申命記講解

15.申命記15章1節-18節『安息年における負債免除と奴隷の解放の精神』

1-11節に、7年目毎になされるべき負債免除に関する教えが記されています。これは古代イスラエルにおいて覚えられてきた6年周期の終わりに行う休耕の実施に関わる慣習です。それは、出エジプト23:10,11に「あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない」、と記されています。

この慣習は、社会的な配慮からでも、経済的な配慮からでもなく、宗教的な要求から規定されたもので、「主(ヤハウエ)のための免除」(2節)とされています。

神聖法典(レビ記17―26章にある法集成のこと、本文に「聖なる」の語が表れることから1889年、クロスターマンによって命名された)では、この慣習が、土地を「主(ヤハウエ)のために」休ませるべき「安息の時」として定義されています(レビ25:3-5)。そこでは、農耕地に対する本来的な神の所有権が問題になっています(レビ25:23)。この宗教的な実施は、家父長的・農民的経済秩序には適応するものでありましたが、イスラエルの社会的、経済生活の環境が変化し、ヨベルの年による負債の免除が実際に行われたかどうか確証することはできません。イスラエル内部の社会的、経済的の構造が、王国時代に変化したことにより、また出現した大土地所有体制によって、国家の税負担によっても。地方における農民の経済的な自由がますます危機にさらされることになりました。農民は逼迫した状況を切り抜けるために借金を余儀なくされました。そういう状況があるからこそ、「だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである」(3節)、という布告が重要な意味を持ちました、しかし、この免除は外国人には適用されず、同胞に対するものとしてのみになされるべきものとされています。

4-11節の段落は、説教です。この説教は、貧しい人に、いつも手を開き、理解ある心で接することを求めています。この説教の特徴は、直截に心に訴えていることです。

しかし、この説教者は、「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう」(11節)、と現実的に考えています。この理解は、神へのまったき従順によって、神の十全な祝福が与えられ、それによって貧困が全くなくなるという理解(4-6節)に対して、対立した立場を表明しています。貧困については、初期イスラエルにおいて特徴的で、否定的で禁欲的な判断が示されています。貧困は禍であり、そこから人は何ら価値のあるものを手に入れることができないという考えがあります。この理解のもとに、「それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(11節)、と説教されています。

6節の「あなたに告げたとおり、あなたの神、主はあなたを祝福されるから、多くの国民に貸すようになるが、借りることはないであろう。多くの国民を支配するようになるが、支配されることはないであろう」、という約束は、当時の諸国の経済的取引において、既に貸付業が存在していたかどうかという問いを生じさせる(フォン・ラート)、という見解もあります。

鈴木佳秀は、これらの申命記の負債免除規定は、ヨシヤ王時代(前639年―609年)の民族主義的精神を代弁する編集と見なしています。
12-18節にある法規定においても、説教者は古い条件的な法規集をよりどころにしています。より古い形態での奴隷法規定は、契約の書(出エジプト21:1-11)にあります。

しかし、この申命記説教は、より古い契約の書に比べて変化しています。ここではもはや非自由民とされた外国人奴隷のことは問題にされないで、かつて自由人であったイスラエル人で、債務のために自ら奴隷となった者を対象にしています。そして、女性の債務奴隷化をも考慮している点で、契約の書と全く異なっており、女性が土地所有の資格があるようになったことと、それに伴い彼女の側で債務奴隷に身を売る事態がでてきた点で全く異なっています(列王下8:3、ルツ記における法的事情を参照)。それに応じて、女性も男性も自ら永続的に隷従する決断をなしえた点で、より古い契約の書にある法規集と大きく変わっています。

