詩編講解

1.詩編1編1~6節『二つの道』

詩篇は幸いの賛美を持ってはじまっています。人生の方向を示す道しるべとして、詩篇1篇は、詩編全体の序として置かれています。この詩は、はじめからこの詩編集の序として作られたものではないらしいのですが、人生の道しるべを与え、「あれかこれか」の決断を促す、その教育的な基調音が、形式と内容に貫かれているために、編集者は詩篇全体の序として、この詩を冒頭に持ってきたと思われます。

この詩篇は、しっかりとした宗教的な基盤のうえに立つ、実践的な信仰の人生知が息づいている歌であります。

全体は三つに分けることができます。第一は、1~2節で、二つの道が対照されています。第二は、3~4節で、二つの具体的な比喩を用いて、神を信じる者と神を信じない者との本質と価値についての作者の意見が述べられています。第三は、5~6節で、神の審きの最後の言葉が述べられています。

この冒頭の「いかに幸いなことか」という祝福の挨拶の言葉は、山上の説教における主イエスのことばを思い起こさせます。この詩篇は神を信じる者の幸いと神を信じない者、神なき者のわざわいとの著しいコントラスト示すことによって貫かれています。

まず、罪に至る三つの段階が示され、その三つの段階に、「歩まず」「止まらず」「座らず」という三つの否定的態度を取ることの中に、正しい者の立場があることが明らかにされています。

人が神なき者の道を歩む第一段階は、「神に逆らう者の計らい」つまり、その計りごと、勧めに耳を貸すことからはじまります。人類の祖先アダムとエバは、神の言葉よりも、誘惑者のことばに耳を貸すことによって、罪を犯す者への道を歩み始めました。神なき者の甘言に耳を傾け、その歩みを共にして歩み出す、そこに罪への第一歩がはじまります。罪にどっぷり漬かる、罪に親しむ悲惨な生活が歩み出します。

神に逆らう者と歩み出した者は、やがて、その罪ある者の道に安住を見出し、その道に「止まる」のです。罪の道に立ち、そこに止まり続ける。罪のうちにある神に逆らう性質がその人の本質に段々なっていきます。

そして、最後には、神に逆らう傲慢な者の座にどっぷりと「座り込んでしまう」ほどに、罪の生活に馴染んでしまう、ここに罪人の道の最も大きな悲惨があります。眼に見えて罪の生活が加速されるように映るのではなく、罪の中に徐々に浸透し、離れがたく沈潛していくのです。座り込んでしまうと罪から離れるために立ち上がれなくなってしまうのです。罪の持つ恐ろしい姿はそういう形を取ることにあります。

そのような罪への誘惑者、神なき者、人生の偽りの導き手に対して、2節には正しい導き手は「主の教え」だと告げます。「幸いな道」は罪の誘惑者、神に逆らう者への消極的な拒絶という態度で貫けるものではありません。人間は誘惑に弱く負けやすいのです。その罪への誘いを断ち切ることができるのは、結局のところ、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」となる積極的な道を選択する以外にありません。

愛は慕う心からうまれます。主の教えを心から慕うのです。そして、恋い慕う者は、恋い慕う対象に向けて、その思いを口に出し、叫び求めるのです。そのように、主の教えを心で愛するだけでなく、わたしたちは主の教えを昼も夜も口ずさむことによって、その愛のうちに生きるものであることを確かめ歩むのです。

主の律法は、重いくびきではなく、神の祝福の道を歩む道しるべであり、喜びの源泉なのです。旧約時代の主の民にとって、律法、主の教えとは、決定的な神の御心を平易に表現したものであり、人生を確実に導いてくれる羅針盤でありました。

