エレミヤ書講解

54.エレミヤ書37章1-10節『ゼデキヤの使節』

37章からエレミヤ書の新しい段階がはじまります。エルサレム包囲の時代からエジプトへのエレミヤ拉致まで預言者の運命が3人称で物語られます(37-44章)。37章は、「ヨヤキムの子コンヤに代わって、ヨシヤの子ゼデキヤが王位についた。バビロンの王ネブカドレツァルが、彼をユダの国の王としたのである」という記述ではじまっています。ヨヤキムはバビロンによって国が滅ぼされると語るエレミヤの言葉に耳を傾けない最も憎むべき王でありましたが、エルサレムがバビロンの攻囲にさらされ、最初の捕囚とされた王はヨヤキムではなく、その子コンヤ(ヨヤキン)でありました。それは紀元前597年のことです。ヨヤキンに代わってゼデキヤが王位に就いていますが、彼を王位に就けたのはバビロンの王ネブカドレツァルであったといわれています。ヨヤキンはわずか3ヶ月統治しただけで(歴代上3:16)、ネブカドネツァルは彼の叔父マッタニヤを後継者に指名し、名をゼデキヤ(「ヤハウエは正しい」という意味)と改名させました。

2節に、「王も家来も国の民も、主が預言者エレミヤによって告げられた主の言葉に聞き従わなかった」といわれていますが、ゼデキヤはその兄弟ヨヤキムと違って、エレミヤに対し、ある種の敬意や愛着を示しています。しかし、その王位継承の事情から、彼は臣下からも民からも敬意を表わされることもなく、政治的には無力なお王でしかなかったといえます。彼には一片の良心がありましたが、宮廷内にいる親エジプト派(ヨヤキムはエジプトによって王位に就けられていたが、そのヨヤキム王を支持していた残党)がなお大きな力を持っていて、彼らの強要や大衆の声や圧力に抗して自分の意見を貫き通すほどに勇気も性格的な強さも、ゼデキヤにはありませんでした。だから、エレミヤが彼に語った言葉は結局のところ何の効果も生じないままで終わることになりました。2節の言葉は、そのような弱い立場に終わったゼデキヤ王の性格づけをする意味で語られています。

ゼデキヤ王が遣わした使節は、シェレムヤの子ユカルと祭司マアセヤの子ツェファンヤであるといわれています(3節)。ユカルは38章1-4節によれば、王にエレミヤの死刑を要求した一人としてその名を連ねています。ツェファンヤは、29章25-29節の記述からは、エレミヤに好意的態度をとっていたことがわかります。ゼデキヤ王は、親エジプト派からも親バビロン派からも余計な勘ぐりをされないようにバランスをとって、この二人をエレミヤのもとに派遣したのかもしれません。ゼデキヤ王がエレミヤに依頼した内容は「主に祈る」ことです。その依頼は、ゼデキヤが預言者エレミヤを主の御旨を告げる重要な位置を占める人物とみなしていたということを示しています。

4節の「エレミヤがまだ投獄されておらず、人々の間で出入りしていた」という記述は、この出来事が「畑の購入」(32章)以前の時期にあたることを示しています。そして、5節のエジプト軍の進撃とカルデア(バビロン)軍のエルサレム包囲解除を語る記述は、この出来事が前588年のことであることを示しています。それは、バビロンによるエルサレムの町を完全に陥落させ、神殿破壊が行われる年の1年半ほど前であることを示しています。

バビロンによるエルサレム包囲という出来事は、民の不安が悔い改めの気持ちを生じさせ、奴隷を解放して主の御心が代わるのではないかという期待の信仰へと変化させるように作用しましたが、バビロン軍のエルサレム包囲が、エジプトからの援軍接近の報に接して解かれると、奴隷を所持していた地の民と呼ばれる地方の豪族たちは、34章で批判されている奴隷解放を破棄しました。このように国内の気分は、エジプトの援軍に大いに期待し、新たな解放の希望へと急変していましたが、ゼデキヤ王自身は、このような激しい状況の急変に、果たしてどうすべきか確信がもてなくなっていました。ゼデキヤは、エレミヤの語った深刻な預言を覚えていて(21章)、その預言に示されている恐れと希望との間に心が揺れていました。

