コリントの信徒への手紙講解

51.コリントの信徒への手紙二7章8-12節『御心に適った悲しみ』

8節で「あの手紙」といっていますのは、2章4節で「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」と言っている手紙のことであると思われます。パウロが一体どんな手紙を書いたのか断定的には言えませんが、多くの聖書学者は、この「涙の手紙」の主要部分が10-13章であるといっています。実際そうであるなら、7章は、その手紙を受け取ったコリント教会の悔い改めを聞いたパウロの喜びを記しています。

10-13章の内容は、非常に激しい口調で書かれていますので、「涙の手紙」は別にあったのではないか、と推測をしている人もいます。事実、その可能性がないわけではありません。しかし、わたくしは、これこそがやはり「涙の手紙」であり、7章は、その手紙を読んで悔い改めたコリント教会についての報告をテトスから受けたパウロの喜びが記されていると理解するのが一番良いと思っています。

パウロは10-13章において、力一杯激しく抗議しています。この手紙の末尾の四つの章は、現存するパウロ書簡の中でも全く「比類のない防戦と弾劾の書」であるといわれています。パウロは、このところにおいて、自分の使徒職が倒れるなら、使徒の福音も倒れ-使徒職は和解の奉仕者であるから-、またこの福音とこの奉仕によって生かされた教会も倒れる、という激しい確信に立って書き記しています。パウロは、自身をイエス・キリストの使徒、奴隷、証人、使者であり、キリスト自身によって召された代理人である(5:20)ので、その職務の中に、自分は飲み込まれている存在であると理解しています。

このパウロの理解を承認するなら、その人はパウロという単なる人間に出会うのでありません。彼の職務を通して、人はイエス・キリストご自身と出会うことになります。パウロがその職務に忠実であり、主の奉仕と宣教とに関わる限り、パウロの使徒職を侵そうとする人の平和はなくなります。パウロから引き離そうとする者の平和もなくなります。偽使徒と真の使徒との間に平和な関係は成立しません。この明確な区別なくして真の教会の建設はあり得ないのです。教会を建て上げること(12:19,13:10)こそ、パウロの唯一の目的であり、この戦いを断固闘う唯一の理由であります。

パウロはこのことを理解してもらうために「涙の手紙」を書いたのです。あまりの激しい口調で書いているために、読む人を悲しませることがあることを予測してパウロは書いています。7章8節にそのことが書かれています。そして、そのことを少し後悔したことがあることをパウロは率直に認めています。

パウロは本当にコリント教会を愛し、霊肉のすべてを捧げ、文字通り全財産をなげうってパウロは伝道したのです。しかし、「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか」といわねばならないほど、コリント教会の人々のパウロへの思いは離れていっていたのです。事実無根のあらぬ中傷を信じて、パウロから離れていく人たちが少なからずいたのです。

伝道者の受ける評価はこんなものか、パウロの受ける苦しみを自分の姿にダブらせて嘆く伝道者も多くいると思います。しかし、伝道者が一番心を痛めるのは、自分に対する評価の低さではありません。伝道者にとって、自分が語る、取り次ぐ福音をキリストの福音、神の言葉として聞かれないことに対する嘆きより、深い嘆きはありません。

パウロはそれでも、福音を福音として聞けない人のために祈り、語り続けました。キリストに結ばれた者として、生き、語り続けました。すべてを耐え、人々をキリストに結びつけ、建て上げようと語り続ける、これ以外に伝道者の道はありません。その真実を、「神の御前で」明らかにするしかありません。12節でそのことを述べていますが、12章19節でも述べています。

この真実な思い、使徒のつとめと一体になった御言葉の権威の回復のために、敢えて、人を悲しませるような激しい口調を用いてでも、これを語らねばならなかったパウロの思いを理解することが大切です。

パウロは13章5節で、「信仰をもって生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」とまでいっています。パウロは、信仰による自己吟味をコリント教会のひとりひとりに求めたのです。誰か他人のことではない、このわたしは信仰をもって生きているかどうか反省しなさい、自己吟味しなさい、とひとりひとりに問うているのです。ぐさりと来る言葉です。このパウロの厳しさこそ、キリストへの正しい奉仕でありました。なぜなら、パウロが厳しい態度を貫くことによって、教会の罪が取り除かれたからです。

御言葉に仕える牧師も、その説教を聞く信徒も、「信仰をもって生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しているか」、いつも語られる御言葉から問われるのです。

