詩編講解

6.詩篇第6篇『嘆きの祈り』

この詩篇第6篇は、32、38、51、102、130、143篇とともに、「七つの悔い改めの詩篇」として古くから数えられてきました。アウグスティヌスの時代には、既に教会で特別に纏められ、灰の水曜日*に用いられてきたと言われています。しかし、この詩篇には悔い改めの主題は余り目立ちません。確かに、この詩篇においては罪の告白は全く欠如しています。ここには神の怒りの重さと地上の存在のはかなさを背負う人間がいる、とクラウスという注解者は述べております。また、クラウスは、この詩には神から離れることと神に赦されることとのあれかこれかの真剣な決断の教えがある、とも述べております。

*四旬節の最初の日、この日、信者は前年の受難の主日(枝の主日)に祝福された枝を燃やしてできた灰を額や頭に受けて回心のしるしとする「灰の式」が行われる。灰は古代から悔い改めのしるしとして用いられてきた。初期のキリスト教会もこの習慣を受け継いで悔い改めの儀式として行っていた。)

この詩篇は、個人の嘆きの祈りです。4連から成り立っており、最初の3連において、嘆きと願いが交互に述べられ、最後の第4連において、願いが聞き届けられたという確信によって、祈り手は新たな力と希望を得ています。この詩篇の作者とその境遇について詳しく知ることはできませんが、この詩篇の作者は、自分の願いが聞き届けられたことを確信したあと、祭儀の場でこの詩を唱えたと思われます。そのことは9節以下のことばから推察することができます。

わたしたちは、この詩篇から祈りとは何かを学ぶことができます。この詩篇において、第一に、祈りとは、生の究極の方向に向かうことであることを教えられます。第二に、祈りとは、自分の有り様をありのままに申し述べることである、と教えられます。第三に、祈りでは、自分の願いと訴えとを正直に述べることが許されていることを教えられます。第四に、祈りとは、全く相手側(神)の真実に信頼する営みであることを教えられます。第五に、祈りとは、神の御言葉と意思に自分を明け渡すことであると教えられます。第六に、祈りは、恩恵の出来事を素直に、力強く繰り返し賛美することであることを教えられます。そして、最後に、祈りとは、神の御言葉によって確信に至ることであるということを教えられます。

この詩篇の第一連の2-4節は、神への叫びと哀歌です。

神の怒りに打たれている者は、滅びの中にあります。だからこそ作者は「主よ、怒ってわたしを責めないでください」と祈っているのです。この言葉によって彼は、自分が神の処罰に値することを認めています。そのようなものにとって、自分の無実を申し立てることによって、神の救いを仰ぎ見ることはできません。残された道はただ一つ、ひたすら神の恵みと憐れみのもとに逃れてゆく以外にありません。この詩人は、自分が神の審きのうちに置かれていることを知っています。しかし彼は同時に、この神こそ自分に残された唯一の希望であることも知っています。だから、惨めな自分の姿を自覚するたびごとに、彼は神に向かって腕を差し延べて祈り続け、神に叫び続けるのです。

「主よ、いつまでなのでしょう」(4節)という問い掛けの言葉は中断されています。この中断が詩人のこれ以上言葉にならない、苦痛と悲嘆の極まりを示しています。

第二連の5、6節では、救いを求める祈りが新たな形ではじまります。ここで詩人は差し迫った死の問題を考えています。しかし、この詩人の心を衝き動かしているのは、単に生きていたいという人間的な欲求だけではありません。「あなたの慈しみにふさわしく」ということばには、さらに深い意味が込められています。これは、訴えの基礎としての信頼の告白を現す言葉です。

神の「慈しみ」は、契約の愛を表すヘセドというヘブル語です。神の「慈しみ」とは、あふれるばかりに豊かな愛であり、永遠に変わらない愛です。

わたしたちの訴えと究極の救いの願いとは、実に、この神の慈しみの真実さにかかっています。彼はいかなる代価を払ってでも、生命に固執するというのではありません。神の恵みが彼の身に生きた事実となって表され、それによって彼の魂が罪と負い目の重みを越えて引き上げられていくこと、これこそ生にとって絶対不可欠な要素なのであり、真の救いはこのこと以外にあり得ない、と彼は信仰の目でその事実を見つめているのです。

