アモス書講解

16.アモス6章4-8節『神のように振舞う傲慢』

この個所は、前回扱った箇所同様、サマリアの支配的貴族階級に向けて語られた「災い」を告げる審判預言に属します。前の預言では、愛国的な己惚れと自己安心に生きる貴族の政治的・民族的な問題にかかる審きが主題となっていましたが、ここでは、上流貴族階級の私生活における贅沢が審きの主題となっています。

貴族たちの贅沢な私生活は、「神々のような生活」でありました。「象牙の寝台」や「長いす」は、眠るためのものというより、宴会のために用いられました。当時は床に座って食事をするのが普通であったことを考えると、上流貴族の間で流行した「象牙の寝台」などに横たわって食事をとることは、いかにも彼らの特権的で傲慢な態度をあらわすものでありました。彼らは、そのような振る舞いによって大食と享楽的な生活にふけり、元来、神に捧げるべき犠牲のための最上の小羊や子牛を、自分たちの宴会の食事のために用いていました。アモスの糾弾は、単に彼らの贅沢な生活に向けられていたのではなく、彼らの生きる姿勢、神と人との間にある問題に対して向けられました。本来神にだけ捧げられるものを自分たちが食べることによって、自らを神のように高め、人々から神のように崇められることを期待していました。

神礼拝における歌を歌うことや楽器を奏でることは、神讃美に欠くことのできない重要なものでありました。当時、ダビデがそのために楽器を創り出し、奏でたと人々に信じられていましたが、彼らは、神礼拝のためではなく、酒宴におけるドンチャン騒ぎの楽しみのため用い、神への頌歌のために用いられるべき歌や楽器を、自分たちの放縦な楽しみのための蛮歌に変えてしまいました。それは、まるで葡萄作りたちがあげるかまびすしい歌声(エレミヤ25:30)か、カナンの豊穣神に奉げられる荒々しい叫び声のようでありました。神々の生活を真似、放縦で野卑な大酒のみとなった上流貴族の生活を、アモスは皮肉たっぷりに批判しています。

元来「大杯」は、神々に飲み物を供するときに用いられるもので、「最高の香油」も神にだけ供される極上の初物でありました。それらを用いることにより、彼らは自分を神々と同列に置こうとしました。

異邦人でさえ、彼らの神に自らの平和と繁栄を祈り求めることを怠らなかったのに、イスラエルの富裕層はそれを怠り、ただ神に似るものとなることを願い、神に似るものとして扱われること、ふるまうことのみに熱心でありました。彼らが神々と類似していたのは、その享楽に関してだけであって、義務に関して心に留めることはありません。それを、アモスは、「しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることはなかった」と辛辣な皮肉を込めて批判し、彼らの背後にある神把握の仕方の問題を明らかにしています。

7-8節の威嚇の言葉は、審きの結果について語り、神による審きの根拠を明らかにしています。その語り方は、5章11節、16-17節、26節と同じです。ここでは威嚇の言葉も、叱責の言葉も、地上的な表象が用いられています。貴族たちは、その贅沢な生活において社会の頂点に立っていました。それゆえ、神が与える災いに際しても、人々の先頭に立つべきです。7節の「それゆえ」という接続詞がその理由を説明しています。あたかも神々の像が行進の先頭に立って担がれて運ばれるように(5章26節)、彼らは捕囚の先頭に立たされ、敵の手に引いていかれて行進することになる、とアモスは告げます。自分を神々のように振る舞う喜びに浮かれた宴会騒ぎは、一転して気抜けした狼狽と沈黙に変わることをアモスは告げます。

この預言は終わりの8節において、神の言葉の持つ力強さによって、神の審きの根拠づけが行われています。それは、貴族たちの軽薄な態度とは対照的に、荘重な力強さで語られています。「御自分を指して」は、ヘブル語では元来「自分の喉にかけて」を意味します。これは昔の人々が誓約に当たって、自分の「喉」に触れてその履行を約束し、誓約を破棄した場合には死も辞さない、の意味から生れた表現です。主はその様な決然たる態度で、御自分だけが神の名を要求できる唯一の方であり、自ら語ったことを遵守する、生ける神であることを明らかにされます。神は侮られるようなかたではありません。主の判決、主の審きは堅く立ちます。それによって神の言葉に聞く信仰の確かさを神は明らかにされます。そして、神に聞かないで人間的な高ぶりに生きる生き方の脆弱さが明らかにされます。

サマリアの貴族階級の人間的な高ぶりは、神に対する応答を欠いた享楽の追求により、自己自身を生の中心に立てました。かくして自分を神のような存在であるとする不遜な自負心を抱き、神への敬虔を欠き、神と人との間にある境界を打ち破りました。その結果、人間はただ神によって支えられている限り、生をもって存在し生を楽しむことが出来る、ということを忘れてしまいました。

サマリアの貴族階級は、生の源としての神、その支え手としての神、主への信頼と応答を完全に忘れていました。アモスがその生活を批判したのは、彼らの生活の限られた部分でしかありませんでしたが、その現れた一面において、既に生活全体を通しての、神と人との対立を証明するに十分でありました。

それは、神の如くあろうとして罪を犯したアダムに似ています。神と人との間に設けられている超えることのできない境界を破る決定的な第一歩は、神のようになろうとする人の思いから生れます。その思いに支配されると、アダムがそうであったように、人は神の言葉に聞き従うことができなくなります。その思いは、高慢な振る舞いを引き起こし、神をも自分の利益のために利用し、人間に仕える僕に貶めるようになります。そのような信仰のもとでは、イスラエルが誇る神殿は、もはや自らの権勢を誇るための手段でしかありません。その城郭も都もしかりです。それゆえ、主はそれらを忌み嫌い、敵の手に渡すと宣言されます。神はそのような断固たる態度において、神と人との間にある境界を明らかにされます。

神の神殿、神の都の雛形としての教会の礼拝が、神のように振る舞う人の喜びの宴となり、民の救いではなく破滅への道を歩むものとなっていないか、預言者は現代の私たちにも警告を与えていることを忘れてはなりません。アマレクとの戦いで勝利したサウル王が、主に奉げられるべき最上の羊と牛、戦利品を分け合ったにことに対して、サムエルがサウル王に語った次の言葉をいつも心に留めねばなりません。

「主が喜ばれるのは
焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。
むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。
見よ、聞き従うことはいけにえにまさり
耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。
反逆は占いの罪に
高慢は偶像崇拝に等しい。
主の御言葉を退けたあなたは
王位から退けられる。」
(サムエル上15:22-23)

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