詩編講解

16.詩編27篇1~6節『信仰の勇気』

詩編27篇1~6節は形式と内容の点で23篇と似ています。

1~6節は、神に対するゆるぎない信仰を述べた力強い歌です。神への大胆な信頼の故に、作者はあらゆる危険をものともせず、泰然自若として未来を見つめることができました。そのような信頼をあらわす気力のこもった言葉を言い表すことができた背後には、苦難と苦闘の厳しい人生経験だけでなく、神による救いと信仰の勝利の豊かな体験があります。

ここに表明されている信仰は、人生の労苦も煩いも知らず、危機の深刻さも知らない、血気盛んな若者の信仰ではありません。人生の戦いを通して練り鍛えられた壮年男子の信仰です。この詩篇の作者は、人生の様々な現実を計算に入れてはいますが、それによって意気阻喪することがありません。むしろ彼の信仰の戦いでの勝利の体験は、ますます確信を持って「頭を高く上げ」、希望と喜びに満ちた信仰の力を生み、その心を神への揺るぎない確信で堅固にしています。神へのまったき信頼に生きる信仰は、人生に対する逃げ腰の態度とはまったく無縁です。人を闘いにおいて鍛え上げ、偉大な英雄の高みにまで引き上げてくれるものであることを、堂々と証ししています。

主はわたしの光、わたしの救い
わたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦
わたしは誰の前におののくことがあろう。(1節)

このように語ることができるのは、人間のあらゆる絆を捨てて神に委ねきり、絶対無条件にひたすら神に依存する者だけです。だが、それは誰にでも簡単にいえるものではないと、わたくしたちは言いたくなります。確かに口ではそういえても、ゆるぎなく神に委ねられるかというと多くの人はそれが出来ないで立ちすくんでしまいます。主と共にガリラヤ湖の嵐の湖上を歩こうとしたペトロが主から目をそらし嵐の現実に目を向けて、「来なさい」(マタイ14:29)と命じられた主イエスの言葉に委ねて歩み出したことを忘れた時、「怖くなり」、前へ歩けなくなったように、わたしたちは、現実の恐怖や巨大な敵の力の前に立ちすくみ、歩けなくなることが良くあります。しかし、本当に人生のある現実において、神を光として生き、神が必ずふさわしい救いを与えて下さるという委ねの信仰に生きることを経験したものは、主をとりでとする本当の安らぎを知ることができるでしょう。それは、プールサイドから手を離し、プールの真ん中に向かって泳ぎだすために水に体を委ねて泳げるようになる体験と似ています。その体験を一度した者は、また次も同じように泳げることを知っています。この詩編の詩人もそういう体験をした後で、これまで幾度となく主をのみ光として、委ねて歩むことを重ねることによって、誰をも恐れない人間へと変えられていったのでしょう。彼は神を命の砦とし、神をすべてとして、神により頼んで生きてきました。このように神がすべてであり、究極的なお方となっていたので、彼の心は人間的なものへの執着を断ち切ることができ、また、いっさいの恐れから真に解放されることができました。

そのような信仰の確信に立って、この詩篇の作者は、たとえ敵が獣のように襲いかかってくるようなことがあっても、泰然自若として立ち向かうことができました。それ故、彼は、敵が陣を強いて攻めてきても、助けを求める祈願や、あるいは嘆きのことばすら、口にしません。むしろ敵が企んでいる禍いは、彼ら自身を見舞うことになるであろうという確信を、彼は信仰によって得ています(3節)。この詩篇の作者は、出来事の全体が、神の御手のうちに掌握されていることを知っていますので、神に逆らい、神を信じる者に敵対する悪しき者たちの運命の最期が滅びである、ということについていささかの疑念も抱いていません。あらゆる興奮や動揺を静めてくれるのは、その強靱な信仰の力だけです。彼にとって、神こそが力であり、信仰の揺るぎない土台です。

この詩篇の作者は、「わたし」に関するいっさいの心配ごとから解放されて、ひたすら神に心を向けていますので、その信仰は平安であり、心の均衡と正しい決断と安定した力を発揮することができました。

この詩篇作者の信仰は、自我の煩いから自由でありました。その自由は、彼の信仰がただ神にのみ向けられていることによって与えられた結果です。その堅忍不抜の英雄のような力強い信仰は、実は、幼子のような単純素朴な信仰から生まれたものであることに気づかせられます。

この詩篇の作者の心を占めているのは、ただ一つの願いであり、探究であります。「命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜ぶ」(4節)、神との絶えざる命の交わり、これこそが彼の願いにほかなりません。これさえあれば、彼はすべてを所有していることになります。毎日、「主の宮で朝を迎えることを」彼は望んでいます。彼の人生は、神を礼拝し、神との交わりに生き、神奉仕においてのみ、その喜びを満たしうるからです。

信仰者は、禍いの日にも、自分が神の庇護のもとにかくまわれていることを知っています。それ故、信仰者は、全面的に神により頼むことができます。神が真に信仰者の命の源であるなら、地上のいっさいの事物に超越したもうお方が、信仰者を地上の苦しみから、必ず引き出さると信じています。地上の様々な危険が怒濤の如く打ち寄せてきても、そのわざわいの波が手の届かない高い岩の上に、置いて立たせてくださる、これが信仰者の確信であります。それ故、人生の闘いの渦中にあっても、信仰者の心は、神によってその闘いを超えることができます。神との交わりの中に、信仰者の真の命を育む泉が湧いています。信仰者は、この泉から、信頼と信仰と勇気とをくみ取ることによって、人間的な恐れから守られているのであります。

この詩篇の詩人は、そのように豊かな神との交わりに生きています。そして、彼の心には、命を育む泉が豊かに湧いています。だから、四方八方から彼を脅かす敵の姿が目に映っても、彼の心は信仰によって勝利を確信し、喜びに満たされて昂然(こうぜん)と頭を上げることができます。

この詩篇の詩人のような英雄的な生き方は、人間の自我という不安定な土台の上に打ち立てることはできません。それは、存在の唯一の確かな土台である神への信仰によってのみ可能となる生き方です。そして、神への信仰は人間の自我を打ち砕き克服する力でもあります。その信仰の勇気が育てられる場は、主の幕屋であり、神殿であり、神との会見の交わりに生きる礼拝の場だけです(5,6節)。この神との交わりに生きることだけを願う、幼子のような単純素朴な信仰こそ、力強い信仰の勇気を勝ち取る力の源なのです。

旧約聖書講解