詩編講解

12.詩篇第15篇『神の家に宿る者は誰か』

詩編15篇は巡礼にやってきた礼拝者の参加資格を問う典礼歌です。

この詩篇は、「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか」という問いで始まっています。人は自分の人生に真剣になろうとする時、問い掛けを始めます。巡礼者とは、自分の中に答えを持たぬ人間です。それゆえ、巡礼者は究極の方に、「主よ」と最初で最後の声を上げます。

「あなたの幕屋、聖なる山」は、ヤハウェが現臨される場所です。イスラエルの信仰において、神の箱と天幕は聖所と考えられていましたが、それらは元来定められた場所を持たない移動聖所でありました。しかし、ここではエルサレムという定められた聖所である神殿を「幕屋」「聖なる山」と呼んでいます。

「宿り」は正確には「客となりうる」と訳すべきところです。「客となる」(グール)とは、ゲールすなわち法的権利を持たない寄留者として保護を受ける者となることを意味します。それは、相手のあわれみと意思とにいっさいを委ねることを意味します。

信仰者は教会の主ではありません。客となるとは、第一に神の手厚い保護を身に受けることであり、第二に神の恵みに依り頼むことです。私たちは教会の主であるイエス・キリストのあわれみと意思とに委ね、その手厚い保護を受け、その恵みにひたすらより頼む客とされている存在です。

「住むことができる」と訳されたヘブル語のシャーカンは、恒久的に永住することではなく、天幕を張り、一時的に宿泊することを意味する動詞です。グール(客となる)とシャーカン(住む、宿る)の二つの動詞は、神の現臨の場における信仰者のあり方を示しています。主の聖所に入ること、教会の礼拝にあるということは、「焼きつくす火の中におる」(イザヤ33:14)ことです。それは、神の栄光の輝きの中で、恐れおののきつつ「客となる」ことであって、ゆっくり腰を温め、平然としておられるあり方とは、およそかけ離れたあり方であります。

巡礼者の入場許可を与える最終決定者である神への問いかけに対する答えが2節以下に記されています。

2節において「完全な道を歩む者」「正しいことを行う人」「心には真実の言葉がある人」という包括的な倫理的な規定が示されています。「完全な道」(ターミーム)とは、自然的、身体的、道義的、知的、精神的なあらゆる面での完全さ、充実性、健全さをいいます。それは、決して完全な人格者のことを指していっているのではなく、分裂なく二心なく全人格を傾けて<誠実>に生きることをいっています。

「正しいこと」とは、義(ツァデク)を指し、神と人との間における関係概念として用いられています。それは、神の契約のもとに生き、その交わりの関係の秩序を誠実に守ることを意味しています。それ故、その反対の「悪を行う人」は、そのような生き方を無視する人のことを指しています。

ヘブル人にとって「心」(レーバーブ)は、肉と対照されるものではなく、また理性と対照される心情でもありません。心とは<内なる人>全体であり、とくに思惟と意思の座である、自我を指します。

そして、「真実」(エメト)とは、客観的な真理と言うよりもむしろ主体的真実のことを指して言われます。ですから、ここでエメトという言葉は、信頼しうること、頼りうること、確実さを指すものとして用いられています。

「誠実」(ターミーム)、「義」(ツァデク)、「真実」(エメト)、この三つの言葉に共通していることは、<裏のなさ>であり、正直な一貫性です。信仰と日常倫理との間に、宗教と生活との間に、密接不可分の関係があるという主張がここにあらわされています。

2節の包括的な倫理規定に対して、3節は5節とともに詳細で具体的行為が取り上げられています。

「中傷をもたない」(ロー・ラーガル)の動詞ラーガルは名詞レゲルからできた語です。名詞レゲルは「足」を意味します。従って、ラーガルは「足を滑らす」「足を踏み外す」が元来の意味です。つまり、うっかりと舌を滑らし、隣人をおとしめるようなことを指すものとして用いられます。

「嘲(あざけ)らない」(ヘルパー・ロー・ナーサー)は、軽蔑、さげすみ、そしりを口に出さぬことです。口を滑らし、他人をそしり、傷つけることは、ともに災いをもたらし、友情に亀裂を生じさせ、共同体の瓦解を招きます。

