしれません。かつては神の家にいて、神に身をまかせることを許されていたのでしょう。しかし、今は敵の圧迫と嘲笑を激しく浴びせかけられ、神に捨てられたものの悲哀を余すところ無く気付かされ、また同時に神を慕う悲哀を意識させられています。

この詩篇の作者がエルサレムとその神殿からこれほど遠く離れているのは、彼が罪を犯したために、そこから追放されたためであるかもしれません。いずれにせよ、彼は長く神と親しく交わった、あのエルサレムでの神殿祭儀から遠ざかったままでした。

涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。(2節)

と歌うことによって作者は、魂の生ける神への全存在的・宗教的喘ぎを表明しています。

詩篇歌も讃美歌322も鹿が谷川の水を慕い求める様子を歌っています。その光景は谷川には水が滔々(とうとう)と流れているという印象を与えますが、そこは「枯れた谷」です。鹿が訪ねた谷は、水が滔々と流れるところではなく、夏の炎天下に干上がった枯れ床です。鹿が乾いた川床に必死で首を突き出して、空しく水を求める姿は実に痛々しく惨めです。

この詩人の魂は、そのように涸れ谷の水を求める牝鹿の姿に似ています。彼は枯れ谷に水を求めてやってくる鹿のように、彼の魂は生ける神を渇望し、神に近づこうとしています。神がいまさなければ、彼の魂は衰えざるを得ません。神との関係が失われるということは、彼の信仰にとってもはや抜き差しならぬ事態です。

彼にとって神はまさしく「命の神」です。遠く異境の地に立ち、かつて魂を注ぎ出して神を礼拝した日のことを思い出します。その機会がいつ与えられるかという見通しも立たず、彼はまことの神を知らない異教徒から「お前の神はどこにいる」と問われ、答えられず、彼の魂はいっそううなだれ、呻くのです。人から昼も夜も絶え間なくそう問われて、神との交わりを失っている現実にただ涙が溢れるばかりでした。そのような彼にとって神の存在は遠く、神への疑いの心がよぎります。

しかし、彼はかつて巡礼のため宮に入ったときのことを思い起こします。しかし、その日の喜びが大きければ大きいほど、彼の魂はうなだれ、激しく飢え、渇き、呻くばかりです。

「お前の神はどこにいる」と問われ、答えられない作者は、激しい自己嫌悪と苦しみにさいなまれました。「お前の神はどこにいる」と問われ、反射的にわたしの神はどこにいるのかと、存在論的な問いが彼の心をよぎりました。

しかし、彼はそのように問うことによっては、実は神を見出すことは出来なかったのです。「お前の神はどこにいる」という存在論的な問いは、堂々巡りして、彼の苦しみを増すばかりで、少しもその苦しみから彼を解放することはありませんでした。

彼はその苦しみの中で重要なことに気付きました。その問いの立て方が間違っていたことに気付きました。

「神はどこにいる」と問われるべき方ではなく、神は彼にとって「待ち望む」べきお方でした。たとえ現在、神のもとから追放されているとしても、神は彼にとって待ち望むべきお方でした。わたしの神はどこにおられるのだろうかと問うことではなく、神は待ち望むべきお方であるのです。神はいつまでも告白すべき信仰の対象であります。私たちの現在の状況がどう変化しようと、神は、御名を告白し、御顔を拝し、ご自身が与えてくださる救いを待ち望むべきお方であるのです。彼がこの重要な一つのことに気付いたとき、暗闇に支配されていた彼の心に一条の光が差し込んできました。

「神はどこにいる」と問われるべき方ではなく、神は「待ち望む」べきお方です。そして、神は御名を告白し礼拝すべき方です。この神に望みを起き、この神こそ「わたしの救い」となるべき方です。

しかし、彼の高揚しかけた喜びと希望は、再び現実に目をやるとき、いっぺんに萎(しぼ)んでしまうのを彼は経験しました。彼は故郷のエルサレムを追われ、遠く異境の地ヘルモンの山中にいることに気づいたとき、再び彼の心は暗くなりました。ヨルダンの川の深く落ち込んでいく流れは、美しい光景であったに違いないと思うのですが、神から捨てられ懲らしめを受けていると感じとっている彼には、その深遠は、彼の心の苦しみの深さを反映しているように映りました。

しかし、その事を知れば知るほど、彼はいっそう、神への彼の信仰を喚起致しました。神の慈しみに頼らずして望みのない自分の現実を、彼は見通していました。激しい流れ、落差の大きな川の流れに、水は激しく砕け散っています。しかし、その川の水が怒濤のように流れ来ても、岩は決して砕け散ることはありません。神はそのように変わりなく揺るぎない土台であり、唯一の確かな救いでありました。そのことを彼が発見したとき、たとえ苦しめる者が再び骨を砕き、嘲って、「お前の神はどこにいる」と尋ねたとしても、彼の魂は、もはや疑い、呻く必要はありません。大切なことは、神を待ち望むことです。この希望の神を、我が神として告白することです。この神を礼拝し、この神を、救いの神と信じ、己の全存在を委ねきって生きていくことです。

それ故、彼の生きる課題は、この神に望みを置いた祈りの人生となりました。エルサレムの神殿でないと神を礼拝できないというのではない。神に望みを置き、神に願い、神を待ち望みながら、神を砦とし神から離れないで生きる生き方を求めていくことが、この詩人にとって重要な課題となりました。

「わたしの神はどこにいる」と捜し求める生き方ではなく、「あなたの光とまことを遣わしてください」(43篇3節)と祈り願い、神の上から給うところの真実に生きる生き方を求めるのです。

真実は神の不変不動なることのうちにあります。それは、人が自ら獲得するものではなく、神から人に送られてくるものです。この神に近づき、それを祈り求めることは出来ます。この神に感謝を言い表すことが出来ます。ほめたたえることが出来ます。神を探究して捜すのではなく、待ち望みの中で、神を礼拝することを求める者に神は平安をくださいます。

そのことを知る者にとって、もはや礼拝の場所が問題ではありません。健康状態も問題ではありません。重要なのは、そのような神の近さ、近づきやすさではなく、常に神を待ち望み、神に信仰を告白し、神こそ救いと信じ礼拝し続けていることこそ重要なのです。

この待ち望みの姿勢こそ、私たちを人生のあらゆる悩みから解放し、飢え渇きを取り除き、救いを得させる新たな力となりうるのです。そういう待ち望みの中で神と交わる礼拝こそ、私たちの信仰を育て、常に新たな力を与える原動力となるのです。その力を与えるのは神にほかなりません。

私たちにとって、この詩篇から学ばねばならない重要なことは、神を慕う心が神から何を受けるかではなく、神において何を所有するかを知ることです。

旧約聖書講解