ガラテヤの信徒への手紙講解

21.ガラテヤの信徒への手紙6章11-18節『新しい創造』

ガラテヤ書の学びはこれで最後となります。ガラテヤ書の学びを通して一番教えられたのは、キリストにあって与えられている自由の問題です。特にその問題は、割礼との関係で論じられてきましたが、パウロはこの手紙の最後の挨拶の結びにおいても、その割礼について言及しています。

パウロは、キリスト者の自由の問題を、キリストを信じ受け入れることにより、皆キリストに結ばれたものとされ、神の子とされることによって与えられる新しい身分として論じています。それは、3章26節において述べられています。それは、罪の支配下にある奴隷の身分から解放された神の約束の相続人として自由な身分として語られています。

キリストを信じ受け入れた人は、バプテスマを授けられて、キリストに結び付けられます。それをパウロはキリストを着ている、という言葉において表しています。神の子として自由な身分を表わす服を着るようにキリストを着るというのです。ただひとり神の御子であるキリストと結ばれて、わたしたちはキリストの兄弟姉妹とされ、キリストを着るものとされると、パウロはいうのです。その服の中にある体は、以前の姿と少しも違いませんが、キリストを着る者は、罪のない神の子としての身分を授けられ、神の約束の相続人として自由な身分を保証されているというのです。キリストを着る以前と変らないのは、服の中にあるからだだけではありません。この世における関係や地位や環境もです。信仰を持つ以前と、持ってから以後において、こうした関係が現実に変化することはありません。

しかし、わたしたちはキリストに結ばれているという事実の故に、自由の身分とされ、キリストを着るものにされているというのです。キリストを着るわたしたちは、世の身分や人種や性別に関わりなく、同じ救いに与るものにされているというのです。だから、3章28節において、パウロは、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と述べています。キリスト教会において、キリストとの結合を表わす、キリスト信徒であるというしるしは、バプテスマ以外にありません。キリストを知る以前、ユダヤ人は神に選ばれた民のしるしとして割礼をまもっていました。だからユダヤ人でキリストを受け入れた人は皆割礼を受けていた人たちです。しかし、そのユダヤ人である人が、キリストを受け入れた時、罪の赦しを表わすバプテスマを受け、キリストと結び合わされますが、彼らには古い割礼は身に帯びたまま残ることになります。しかし、もはやそれはキリストにあってなくてもよいものになっています。異邦人は、元々割礼は受けていませんし、洗礼がキリストと結ばれ、罪の赦しを表わす唯一の儀式ですから、その上さらに、割礼を受ける必要はありません。

しかし、主の兄弟ヤコブの下から来たと称するユダヤ主義のキリスト者は、キリストを信じ受け入れ洗礼を授けられても、さらに割礼が必要だと主張していました。パウロはここでそのことについて改めて論じています。

なぜエルサレムからきた彼らがそのこと主張するのか、その理由を明らかにしています。パウロは彼らの間違いを二つの点で指摘し、それを非難しています。

第一に、「人からよく思われたがって」のことだと指摘しています。彼らは、異邦人がキリストを信じることによって、異邦人がキリストと結ばれたものとして彼らの身に起こる新しい神の国における身分上の変化や、そのことによって与えられる恵みよりも、彼らをユダヤ人と同じ割礼を受けさせて改宗者とさせたという功績によって、自分の立場を良くし、安全にしようという意図があることを指摘しています。エルサレムにおいて、キリストの十字架を信じ受け入れるユダヤ人キリスト者は、それだけで迫害を受けやすい状況にありました。だから、律法において定められている儀式を忠実に守り、また律法を積極的に実行することによって、神の前に正しい生き方をしているものという評価を受け、危険な人物でないという評価を受けることになります。そのように評価されるためには、一人でも多くの異邦人に割礼を受けさせる必要があると考えていたのです。そこには、改宗者の身における神との新しい関係のことよりも、自分自身の身の保身と功績への評価を期待しての行動と言うことになります。

「人からよく思われたい」という心は、誰にもあります。しかし、それは人の目を気にするということで、その心は神に向かっていません。戦時下の教会において、礼拝の中で君が代が讃美歌と一緒に歌われ、天皇を賛美する行為が多くの教会においても行われました。その時代を生きていないわたしたちが、そうしたことを行なった教会や、それを指導した牧師や長老たちのことを簡単に批判することはできませんが、なぜそのようなことをしたのか、それが教会を守るためであったとよくいわれます。しかしそれはキリストの教会としての標識を失う形でただ教会を外形上存続させただけで、やはり、真の信仰の姿からは程遠いものとなっていたというほかありません。人からよく思われたい、という心の裏には、キリスト者としてというよりも、世の人としての立場が上に置かれることがあります。パウロはそれをたんに断罪しているのではありません。

