詩編講解

2.詩編2編『主に油注がれた王』

詩篇第2篇、殊に7節は、新約聖書がイエスと結び付けて解釈している大変有名な詩です。この詩編は、元来、王の即位式の祭りのために作られ、祭儀の中で朗唱されたと思われます。作者が誰であり、またこの詩を即位の布告の一つとして唱えた王が誰であったのか、そのいずれも分かりません。ダビデより後の時代に、エルサレムでユダの王が即位する際に作られたものであろうということ以外、何も分かりません。

この詩は四連からなります。第一連は王たちの反乱が歌われます。第二連はこれと鮮やかに対照させられた天に座したもう神の崇高さが歌われています。第三連は神自身による王の任命と、それに付随する約束とが歌われています。第四連は、地の王たちに対する勧告がなされ、世界の主である神が怒りによって彼らを滅ぼしてしまわないうちに、速やかに屈伏せよと語られています。

第一連冒頭に、「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか」と、諸国民とその王たちの反乱の場面が劇場的表現を用いて歌われています。古代オリエントの大帝国において、権力ある支配者が死ぬと、諸国は動揺致しました。隷従を強いられてきた諸国民の間に、自由を求める機運がにわかに高まりました。なぜなら、王位交代の時期こそ、隷属を強いられてきた者がその隷属の絆を断ち切る絶好のチャンスであると考えたからです。それゆえ、即位の際に新しい大王がまず手を打たなければならない火急の任務は、臣従している諸国や諸国民の反乱を鎮圧して大帝国の勢力を固め、基礎を据え直すことでありました。この詩の下敷きになっている具体的なイメージは、そのような古代オリエントの大王の即位式の場面です。

この詩は、イスラエルとその神ヤハウェによる異国の支配を脱却することを諸国民とその王たちがもくろんでいると歌います。しかし、イスラエルの王によるこのような世界支配は歴史上存在しません。だから、その実例をイスラエルとユダの歴史に求めても無駄です。したがって、現実には取るに足りない一小国家にすぎなかったイスラエルを、詩人がこのように世界大の枠組みにまで拡張して述べているのは、古代オリエントの大帝国における宮廷様式と王の祭儀を模倣したためであるとしか説明がつきません。このような文体様式がオリエントの宮廷で用いられた例は、アッシリアやエジプトの碑文にも見られます。その影響が見られるのは世界大の枠組みについてだけではありません。イスラエルの宮廷詩人がオリエントの王の伝承を拠り所にしていると思われる特徴が伺われます。文体や内容の上で、いわゆるエジプトの「王の物語」との類似点が見られると学者は指摘しています。

しかし、弱小国イスラエルが世界支配の理想を実現するきっかけに恵まれたことは、歴史上一度もなかったのです。それゆえ、このように堂々と主張するのは、腑に落ちない、身分不相応なやり方ではないかという批判がなされるかもしれません。歴史の事実にだけ目を向けると、世界史の主である神が出来事の背後にあって事柄を支配しておられるという事実に少しも気づきません。けれども、この詩人は、ユダの一人の王の即位によってもたらされた歴史の小さな一つの出来事においてすら、世界史を司る神の見えざる手と御心とを見て取っています。それは、この詩が捧げられる祭儀においても、見えざる形で常に臨在される神です。

ここで歌われるシオンの王とは、神に膏(あぶら)注がれた者、即ち、メシアです。そして、その王は天におられる主の御翼の蔭に守られて立っています。これは、信仰の確信から来る見方です。こうした確信は、一方で、神に対して謙虚にへり下るという側面と、もう一方で、神によって引き上げられるという、二つの側面を同時に含んでいます。そして、この根本的な動機がこの詩全体を貫いています。詩人はこの視座に立って歴史を見、歴史に対する断定を下します。祭儀の根本思想に即応するこのような神中心の観点に立っておればこそ、詩人は、王の即位の出来事を世界大の視野の広がりにおいて見てゆくことができるのです。

こうして、この王の即位式の全体像は、新たな救済史的な意味を獲得するに至ります。歴史の中心点は列強同士の攻防戦にあるのではなく、神自身にあります。実にこの神においてこそ、人間の力はその命運を決せられるのです。詩人がこの観点に立つとき、この世のいかなる力の台頭も、はじめから神に対する人間の反抗として映ります。神に刃向かう以上、彼らの末路は知れています。諸国民の暴動がむなしい企てだと言われる理由は、それが神に対する反抗だからです。異教徒には見えないものが、この詩人には見えているので、この無駄な行為に「なにゆえ」と問うのです。この詩全体を貫いているのは、神の力と人間の力の対立の啓示です。最初の二連が天と地の著しい対象を示しているのも、このような信仰の認識に基づいています。

4-6節の第二連において場面と調子は一変します。

ここで地上の騒乱と、天上の崇高な静けさが対照され、無力な地上の王と天上の王たる神の圧倒的な力が対照されています。人間は自分の置かれている現実を正しく見極めるためには、主なる神との関係のうちに据え直してみる必要があります。一切の人間の業を凌駕する圧倒的な神の力を知ることによって初めて、人間には落ち着きと、真の勇気と、静かな確信が与えられます。その心境は、天上から笑いと嘲りとをもって人間を見下ろしておられる神の荘厳な姿のうちに描き出されています。この詩人の穏やかな確信は、神自身の天上での崇高な静けさを反映しています。

