イザヤ書講解

6.イザヤ書2:6-22『主の大いなる日における審判』

ここに預言されているのは、主の日における主の審判です。7節から判断すると、この預言がなされた時期は、戦争によってパレスチナの諸地域の莫大な財産が未だ減らされていないことが前提されているので、前735年のシリヤ・エフライム戦争以前であると考えられます。北イスラエルはヤロブアム2世、南ユダはウジヤ及びその後継者ヨタムの時代を迎え、両王国の領土を合わせるとかつてのソロモン時代に匹敵する大きさを誇り、経済的・政治的にソロモン時代を凌ぐほど発展していました。この両王国は、同盟策と貿易によって、発展を保っていました。

しかしその交流を通して、異教の偶像宗教が多くイスラエル社会の中に入ってきました。優れた外国の文化・経済・軍事力を目の当たりに見た民の中に、外国の経済・文化の発展は、その宗教の力によってもたらされる恵みであると考えるものも表れるようになりました。経済的、文化的、軍事的に豊かで強力になりたいという願望が、民を異教宗教の虜としてゆきました。だからといって、民は直ちに、主なるヤハウエとの契約の交わりを完全に捨て去ったわけではありません。どっちつかずの信仰をしていました。イザヤはそういう状況の中で、これらの言葉を語っています。

この預言は、祭儀に民が集まっていた時に語られました。民はイザヤにとりなしの祈りを期待していましたが、イザヤは、民の罪と不浄が余りにも酷いので、とりなしの祈りを口にすることができず、神に向かってヤコブの家に審判を下すように求めました。

6節の冒頭には、新共同訳聖書には訳されていない、「まことに」を表す「キー」というヘブライ語が用いられています。イザヤは、「まことに、あなたは御自分の民、ヤコブの家を捨てられた。」という言葉をもって、主の日の表される裁きを告げています。

6-9節において、エルサレムとユダの、宗教面の堕落のありさまが述べられています。

イスラエルは、主に選ばれ、主の民として、主との契約で結ばれていました。イスラエルは、自分たちを選んだ神を礼拝し、主の正義を行い、主の言葉に聴き従うことによって、主の祝福を約束されていました。それはイスラエルの特権であり義務でありました。しかし、イスラエルがこの特権と義務を忘れるとき、神によって捨てられることが、その契約において定められていました。

占いと偶像礼拝の罪が6節において言及されていますが、レビ記19章26節によれば、占いと口寄せは、血のついたままの肉を食べることと並んで禁じられていますし、申命記18章9節以下では、一切の魔術的なわざを放棄することが、イスラエルを他の諸国民から区別する目印となるとさえ言われています。魔術の力によって将来のことを探るかわりに、神の意志(主の言葉)に対する従順と神の約束への信頼とを確立すべきことが求められていました。

しかし、イスラエルは、自分の将来を確かめるのに、神が嫌われた占いに頼ろうとしました。「東方の占い師と魔術師」(2章6節)と言われていますが、「東方」は、アッシリア、バビロンを意味します。魔術的占いは、メソポタミアに起源を持ち、イスラエルにはペリシテ人の商人たちとの交流によってもたらされました。外国の商人たちは経済的発展遂げるイスラエルに引き寄せられ、彼らは商品だけでなく、異教の習慣や偶像宗教をもたらし、契約の民イスラエルの独自な信仰を脅かしていました。

ウジヤの時代、国は富、民はその繁栄に酔いしれていました。しかし、それは見せ掛けの繁栄であり、民の心は神から離れ、神の言葉よりも物質的な繁栄をもたらす外国の文物に完全に目が奪われていました。社会には不義が満ち、民の生活は腐敗堕落したものとなっていました。繁栄は信仰の成長に結びつかず、民の心に驕りと昂ぶりをもたらしました。

イスラエルの繁栄は、真の神への信仰の欠如という大きな代償を払ってもたらされたものであるところに問題がありました。神への信頼の中から生まれたものでない、人間的なその場しのぎの打算から生れた繁栄は、それを維持する手段も、神以外の人間の力を選びます。

7節に述べられている、財の蓄積と軍事力の強化は、己が命を神の力ではなく、人間の努力による外的な力によって守ろうとする心から生まれました。それは他の国々が求めたのと同じ道です。真の神への信仰を欠如した人間は、「銀と金」という「財宝」、「軍馬」「戦車」の力に頼み、自己保身につとめます。偶像への依存と、これらの物力による幸福追求の心は、本質において同一であることを、イザヤは明らかにしています。