より古い契約の書の法規定は、聖所における手続きを意図していましたが(出エ21:6)、申命記においては祭儀の中央聖所への集中に鑑みて、その祭儀的な性格を除去する必要があった、とフォン・ラートは推論しています。今や、錐で耳を戸口の柱につき通す手続きは、奴隷となって自由を失う当人が、その主人の家に繋がれる事を象徴するものとなっている点からも、古い律法から受け継がれてきた「ヘブライ人」という概念も変わったことを示す事例として見なすべきことをフォン・ラートは指示しています。古代オリエントの法文書の立証するところによれば、この概念は、ある特定の民族に帰属しているものを表すものではなく、その民族内の、ある特定の社会層に属している人々を指す呼称であり、社会学的観点から見れば、零落した住民であり、法的、経済的に低く序列化されるにいたった住民要素が問題となっている、とフォン・ラートは指摘しています。そうであるなら、そのすぐ上の階層は「解放されたもの」であるということになります(マルチン・ノート)。しかし、申命記では、「ヘブライ人」という概念は、もはやこの意味では使われていない、フォン・ラートは指摘しています。

15章2節によれば、ヘブライ人として負債を負った当人は、かつては契約の民の完全な有資格者です。それによって、後代の聖書本文で、ヘブライ人という概念で、これらの人々が民族的な帰属を表す道が開かれたのである、とフォン・ラートは指摘し、その証拠聖句として以下の聖句を挙げています。

逃げ延びた一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て、そのことを知らせた。アブラムは当時、アモリ人マムレの樫の木の傍らに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと同盟を結んでいた。(創14:13)

ヨナ書1:8,9には、ニネベに行けという主の命令を拒んだヨナが、ヤッファからタルシュシュ行きの船に乗り、主の大風が吹き、船が難破しそうになった時、船乗りたちは、それぞれ自分の神に助を求める祈りをささげ、荷を軽くしますが、それでも嵐がおさまらず、誰のせいでこのようなことになったのかといって、くじを引くことになります。くじはヨナに当たります。そこで、人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言ったので、ヨナは彼らにこたえて、
「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」
という言葉が記されています。

申命記の説教者が、この債務奴隷に関する法的な規制でなした貢献は、事柄全体を精神的に内面化させたことにある。彼は、聞き手に対し、従順であるかどうかの問いを、最も深い人格的なレベルである、その良心に訴えている。心の持ち方、つまりこの法規定に関わる当人が何を考えなければならないのか(15節)、そして本人が、この法規を守るのを嫌々ながらと感じてはならない(18節)ということが、説教者の関心としてあることをフォン・ラートは述べています。

そして18節にあるミシュネというヘブライ語は、「二倍も」と訳すべきではなく、「…に等しい、…に相当する」という意味の、法的な専門用語であるとの指摘もしています。

申命記には、今日のような普遍性を持つ人権の感覚や法規範は存在しません。しかし、同胞の中で貧困の故に債務奴隷に没落していく者を、どう救済すべきか、という関心が豊かに存在します。外国人と同国人との差別的な民族主義的な考えから克服し得ない時代にあったことも考慮すべきでしょう。しかし、引用された創世記14章13節とヨナ書1章9節から見えてくることは、決して、人間に襲う災い、労苦の問題は、自国だけの問題ではなく、普遍的な問題であり、他宗教においても、その問題をいかにして克服すべきか葛藤の中で生きてきたことを物語っています。アブラハムが結んだ同盟に基づき、捕虜となった親族救済のため、彼の家で生まれた奴隷で生まれ、訓練を受けたものを召集して、その財産を取り返したという記事が創世記14章に記されています。それは、グローバル社会における、一つの貧困問題の救済の在り方を示す事例として読むことができなくはありませんが、慎重に注意して読む必要があります。今日のグローバル世界における同盟関係は、富める者、富める国家の利益を守るためのもので、貧者にとって、ますます過酷な問題を引き起こす温床となる場合がほとんど全てであると言える現実が存在します。

それは、宗教的人間理解の本質論に立ち、申命記15章11節の「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」、という言葉から洞察することが大切であると考えます。それは、世に立つ教会、共に生きる教会の視点で、貧しき者の救済を考えていく上で大切な視点ではないでしょうか。

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