信仰の共同体に入るための具体的な資格として、第一に、ことばの問題、ことばを制することの大切さを教えられていることに深く心を留めることが大切です。

イザヤが預言者の召命を受けた時のことがイザヤ書6章に記されています。イザヤは、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」という主の声を聞き、「神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿が煙に満たされる」体験をしました。それは、それまでの彼の生き方を根底から問い、その生き方を覆す、驚くべき体験でありました。彼はその驚きと怖れを、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た」と言い表しました。イザヤは、自分が「汚れた唇の者」で、しかも「汚れた唇の民の中に住む者」でしかないことを知っていましたので、その様な者が、主の神殿で主の臨在に触れる体験をするということは、死を意味することを知り、それを恐れたのです。それほど聖なる主に「汚れた唇の者」がそのままで主の前にまかり出ることができない、これがイザヤの信仰であり、この詩篇の作者の信仰です。

その様な恐れにあるイザヤの唇に主の「火(ひ)鋏(ばさみ)」が触れ、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」という主の言葉を聞き、イザヤは主の召命に答えていきます。その舌は、主によって清められるのでなければ、主の言葉を取り次ぐ業につくことができません。主の言葉を取り次ぐ業は、このような恐れと慎みなくしてなしえない業であることを深く憶えさせられます。と同時に、礼拝者がその様な場にまかり出て主の言葉を聞くことは、礼拝が恐れと慎みを持ってなされる業であることが教えられています(Ⅰペトロ4:7)。

そしてこの礼拝のあり方から、神の前における私たちの生き方の問題が論じられ、教会の交わりの根本が論じられるのです。このような形で神礼拝と人生の問題が切り離されないことが論じられているのです。新約聖書においても、「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、 悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」(Ⅰペトロ3:10-11)といわれています。

4節の基準は2、3節において既に与えられた基準にしたがって、共同体の交わりに誰を入れるべきか判断を下すことの大切さを強調しています。福音の光において全ての人をゆるすべきですが、主の共同体の交わりにおいて、誰を尊び、誰を退けるべきかという問題に曖昧な態度を取るべきでないことが、ここで教えられています。このことを曖昧にした共同体は、真の霊的な力を失うことになります。

5節は日常の経済生活のことが述べられています。

「利息を取る」とは、この場合、貧困者の困窮を利用して、その苦しみによって己を利する行為を指しています。これはイスラエル法の絶えざる関心事であり、王国時代前からバビロン捕囚期後まで一貫して禁じられました。バビロニアやアッシリアでは、はるかに進んだ金融経済の下で、高利でお金を貸すことが公認されていました。しかしイスラエルでは、金を貸すのは他の者を援助すること以外は許されていませんでした。ですから、これをもって現代の金融利息制度の批判を試みることはできません。福音の光が貧しい者の救いに向けられているのに、その弱者を苦しめるような「利息の取り立て」をする事の矛盾に対する批判がここにあります。その配慮を欠く者が主の共同体の交わりをいかにそこなうものであるかという批判がここにあります。

「賄賂を取ること」は、高い地位と権力をもつものがそれを乱用することによって、社会財全体を減少させることによって得る不正利得であり、まことに共同体全体に対する背信行為です。

そして、買収の問題は、イスラエル社会では、裁判における偽証と深く関係していました。それはまさに、相手の名誉を傷つけ、生命の危険に陥れ、共同体の秩序を崩すものとして厳しく禁じられました。

ここに示された基準で、直接祭儀に関わる問題は一つもありません。祭儀という礼拝行為に関わるのに、外面的な犠牲の動物の要件を吟味するのでなく、宗教と生活、礼拝と日常倫理の関係の一貫性を問うところに、聖書の宗教の特徴があります。福音は、単に日曜日の礼拝のときだけ聞くべきものではなく、その生活全体の中で聞き、そこに委ねるトータルな生き方の問題として聞くべきものであることがここで教えられています。神礼拝は、そのような生の在り方をいつも新しく問う場です。この詩篇はこれらのことを明らかにし、「これらのことを守る人は、とこしえに揺らぐことがないでしょう」といって結ばれています。

「揺らぐ」とは全宇宙の破局を言います。それは、イザヤを襲ったような、生の根底からの動揺、破局を言います。正しい者、義なる者にはそれがない。この保証の言葉は、ヤハウェの聖所に一時的に留まりうるとの許可をはるかに超えて、その全存在にゆるぎない安定性と確かさを与えてくれる言葉です。

旧約聖書講解