エレミヤ書講解

16.エレミヤ書9章1-8節『嘆きの歌』

9章は、再び、エレミヤの嘆きをもって始められています。この嘆きは内容から言って、8章18-23節とは異なる状況を前提にしていますので、独立したまとまりをなしていると考えられます。

預言者といえども他の人々と同じ一人の人間です。エレミヤは共感と共苦の心を持つ預言者であるということをこれまで述べてきましたが、エレミヤは常にそうであったと断定することはできません。彼もまた、イスラエルの宗教的・倫理的崩壊に対して憤懣(ふんまん)やるかたない気分になるときもあります。エレミヤは自分に課せられた務めに対して嫌気がさし、その嫌気がついに疲弊した諦(あきら)めに変わり、できることならその務めから逃げ出して、すべてのことから眼も耳も貸さずにいたいという気持ちでありました。エレミヤもまた自己の矛盾に喘(あえ)ぐ一人の人間であったのです。

エレミヤはしばしば孤独に耐えがたい経験をしました。しかし、そのエレミヤがここでは孤独になることを慕い求めているのです。今やエレミヤは、自分に与えられた預言者としての任務とその結果との間の余りにも大きな矛盾の故に、眼を向けて事態を見据えられなくなってしまったのです。

荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら
わたしはこの民を捨て
彼らを離れ去るであろう。(1節)

余りにも不真実に背信の道を歩み続ける民に嫌気がさしたエレミヤは、このように述べて、ついに、活動の舞台から退いて、荒野に退き、隠遁者として生きることを願いました。このエレミヤの願いは、エリヤの逃避行(列王上19:9以下)とよく比較されます。しかし、エレミヤの事情も動機もエリヤの場合と異なります。エリヤの場合、迫害に遇うことを危惧しての逃避であり、死を願うものでありました。しかしエレミヤの場合、吐き気を催すほど大きくなった人間への憎悪が、彼に孤独への逃避を考えさせたのです。ですから、このエレミヤの心情は、むしろ嘆きの詩篇55篇と比較することができます。

「旅人の宿」は、荒野を行く旅人が休息するために建てられた建物ですが、厳しい荒れ野の自然からかろうじて身を守るだけの施設にすぎません。エレミヤは、エルサレムの雑踏を逃れて荒れ野の身を隠すことを願っています。エレミヤは、「わたしはこの民を捨て、彼らを離れ去るであろう」という、この孤独への願望は、預言者の言葉としては異常な響きを持っています。なぜなら、預言者は常に民と共にいて神の言葉を語り続けねばならない召命を受けているからです。だから、このように願うエレミヤは、ある意味で預言者として失格者となることを覚悟して述べています。

恐れとわななきが湧き起こり
戦慄がわたしを覆い
わたしは言います。「鳩の翼がわたしにあれば
飛び去って、宿を求め
はるかに遠く逃れて
荒れ野で夜を過ごすことができるのに。(詩編55篇6-8節)

このときのエレミヤの心情は、この詩編詩人のそれと近いものがあります。エレミヤは民の罪のはなはだしさに耐えられないのです。契約の交わりにおけるヤハウェとイスラエルの民との関係は、夫婦の間柄に譬えることができます。夫は一人の妻に、妻は一人の夫に愛を誓い、生涯互いに貞節を守ることによって、結婚生活は円満に続けられます。結婚している者が他の男や女に心を奪われたり、その者のところに行くことは、結婚生活そのものを破壊する姦淫の罪であり、裏切りです。ヤハウェとイスラエルの民の間の契約関係は、このような結婚関係に準(なず)えられています。そして、これが預言者の民と神との関係を測定する定規でありました。

しかしながら、エレミヤがそのように民の罪を判定したからといって、実際、民から自分を孤立させて行くことが現実に可能かというと、そうではありません。それはできないのですが、だからといってエレミヤは現実にそこに止まることができないと思うほど、民の背信の嫌悪しているのです。このような不信から預言者を守るのは神御自身です。神はエレミヤの判定を正しいと認められます。

彼らは舌を弓のように引き絞り
真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる。
彼らは悪から悪へと進み
わたしを知ろうとしない、と主は言われる。(2節)