ここでは自分の生だけでなく、同時に神が問題なのです。生きて働く神の摂理と本質とが、自分の運命を通して幾分なりとも人の目に明らかにされるか否か、この詩人にとって決定的なのはまさにこの一点にありました。

この詩人の祈りの根底にある動機は、死ねば神との生きたつながりを失うのではないかという不安です。神を想い、神を讃える幸福が、永久に奪い去られてしまうのではなかろうかという不安が、彼の心の奥底に存在します。

また、この詩人は神の支配が宣べ伝えられることを重視しています。6節の「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず」という言葉には、神の支配が宣べ伝えられるためには、神の支配を体験することを許された人間が語る以外に、どんな方法がありえようか、という詩人の洞察があります。死においては、そのいずれも不可能となります。ここで大切なのは、生命の確信と信仰の確信とが互いに不可分に結びついていることです。

7、8節の第三連において、詩人は再び嘆きの淵に沈んでいきます。古代近東の哀歌と同じく、詩人は自分の悲惨な有り様を誇張して表現しています。しかし、それ以外に、詩人は自己の苦悩を漂白する術を知らないのです。涙が床に溢れ、寝床が漂うなど現実にはありえないことです。しかし詩人の悲嘆は、そういわざるを得ないほど強烈なのです。「衰え」を表すアーシェーシャーというヘブル語は、しみに食われてぼろぼろになるように廃物化することを意味します。ここでは長い間の悩みの連続と、幾度となく涙を零(こぼ)した末に、詩人の両眼は消耗し、弱り衰えたという意味で使われています。

しかし、第四連の9-11節においては、苦痛と苦悩に疲れ果て、弱り衰えた人間の姿は見当たりません。今や、疲れと絶望の嘆きに代わって、泰然自若たる人間の言葉が語られます。苦痛と苦悩に疲れ果て、弱り衰えた人間は、今はなく、同じ人間が、今や歓喜に満ちあふれて賛美を歌うのを聞きます。

いったい何事が生じたのか、その間の経緯について、この詩は何も語っておりません。第三連までの詩人の祈りに応えて、祭司がその間に何か特別な、救いの託宣を告げたとも思えません。この転換は、詩人の内的な祈りの過程の中で起こりました。祈りが聞き届けられたという確信は、詩人が自分の手で生み出しうるものでありません。

この確信は神の贈り物なのです。ただ神のみが、ここで生じた出来事の主体です。神によって与えられたこのような信仰の確信がいかなる力を生み出すか。それは、祈り手の身に生じた全き変化のうちに余すところなく示されています。今や不安と絶望にとって代わるのは、生に対する新たな勇気と毅然たる態度であります。この確信によって詩人の心は奮い立ち、今まで彼を脅かしていた敵の圧迫からたちまち自由にされました。信仰の確信はさらに深いところにまで及んでいきます。詩人は、祈りが既に神に聞き入れられたことを確信するだけでなく、今後も常に神が祈りを聞いてくださることを確信するのです。

こうして祈り手は、神とのつながりを支える強固な基盤を与えられ、その基盤の上に立ってゆったりと未来を眺めることができます。

しかし、彼に信仰の確信をもたらしているのと同一の出来事が、彼の敵にとっては恐怖となります。彼らは恥じ入って彼の前から退却するほかありません。

11節では、このことが祈り手の率直な意見として語られています。この言葉は、神の業は彼とともにあり、敵に対してもまた、彼を通して神の業がなされるであろう、という信仰の確信が表明されています。詩人はこの確信に立っているので、この詩人の敵を見る眼差しは穏やかです。敵の不幸を喜ぶ底意地の悪さや、憎しみや、激昂のあとが少しも見られません。神によって与えられた信仰がいかなる倫理的な力を生み出すか、これによってその一端を知ることができます。このような信仰は、人の心を浄化し、その内奥において人を自由にします。

旧約聖書講解