エレミヤ書講解

63.エレミヤ書50章1~20節 『バビロン滅亡とユダの回復』

50、51章はバビロンに向かっての預言が記されています。その長さ、諸国民に対する預言の最後に来ている点から考えても、バビロンの持つ重要性がうかがえます。この二つの章は、バビロンの滅亡とユダの回復をテーマに、その内容が繰り返されていますが、主題に関する内的な発展は見られません。

また、これらの預言がエレミヤ自身のものであるかどうか問われる必要があります。なぜなら、これまでエレミヤは、バビロンへの服従こそ神の意思に沿うものであると、王と民に向かって語り、反対に、バビロンの支配は長く続かないと語る預言者を、偽預言者であると批判してきたからです(27:14、16)。

だからといって、エレミヤはバビロンの支配が終わることをまったく語らなかったわけではありません。エレミヤもバビロンの終焉を語りましたが、それは早くは来ないと語っていました。三代のち(27:7)、あるいは70年後(29:10)になるであろうとエレミヤは語っていました。その期間は、捕囚として連れ去られた世代で祖国に戻ることが出来る者が一人としていないほど、神の裁きが徹底してなされるということを意味していました。エレミヤは、決して、安易な救い、慰めを語りません。それゆえ、民は、その裁きに徹底して服し、神が憐れみを示される終わりの日までそれを耐え忍び、その彼方から与えられる神の救いの日の来ることを待ち望む信仰が求められました。エレミヤの預言は、そうした信仰をもって耐え忍ぶ者たちに向けて語られていました。

51章1-20節の言葉は、既にエルサレム神殿が破壊されてしまった前587年より相当経た時期を指し示しています。しかし、バビロンを倒したペルシャについての言及がないので、それ以前のものであると考えられます。いずれにせよ、人々の予想に反してバビロン捕囚の時期が長引く中で語られた預言です。少なくとも、捕囚から25年以上経過していたでしょう。それは、捕囚体験を持たない世代が育ちつつあり、その記憶も徐々に薄れ、祖国への復帰を望まない新しい世代が芽生えつつある時代でもありました。バビロンという異教的な環境を享受し、新しい民として生きようとする者さえ現れても不思議ではありません。しかし、そのバビロンの繁栄は真の神に対する信仰をもとにしたものであるなら、いつまでも続くかもしれませんが、自らの傲慢と偶像宗教を土台としたものである限り、たとえバビロンを「主の僕」として一時期ヤハウエに用いられることがあったとしても、永遠に続くことはありえない、との考えがこの預言には示されています。

この預言をバビロンに対する復讐心や憎悪の反映と理解すべきではありません。勿論、そういう期待を抱く者たちもいたと考えられます。しかし、民の中には、バビロンの異教文化に憧れ、これを享受しようとする人々もいました。

この預言は、そのような時代の中で、世界と歴史の支配者は主なる神であるということを示そうとしています。あの強大なバビロンといえども歴史を永久に支配するものではなく、神の器としてイスラエルの罪を裁く「しもべ」として用いられたにすぎない。その役割を終えたとき、バビロンもまたその所業に応じて審きを受けることになる。こうして、すべてのものが神の裁きに服する。終わりのときに確立するのは、神の正義のみである。真の神の民は、その審きの厳しさ長さを嘆くことなく、また、異教的な文化や習慣に流されることなく、主の正義の実現を信じ希望を抱いて今の時を耐えよとのメッセージが、この預言にはあります。このような神学的理解をエレミヤも勿論持っていました。しかし、ここでその考えを表明しているのは、エレミヤ自身ではないでしょう。ここには、捕囚時代が長引く中で、捕囚の民の信仰の揺らぎを見、その危険を感じたグループが主の報復による解放をエレミヤの口を借りて語っている、可能性を否定できません。

彼らは次のように考えました。もし、エレミヤ書にバビロン滅亡の預言、すなわち神こそが究極の裁き主としてバビロンをも裁くのだという預言がかけていたならば、エレミヤ書は極めて危険な書になるかもしれない。なぜなら、エレミヤが地上の最強の帝国への服従のみを一方的に説くだけであったなら、帝国の行為を神の意思と短絡的に同一視する誤った理解を導く危険がある。現に、バビロン育ちの新世代の中にその危険が芽生えている。また、エレミヤが神の民の滅亡だけを語ったのであれば、その破局をくぐり抜けて向こう側に備えられる救いへの希望を民が見出すことを失わせることになってしまう、と。

やがて終わりの日に主なる神がバビロンを裁いてくださるとのこのメッセージを、エレミヤに由来するものと理解する時、エレミヤの預言は、苦難にある者を励まし、偽りの反映に酔いしれる者を警告し、真の神のみを信頼し希望に生きる信仰へ導くためのものであった、と理解することができるからです。