神はエレミヤの判定をこのように補って、この民のことばの不誠実は、全体が崩壊する典型的な兆候であって、しかもこの不誠実の根には神ご自身への認識の欠如があると語られています。この事実は5節においても、「欺きに欺きを重ね、わたしを知ることを拒む」と繰り返し強調されています。民の根本的、決定的な問題はここにありました。この場合、神認識とは、単なる知的な活動を指すのではなく、神に対する生の関わり全体を含むものです。生におけるこの基礎を欠いたところでは、人間同士の信頼関係も瓦解してしまいます。十戒は、神への真実は人間に対する誠実さの中であらわになるものであることを明らかにしています。主イエスもまた、そのような前提の下に、「小さき者にすることは、すなわちわたしにしたことである」と言われておられます。ここに表明されているのは、人間相互の間の信頼は、神への真実に基づくという聖書の根本思想であります。

人はその隣人を警戒せよ。
兄弟ですら信用してはならない。
兄弟といっても
「押しのける者(ヤコブ)」であり
隣人はことごとく中傷して歩く。(3節)

このように述べて、エレミヤは人々を誠実へと勧告することを完全に放棄しています。エレミヤのこのことばは、彼らの真実がどんなに深く堕落失墜してしまっているかを明らかにしています。エレミヤはヤコブの名を意図的にあてこすりにもちいています。不誠実は、あらゆる交わりを壊す力を持つということを、救済史的な考察によっておこなっています。この不誠実さの中にこそ、人間の罪とそれに対する神の審判とが、同時に現れ出ます。

「人はその隣人を惑わし、まことを語らない。舌に偽りを語ることを教え、疲れるまで悪事を働く」(4節)といって、エレミヤは信頼喪失の危機による共同体の崩壊は「舌に偽りを語ることを教え」る教育の結果であると見ています。ここに的をいた鋭いエレミヤの洞察があります。このような教育がなされる中では、自分の姿を真実に見つめることを失わせ、人間を虚偽の中にますます深くのめり込ませることになり、結局、罪の自覚と悔い改めへの力を失わせることになります。

エレミヤはまた、ことばによる暴力と人間の現実の暴力行為が一対になっていることも知っています。虐げと欺きとはひとつなのです。昔から偽りは、正義よりも権力を優先させる者たちの常套手段です。そしてこの偽る者たちは、神が真理と正義の神であるがゆえに、「神を知ることを拒む」のです。エレミヤは2節で神の口から聞いたことを、今や自分自身の体験によって、確認することになります。道徳的な頽廃はその根が宗教生活のより深いところに下ろしています。

これらのことから生じる帰結を引き出す神のことばが6~8節に記されています。神の審判において、人は火による検査にパスしなければなりません。人々はこのような審判をくぐって、試され、浄化されるのです。エレミヤに委ねられた「検査」の任務とは、神の命令を遂行することでありました。その場合、預言者としてのエレミヤの立場は神の道具になることです。そして、ここに来てエレミヤは、そのような神の命令を回避したいと感じているのです。

まさにその意味で言うなら、6節はエレミヤに対する神の命令を内容とする神のことばとして考えてのみ、正しく理解することができます。なぜなら、神はこのことばをもって再びエレミヤを神の預言者として連れ戻し、エレミヤが以前から与えられていた任務につなぎ止め、神の審判の必然性を彼に洞察させずには置かないからです。神はこのようにして預言者を神の審判の遂行に預からしめるお方です。これは私たちも心して聞かねばならない本当に大切なことばです。もし、私たちが自らに与えられている召命とその職務から離れたいという思いにかられた時、その与えられたところに私共を連れ戻すのは、私たちの再献身の思いではなく、召したもう神御自身のことばに預言者が聞かねばならなかったように、私たちもまたその職務へと召しておられる神御自身のことばによって励まされ促されてであるということです。エレミヤはこの主のことばを聞いたとき、以前受けた主のことばを思い起こしたに違いありません。そしてこの時、そのことばを再度把握しなおすことができたに違いありません。再献身の思いはそこから与えられるのです。

それゆえ、自分の持ち場から逃亡したい気持ちに支配されていたエレミヤを引き戻したのは、神のことばです。この神のことばが試練の中にあるエレミヤを再び神の預言者としての道に連れ戻し、彼を服従に導きました。エレミヤはそのように服従へと導かれることによって、彼の人間的な諦めの思いをはじめて克服させられたのです。エレミヤを振り返らせ、エレミヤが語らねばならなかった審判説教の必然性は神による必然性でありました。神はそのことをエレミヤに洞察させることによって、その困難な任務における新たな服従への支えと力を与えられるのです。御言葉を語り取り継ぐ者が、自ら語る説教の必然性が神によるものであることを知ることなしに、その任務を最後まで遂行することはできないことを深く思わされる御言葉であります。

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