それは、同時に、人の生をつかさどる神への全き信頼をあらわす頑丈な命綱でもあったのです。だから、「その教えを昼も夜も口ずさむ」とは、律法に関する知識を外面的に身につけるためではなく、我が身を常に神の御心のもとに置き、いかなる時も全身全霊を神の御心に浸らせよ、という命令です。わたしたちの全存在をそこに委ねきり、浸りきらせるなら、神のみ教えにしたがって歩むことがわたしたちの第二の天性となり、全生涯を満たす唯一の中身となるまでに、わたしたち自身の存在・本性が変えられるのです。

人間は個々の戒めを守れば、それで責任を果たしたような気になりやすいのですが、神の御心は、個々の戒めに示されるだけでなく、わたしたちの一つ一つの行いも生きる姿勢全体もひっくるめた、丸ごとの人間に対する要求として立ち現れているのです。このことは、神の御心の本質に属する事柄として明らかにされています。

神の御心に従う全き姿勢があれば、神の教えに対する心からの喜びが湧き出ます。わたしたちは主の教えを絶えず愛し、昼も夜も口ずさむ歩みをする中で、神の御心にかなった実のある人生を送ることができる、この詩篇の詩人はそのことを高らかに歌い上げています。

そして、3節において神の御心に深く心を置く信仰者の姿を流れのほとりに植えられた木にたとえられて語られています。亜熱帯性気候のパレスチナでは、せっかく繁った葉が夏の熱さや日照りで枯れてしまうことが多い。しかし、水路の辺に植えられた木は、そのような時にも何時も青々と豊に葉を生い茂らせ、実を結ばせていることができます。信ずる者が神に聞き従う生涯を通して見出す本質と価値はそのようなものであると、この詩人は歌い上げています。

「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」という言葉は、実に強烈な楽観主義を歌う言葉です。しかし、もしこの楽観主義が報いを期待する御利益信仰に堕落するなら危険です。律法を守ることによって、神と取引するような誤った律法主義に陥った例は後を立ちません。この詩篇の詩人が持つ楽観主義は、神を蔑ろにしたり、人間の要求を神に押しつけたりする厚かましい態度から来るものではなく、純粋な信仰の姿勢から生み出された勇気に基づくものです。神が神でありたもう限り、神の御心を行う人間のわざが失敗するはずが金輪際ない、この詩人は成功その者のうちにではなく、神に対するこの喜ばしい堅忍不抜の確信を持って断言することができるのです。この喜びに至る唯一の道は、信仰に立つ服従の生き方以外にはありません。

詩人は、この点で「良い木が悪い実を結ぶことはない」(マタイ7:18)といわれた主イエス立場に立っているのであります。

これと対照をなす神なき者の生涯の無価値な結末が4節において、風に吹き飛ばされる籾殻の譬えで語られています。パレスチナでは、刈り入れがすむと、村はずれにある小高い場所に設けられた脱穀場で、脱穀そりで引きながら「打穀して」いきます。そうすると、穀物は穂からもぎ取られます。その後、農夫はごった混ぜになった穀物を吹き分け用の箕で空中に放り上げます。穀物の中身は重いので地面に落ちますが、つぶされて籾殻になった藁屑や穂の空莢(からふや)は、風に吹き飛ばされてしまいます。神を信じない者たちの営んでいる神なき生活は、詩人の眼には、ちょうどこの籾殻のように空しい、無価値で、無内容なものと映ります。このような信仰を持つ者にとっては、神こそが文字通りすべてであります。人生から他の何が得られるにしても、またそれが人の目にいかに魅惑的に見えようとも、神に比べれば無でしかありません。この詩篇の詩人は、こう結論を下すのであります。

「主の教え」から、現実を深く見るものにとって、神を信じる者と神を信じない者の本質と価値は、現在の時点で既に明瞭です。そうであるなら、神が審きに臨みたもう未来の時に目を転ずれば、その差はいっそう明瞭となります。「主の教え」に従って、この将来を見通す信仰の目を持つことが大切です。神の前で真摯な態度で「主の教え」に服従と信仰をもって歩む歩みこそ、神の前における人間の幸いな真実な唯一の生き方であると、この詩人は語るのであります。

旧約聖書講解