しかし、エレミヤがこの預言が記される時代まで生きたとは考えられません。エレミヤが最期を迎えたのはエジプトです。だから、この預言がエレミヤに由来するものとは考えられません。それでもなお、この預言が示す、エレミヤの預言の目的は、審きにはなく、救いであるという理解は真実です。エレミヤは決して悔い改めを語ることなく、審きのみを語りましたが、その審きの言葉を聞き、民が救われるのを期待していたという理解も真実です。

この預言の背景にあるこうした問題点を念頭に置きながら、50章1-20節の内容を理解するようにつとめたく思います。

「カルデア人」(1節)は、旧約聖書ではバビロン帝国を築いた民族を指しています。

2節に、バビロンの滅亡を公然と語れとの命令の言葉が記され、その圧政下では口にすることを恐れていたが、いまや神の力によって解放のときが到来したと告げられています。

「ベル」はヘブル語のバアルと同様「主」を意味します。それは、嵐の神エンリルの称号です。バビロンの神マルドゥクが一地方神から帝国の神になって、神々の上位に立ち、ベルの称号を持つに至りました。バビロンの滅亡は、その国家神であるベル・マルドゥクの敗北にほかならないと告げられています。

3節、北からの国が具体的にどこを指すかは不明です。かつてエレミヤは、エルサレムを滅ぼす北からの敵について語りました(6:22他)。しかしいまや、北からの敵としてエルサレムを破壊したバビロンが北からの敵によって滅ぼされるという、痛烈な皮肉が語られています。

4-5節は、バビロン滅亡による新時代の到来によって、神の民が再び統一されて主に立ち返ることが語られています。ここには31章の新しい契約についての預言を思い起こさせる言葉が用いられています。「泣きながら」(31:9)、「シオンへ」「さあ、行こう」(31:6)「永遠の契約」(31:31-36)などです。

6-8節は、羊と羊飼いの比喩によって、神の民が神から離反している姿が描かれています。4、5節の民の改心を語るのと対照をなしています。過去における民を、主を忘れて迷い出ている罪の中にあるものとして語られています。しかし、民が迷っているのは、羊飼いの誤った指導による、と述べられえています。それは、民を指導する王、祭司、預言者らを指していわれています。この誤った指導により、民は罪を犯し、敵の餌食となり、悲惨を経験した、と述べられています。これと同じ指摘がエゼキエルの預言に見られます。

ここでは、彼らを食いものにした敵は、神の民の悲惨な運命は自らの罪のためであって我々にその責任はないと言います。悲しいかな、敵のこの言い分は正しかったのです。

しかし、8節に、神の民に対するバビロンからの逃れよとの告知がなされます。そして、9-10節は、バビロンを責め滅ぼす諸国の勝利を告げています。11-13節は、バビロンの住民に向かって語られるバビロン滅亡の預言です。

かつてバビロンがエルサレムに対して行ったことが自分たちの身において起こるとの逆転が語られています。「主の憤りによって」という言葉が、重い意味を持ちます。単なる栄枯盛衰による強者の交代ではなく、バビロンの罪、傲慢が主の憤りを買い、主の裁きを招いたと語るのです。

14-16節は、バビロンを包囲する敵軍への指令です。バビロンが近隣諸国に容赦なく行ったように、そっくりそのままバビロンは仕返される。これは確かに主による復讐という面を持ちますが、復讐という次元でのみ捉えない方がよいでしょう。一つの国の罪だけを主が裁いたのではなく、イスラエルの裁きと諸国への審判の中でバビロンへの裁きが語られているからです。誰一人主の裁きの前から逃れることは出来ないという事実を見ることが大切です。

このバビロンの滅亡について語られている16節の言葉は、考えさせられます。農民が絶滅し、農地が荒れるまま放置されるなら、都市の破壊より遙かに大きな永続的な打撃をバビロンに与えることになります。農地を見捨て、戦争の悲惨を逃れて民が逃亡するなら、帝国は一瞬のうちに崩壊するからです。

17-20節は、イスラエルの回復についての預言です。特に、20節は、罪の赦しを告げています。捕囚の人々がたとえ故国に帰還しても、自らの罪の重荷に打ちひしがれたままであれば、希望と喜びを持って新たに生きることはできません。「もとの牧場に連れ戻す」(19節)という主の先行する恵みが表わされて、民は始めて連れ戻された地で「草をはみ」「心ゆくまで食べる」ことができます。そのような素晴らしい解放の喜びが、主の恵みとして与えられます。「その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである」(20節)と告げられています。ここには、厳粛な裁きを越えた赦しのメッセージが神の究極の意思であることが、明らかにされています。この恵みに与るために民に残された道は唯一つ、神に立ち帰り、神の恵みの導きに委ねて新しく歩みだすことです。エレミヤの審きの言葉は、このように恵みに生きる道へ導くために、語られていることを深く心に刻むことが大切です。

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