ゼデキヤ王は、政治状況がより好ましい現在、エレミヤは神への執り成しの祈りにおいて、もしかしたらもっとよい知らせを受けるのではないか、という期待を抱いていたかもしれません。

しかし、この後、エレミヤが王のためにどのような祈りをしたかどうか何も記されていません。エレミヤが王の求めに応じて祈ったはずですが、書記のバルクもエレミヤ書の編集者もそれがどのような祈りであったのか何も報告していません。ただこのとき告げられた主の言葉だけが記されています。

王とその軍隊に期待するあらゆる希望は打ち砕かれることを、エレミヤに臨んだ主の言葉(7-8節)は明らかにしています。エジプトにより頼んでも当てにならないことを、これまでもエレミヤは語ってきましたが、ここでもそのことを明らかにしています。エジプト軍が本気でユダとエルサレムを助けるためにやってくることはなく、エジプト軍がエジプトに帰り、バビロン軍が再びやって来てエルサレムを占領し、都には火が放たれ、徹底的に破壊されることをエレミヤは明らかにします。エレミヤは、「カルデア軍は必ず我々のもとから立ち去ると言って、自分を欺いてはならない。カルデア軍は決して立ち去らない。」(9節)と告げています。バビロン軍の一時的な徹底を決定的な解放への第一歩とみなす者は、「自分を欺く」危険な自己欺瞞として糾弾されています。主はエルサレムの町をバビロン軍に引き渡す決意を変えられていないのです。

エレミヤにはこの確信があるので、「たとえ、お前たちが戦いを交えているカルデアの全軍を撃ち破り、負傷兵だけが残ったとしても、彼らはそれぞれの天幕から立ち上がって、この都に火を放つ。」(10節)と語りました。どんなに途中奇跡的なカルデア軍に対する勝利の出来事、「カルデアの全軍を撃ち破り、負傷兵だけが残る」という非現実的な事態が起ころうとも、その負傷兵だけでも、エルサレムに火を放ち町の破壊という目標を達成されることをエレミヤは告げています。カルデヤ軍に勝利することが非現実的なら、残った負傷兵によるエルサレムの破壊も非現実的事柄です。そのありそうもない不可能事から説明することによって、カルデヤ軍によるエルサレムの破壊は、主の意思として不可避なものとして受け入れるべきことをエレミヤは告げています。

民と王は、変化した現在のうわべだけの政治状況で判断して、そこに希望を置こうとします。しかし、その政治状況はこの時は、助けを約束しているように見えますが、決して十分に安全を保証してくれるような状況ではありません。それはどこまでも、自己の願望に基づく「自己欺瞞」の信仰から出てきた偽りの希望でしかありません。これに対して預言者は、唯一の神の圧倒的な力に信頼する土台の上に立っています。そして、預言者は神の示される御心を真摯に受け止めるので、神の言葉に対していつも揺るぎありません。エレミヤは、ヤハウエが今なお開けておられる最後の解決の道として、繰り返し降伏を勧めています。「イスラエルの神、万軍の神なる主はこう言われる。もし、あなたがバビロンの王の将軍たちに降伏するなら、命は助かり、都は火で焼かれずに済む。また、あなたは家族と共に生き残る。しかし、もしバビロンの王の将軍たちに降伏しないなら、都はカルデア軍の手に渡り、火で焼かれ、あなたは彼らの手から逃れることはできない。」(38章17-18)これが、エレミヤがゼデキヤ王へ行った実際の勧告です。

しかし、この時、そのような勧告が示されていないのは、バビロン軍がエルサレムの前にはいなかったということと関係があるかもしれません。いずれにしても、エレミヤに示されたこの神の言葉は、欺瞞的な政治的希望を砕き、王と民とがその期待のゆえに見過ごしている決定的な点を指し示しています。それは、悔い改めて神の言葉に聞きかないこの民を滅ぼすという主の意志は変わらないということです。主の裁きを審きを恐れをもって受けいれるべきことをエレミヤは告げています。それに聞き従おうとしない、自己欺瞞に生きる王と民には何の希望もないことを、エレミヤはエルサレムに下される審きの言葉において明らかにしています。

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