この詩に歌いあげられている神は、生きて働きかける神です。ご自分を無視する者、反逆する者に、それに相応しい審きをされます。第二連の終わりの言葉は、遠くから迫る審判の不気味な雷鳴のように響きます。神ご自身がシオンの山で任命し即位させた王に逆らえばどういうことになるか、恐怖に震えながら諸国民は思い知ることになります。ですから、新しい王の即位の祭儀に重みを与え、その歴史に重みを与えるのは、神御自身にほかなりません。

7-9節の第三連において、王の口から「神の布告」が告げられています。これこそ王の統治に正当性を与える基礎です。神の子としての資格と権限は、ヤハウェ自ら語る言葉によって確約されます。この神託の形式も古代オリエントのやり方に基づいています。それは、カナンを媒介にしてエルサレムの王の祭礼にまで取り入れられた可能性があります。古代オリエントにおける神の子という考え方は、王の神格化を意味していました。王は、神によって生まれた実の息子と見なされていました。

しかし、このような血肉的な神の子という考え方は、旧約聖書の神観とは相入れません。だから、詩人は「わたしはお前を生んだ」という異教宗教の表現をそのまま採用しているにもかかわらず、「今日」という言葉を付け加え、血肉のつながりという考えを否定し、それが養子縁組によって成立するという考えを示しています。王が神の子としての身分を与えられるのは、血肉による誕生、血縁の連続を基礎とするのではなく、王の任命の日に、子としての宣言が発せられることによります。ここでは、人間としての王が問題なのではなく、王としての任務がこれによって特別な重みを与えられるということが重要な意味を持ちます。旧約聖書における王の職務は、真の支配者たる神の御心を地上において体現するためのものであるという性格が明らかにされています。ここでは、神が王に与えた子としての権限は、父である神の意思を行う子としての従順を表す手段として理解されています。

ですから、王は神に恵みを祈り求めることが許されています。それに答えて神は諸国民と土地とを、彼の相続として与え、敵を審く権能を授けています。第一連と同様、ここでも詩人は、諸国民に対する勝利と世界支配という世界史的な規模の枠組みを、古代オリエント文化から借用しています。しかし、古代オリエントでは、神託を通して神の加護が約束されることによって、王たちの権力追求に拍車がかけられ、その力点は、あくまでも人間の歴史の内部の出来事に置かれていますが、旧約聖書では、シオンの王権という歴史の内部の出来事が歴史を超越しつつ、またその歴史は、その空間と時間的を完全に包括する神の御心を体現するものとして認識されています。言い換えれば、この地上の出来事こそが、全宇宙的、時間的な終末論的な神の審きを指し示す見取図にされているということができます。強調はどこまでも神の御心にあります。歴史の出来事の中に永遠の神が介入してきて、これに終極的な意味と枠組みとを与えるのです。オリエントの神託はこれと似たような表現が見られますが、その内容はどこまでも人間の権力欲を表すものでしかありません。しかし、旧約聖書においては、世界の審判者である神の力が、信仰の大胆なヴィジョンを通して証しされています。神は人間をその御心の下に屈伏させ、歴史の真っ直中で、来るべき神の王国への展望を開かれます。一見誇張されていると見えるイスラエルの歴史と、旧約の祭儀伝承の中で、神の奇蹟的な力に対する力強い信仰の在り方が示されています。

10-12節の第四連において、詩人は諸国の王に対する勧告によって再び出発点に戻ります。シオンの王の背後に隠れて立っているのは、活ける現実として働きたもう神です。神は世界の真の支配者として、すべてを御心によって治められるお方です。この詩全体の焦点はここにあります。諸国の王たちは、このことを悟って、理に適った唯一の結論を引き出すことが求められています。それは、全能の神に臣従し、おそれとおののきをもって主に仕えることです。バビロニアやエジプトでは、忠誠の誓いを表すために足に接吻する習慣がありました。それゆえ、「子に口づけせよ」という訳は適当ではなく、「彼の足に口づけせよ」が相応しい訳です。

第四連ではもはやシオンの王についてひとことも触れられていません。このことは、この詩の主眼点が歴史状況そのものにあるのではなく、あくまでも神中心の見方にあることを示しています。この詩が明らかにしようとしていることは、結局、一番大切なのは、神が世界の支配者であるという事実を認めることです。そして、神を恐れて生きる者だけが命を保ち、神を恐れない者は、神の怒りにさらされて、ついには、「道を失い」滅び去ります。

この詩人の目に最後に映っているのは、具体的な歴史の出来事ではありません。神自ら人間に対して掲げておられる問いです。この詩の目的はただ一つです。神こそ主であることを示し、全てのものに主であることを認めさせることです。神の怒りは、神を蔑む者たちを脅かします。しかし、神の保護を求める者たちは、神の救いを待ち望みます。ここに古代オリエントの王の即位式の詩と、詩篇を貫く基調音の違いが明瞭となります。詩篇に聖書独自の刻印を与え、歴史の出来事を宗教儀礼行為において拡大して決定的な終末の出来事にまで高めているのは、まさに、世界の支配者たる神への絶対的な畏れです。メシア的な意味で理解されているこの詩の言葉を、新約聖書がイエスと結び付けて解釈していることも、このような見地からのみ理解できます。

旧約聖書講解