その思いは迫害されたくないという思いと底の方でつながっています。天皇制の厳しい思想統制のもとで、迫害を恐れて君が代を歌ったり、宮城遥拝をすることは、そこで生き延び、自分の命と立場を自分で確保する道となります。勿論、それが個人の問題だけであれば事柄はそれほど深刻でないかもしれません。しかし、朝鮮の教会にも同じようにすることを兄弟教会として求めたとなれば、その罪は非常に重大なものとなります。このガラテヤの割礼問題は、まさにそういう本質を有していました。自ら受ける迫害を回避し、自分の立場をよくするためになされたきわめて悪質な行為として非難されています。パウロは、それを「肉について誇りたい」行為といて非難していますが、このパウロの非難は果たして妥当するか、疑問を感じないわけではありません。なぜかと言うと、クリスチャンが世の中で、自分がキリストに属するものであるということを隠しながら生きている場合、それは、自分を誇るためというよりも、むしろ世の力を恐れているからです。そのように世を恐れている自分を誇りに感じている人は、実際にはいないと思うからです。

積極的に教会の中で割礼を受けるように勧めることは、教会の中での評価よりも、ユダヤ教からの迫害を恐れてですし、朝鮮の教会にそういうことを強要することに協力したキリスト教指導者というのは、自分たちの身に及ぶ迫害を恐れたのです。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」と14節でパウロは述べていますが、これはあくまで、肉について誇りたいということと反語の意味で述べています。人は、肉について誇るということを、本当にしているのかというと、そう単純にいえないと思うのです。やはり「迫害されたくない」という思いのほうが強いと思います。

この迫害をなぜ退けることができるか、その理由を、「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」という信仰をガラテヤの信徒たちに伝えたという問題がキリストの使徒パウロの在り方の本質的な問題としてあったからです。

だから、事柄の本質は、この福音理解にあります。この場合、パウロの十字架理解は、十字架のキリストは、復活されて、世に勝たれた方であります。だからパウロの信仰の目は、世は十字架において死に、自分も同じく死に、しかし、キリストが復活されたように、キリストに結ばれているパウロ自身も、その復活に与る者として、世に勝っているものとして立たされている現実を見ることができるのです。このことは、パウロだけに起こることとして語られているのではありません。その意味で「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(14節)という言葉は、重要な鍵になります。キリストはどこまでも「わたしたちの主」なのです。世は、キリストの十字架の前に無力にされているのです。そのことを信仰の目で見ることができないと、わたしたちは世の迫害が怖くなりますし、福音を恥じることになります。世の人と同じでない自分が不安になります。世に対して自由になれない、ひとりで立てないのです。ひとりで立つ自律した信仰、自分ひとりでおれる自由というのは、この場合、意志の強さではなく、キリストの十字架と復活をどう理解し、どう信じているかという福音理解と深く関わっているのです。

キリストにあっては、割礼は問題でありません。その恵みの力にあずかり、キリストに結び付けられた自由な人間として、新しく創造されることがなくてならない問題となります。そのような信仰の根本原理(16節)のもとで自分を捉え、その原理に従って生きていく、そこに私たちの平安、平和があります。

だから現実に、キリスト者は、世から自由ではありませんし、その迫害や、世の厳しい同調性を求める力との戦いを回避できません。人を恐れ、福音から目をそらすなら、わたしたちはキリストへの信仰を貫き通すことができなくなります。しかし、キリストにおいてなされている、自己の死と、世の死の現実とを見るなら、わたしたちは恐れなく、キリストを誇り、復活の希望の中で、その迫害を恐れない自由に生きることができるようになります。新しく創造された人間として、朽ちないこの命の原理に生かされているものとして、わたしたちは自由に生きていくことができます。

単に宗教的な儀式を守れば世との関係を良好にたもたれるかもしれませんが、それは真の命を失い、そこには、その力に隷属させられている、本当の意味で自分を誇ることのできない惨めな自分しかいないことになります。しかし、キリストの十字架によって世も自分も死んでいる現実を信仰において認識し、キリストを信じ、キリストに結び付けられている、新しく創造された自己自身は、その復活の力、その原理の中で、それを相克し、その力から自由にされているのを見ることができるのです。

パウロはこのような原理は、「神のイスラエルの上に」働くものとして語っています。神のイスラエルとは、ユダヤ人も異邦人も男も女も自由人も奴隷もない、キリストにあって一つにされた新しい教会、共同体を指しています。わたしたちはこの信仰に生きることによって、その心に平和が与えられ、教会の交わりが平和な争いのないものに整えられていくのです。パウロはこの神の現実支配、新しい命の創造の働きを見るようわたしたちを促しているのであります。

新約聖書講解