しかし、御言葉に真に生きるような生き方をしていない者にとって、御言葉が耳に心地よいはずがありません。耳が痛いだろうといって、御言葉が語っていることを語らないなら、それこそ御言葉に仕える者はその務めを果たしていないことになります。御言葉に生きていない教会の現状があるなら、御言葉に仕える者は、涙を流しながら、それを指摘しなければ、そのつとめを自ら軽んじていることになります。

そうしない伝道者は本当に教会に仕えていないし、教会を愛していません。パウロは教会を愛するがゆえに、厳しく語ったのです。伝道者というのは、自らの伝道者の生命を懸けて、教会のために語らねばならない時があります。その時を失うと、教会は本当にキリストの教会となることが出来なくなる、そういう時というのがあります。人の教会として残ったのでは、その教会に命は失われます。人を救う力のない死んだ教会となります。

問題は、その真実の言葉を、教会がどう受けとめるかであります。コリント教会は、パウロのこの激しい「涙の手紙」を受け取って、悲しみました。しかし、悔い改めたという、喜ばしい報告を受けパウロは喜びました。

パウロはその悲しみが神の御心に適ったことなので、わたしたちから害を受けずに済んだといっております。この場合の「わたしたち」は、使徒職を指しています。それは、神の言葉、福音と一体の職務でありますから、害を受けるとしたら、むしろ神から受けることになります。パウロは自らの使徒職に結びついている偉大さを考えてもらうために、敢えてその様に述べています。

ですから、10節の「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」という御言葉は、個人の悲しみを問題にしているのでありません。

自分が神の御心に適う「信仰によって生きているか」、神から来る真実にそって自己吟味し、己が罪を悲しむこと、それが「御心に適った悲しみ」の本来の意味です。すでに救いに与った者の、取り消されることのない救いに通じる悔い改めの問題がここに語られています。教会的な問題、福音を聞く姿勢が問われ、これを語る者の職務との関係で、どう聞いているかが問われ、その吟味をコリント教会の人たちは迫られたのです。

パウロを神の使者と信仰において受けとめた人は、その言葉の前に、神の御心を見て、己が罪を悲しみました。その者には、取り消されることのない救いに通じる悔い改めの心が与えられたのです。

しかし、パウロを神の使者と認めず、従って、パウロの語る福音を神の言葉として聞かない者は、パウロの厳しさを、「世の悲しみ」として聞きました。福音宣教の言葉を、世の言葉と同じように聞いたのなら、それは、「世の悲しみ」としてしか聞けません。「世の悲しみは」命をもたらさず、「死をもたらします。」

牧師の職務はそのものの貧しさ、未熟さに関わらず、神から与えられたものであるという信仰が教会に不可欠です。その信仰をもって聞くなら、その語る言葉を神の言葉として聞くことができます。その言葉を、教会がどう聞くか、パウロはここでその問題を語っています。牧師の言葉には、わかりにくさ、拙さの問題が絶えずつきまといます。しかし、これを神の言葉として聞く時、そこに神の御心を聞くことができます。説教において聞くべきは、人の慰めではありません。神の慰めであり、神の悔い改めの招きです。そこに示されている神の御心です。

救いをもたらす真の悔い改めは、人間の努力や業績とは違います。神の意思に従うことです。それは、己の罪に対する嘆きを伴います。しかし、その嘆きの背後には神がおられるのです。だから、その悲しみは神から出るところの悲しみであるということができます。この神から出る、神に従うことに伴う悲しみ、労苦は、人を害することなく、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる、のです。

説教において、神の御心を示され、心をえぐられるような深い悲しみの経験は、人を害することはないとパウロは言うのです。それどころか、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる、と言うのです。

しかし、説教において、神の御心を聞く事が出来ないなら、わたしたちの経験する悲しみは、「世の悲しみ」であり続けます。それは、「死をもたらす」だけで、なんの益するところもない、のです。神の御心に適った悲しみが、本当の信仰の熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらす、とパウロは語ります。

こうした本当の信仰の熱心、情念をパウロは「神の御前で」明らかにされることの大切さを強調しています。教会の中には、あまりにも浅薄で短絡的な熱心、熱意がありすぎます。ただ「神の御前で」わたしたちは、自らの信仰を吟味すべきです。そして、神の御心をこそ、求め、神の御心にのみ耳を傾けて聞き、神の御心にそう、本当の嘆き悲しみを避けずに求めていく信仰の歩み、教会の歩みが求められています。その神の御心を畏れなく示せる説教者を教会は求め、その説教に耳を傾けて聞く教会とならねばならない、パウロはそうわたしたちに教えてくれているのです。

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