しかし何故、偽りの神々がイスラエルに満ち、人間の手で造った物をイスラエルの人が拝むようになるのか不思議な気がしますが、それは結局のところ、「人間の手」の力しか信じようとしない心からでた必然的な帰結でありました。この歴史の中で、偶像の形は様々に変遷してゆきました。しかし、人間の心の動きは何時も同じです。自分のわざで、自分の世界で、自己を主張しようと試みてきました。生ける神の力をかわして自分のわざでもって立とうとする昂り・願望がこうした偶像を造り出す土壌です。それが罪であることを、他のどの国民より多く教えられ、戒められていたイスラエルにおいて犯されつづけたというところに、問題の根の深さを覚えさせられます。神信仰の問題を、「人間の手」に依存しようとする心がイスラエルにいつまでもなくならなかった事実は、いつの時代にあっても、主の民として生きる人間に同じ戦いがあることを示しています。それ故、いつもそれを戒める心を保つことが求められています。

人の手で造ったものは、所詮人間以下のものです。そうしたものに人が膝をかがめて礼拝することは、自らを低く卑しめることとなります。それは、神のかたちを与えられた自らの人格を卑しめるだけでなく、他の被造物に勝るものとして人間を造られた神を冒涜する行為となります。イスラエルは、神の選びという特別な恵みの中に入れられていただけに、その罪は特別大きいのです。

イザヤは、この民に将来の希望がないことを恐れず語りました。しかし、イザヤは民の側に立って今は語りません。神がイスラエルに幻滅を感じておられる、その神の幻滅に共感して、神ご自身の熱情をもって、イザヤは語ります。

岩の間に入り、塵の中に隠れよ
主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。
その日には、人間の高ぶる目は低くされ
傲慢な者は卑しめられ
主はただひとり、高く上げられる。(イザヤ2章10-11節)

イザヤは、このように、今自分に向かっている民に対して向き直って、避けることのできない神の審判を告げます。偽りの平安に酔い、それを偽りの方法で求めている民に、反語的にそこからのがれよ、とイザヤは語ります。このイザヤの言葉は、民に逃げ場のないことを自覚させるためです。何故なら、人間は、自分の創造者であり、自分の主人である神から、その身を隠すことができないからです。神の救いと裁きの御手の届かないところはありません。

今、神の裁きがないからといって、驕り高ぶる者に、主は雷が岩を打ち砕くように打たれます。「主の日」は何時か、誰にも知らされていません。しかし、何時までもその罪を放置されないことを覚えるよう語るイザヤのことばは、わたしたちにも向けられています。人の傲慢によって、主は軽んぜられ、低くされていましたが、しかし、「その日には、人間の高ぶる目は低くされ/傲慢な者は卑しめられ/主はただひとり、高く上げられる。」(11、17節)といわれています。

12-17節にかけて、「主の日」の裁きが明らかにされます。

レバノンの杉、バシャンの樫、タルシシュの船、これらは皆高価な物で、当代最高の価値ある物です。イスラエルの人々はそれらを恋い慕っていましたが、それらを手にして奢るものも、主の審判の前に低くされ、空しくされると言われます。神の審判が行われるとき、人間の無力さと神の栄光が同時に啓示されます。

神は偶像を破壊することなく、偶像を造った人間を破壊されることによって、偶像の無力さも明らかにされます。そのようにして、偶像が人間を守ることが出来ないことを明らかにされます。

主は焼き尽くす火です。人間は土の塵で主によって造られ、その塵に神の息が吹き入れられて、束の間の命を許されています。そんな者に、何の「値打ちがあるのか」(22節)と言われています。

主の民が主なる神との関係を忘れるとき、偶像と間違った希望の中で滅びへの道に転落して行きます。イザヤは、その将来のないことを語ることによって、悔い改めを民に求めています。ただ主の約束する将来を待ち望め、神の創造、エジプトからの解放、ダビデ契約における主の約束、などを想起することによって、来るべき「主の日」の確かさを確信して待望せよ、これが、イザヤの使信です。決して、見せ掛けの繁栄に騙されて、神の命から離れることのないように、イザヤは呼びかけます。人の手に頼る偶像崇拝者の最後は、無価値な「もぐらや、こうもりに投げ与ええる」(20節)ように扱われるとイザヤは警告します。

しかし、この主の日の裁きに関する使信は、悔い改めへの招きの福音です。

最後に記されている22節の言葉がそのことを示しています。

人間に頼るのをやめよ
鼻で息をしているだけの者に。
どこに彼の値打ちがあるのか。

人間は、土の塵で神の手によって創造され、神が命の息をその鼻に吹き入れられて生きるものとなった、と創世記2章6節に記されています。このイザヤの言葉は、その事実から見た人間への洞察を背景にして語られています。その価値は、神が命を与えたということにのみ見出すことができます。そうであるなら、神の恵みに委ねず、神に聞かない、神の恵みを忘れた人間を、神が裁き滅ぼされるのは当然です。

この神のさばきを逃れて人間が生き得るとすれば、それは悔い改めて、神に聞き、神の恵みに委ねる以外にありません。そのために、この22節の言葉の前に己を置き、己の価値なき存在に人は気づくべきです。しかし、これに気づく者には希望があります。この言葉を希望の福音として聞くことが大切です。

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