コリントの信徒への手紙講解

13.コリントの信徒への手紙一4章14-17節『霊的な父として』

「こんなことを書くのは、あなたがたに恥じをかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」とパウロは言っています。これは、1章26節以下で述べているとおり、元々コリントの教会の信徒たちが「人間的に見て知恵のある者、…能力のある者、家柄のよい者が多かったわけでない」にもかかわらず、自分を知恵ある者、優れた者として「高ぶる」者が現れたことに対する、パウロ自身の13節までの辛辣な批判の言葉に対して述べられた言葉です。パウロは貧しい者とされているのに、コリントの信徒たちはキリスト信じて賢い者となっている。パウロは弱いが、彼らは強くなっている。彼らは尊敬されているが、パウロは侮辱されている。パウロは飢え、渇き、虐待され、身を寄せるところもない状態で、「世の屑」のように扱われている様を書いて、「こんなことを書くのは、あなたがたに恥じをかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」と言っています。

理性的で静かに語ってきたパウロの語調が激しい語調に変化し、感情的に相手の心に激しく訴えています。感情的に訴えているからといって理性的でなくなったかというと、そうではありません。人間は頭で理解しきれないことでも、感情を込めて語る時、やっとその人の真実な思いを捉えることがあります。パウロはその心に期待し、なお一層忍耐を以って相手の心に訴えかけているのです。

親子、兄弟の間柄では、互いの恥じを耐え忍ばねばならないことが時として起こります。できの悪かった私の少年時代を思い起こしますと、私に直接注意しても効果がないと判ると先生はよく、姉を呼んで注意をして欲しいといっていました。わたしのために恥じをかかされたと思った姉は、一夫のために先生からこんな事を言われたと母に言いつけ、母は「わたしはおまえのような悪い子を産んだ覚えはない」といってよく叱られました。それでもいうことを聞かないわたしに手をやいた先生は、今度は親を呼び付け注意しました。母は帰ってきて、「わたしは今日みたいに恥ずかしい思いをしたことはない」といって、さんざん嘆いていたのを覚えています。しかし、実際には、母はうちの子にはこんな良いところもあるといって、多少は先生に反論してかばってくれていたようです。

パウロは12節後半以下のところで「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています」と述べています。コリントの教会の信徒たちを「愛する自分の子供として諭す」パウロは、いわば自分が産んだ子から恩知らずにも侮辱されたり、迫害されたり、ののしられるような経験をしたのです。にもかかわらず、その子らを祝福し、それを耐え忍び、優しい言葉をかけ続けてきたというのです。母はわたしに厳しかったけれども、人前で決して恥じをかかせるようなことはいたしませんでした。パウロもコリントの信徒たちを「愛する自分の子供として諭す」ことに心を砕いてきたのです。激しい愛の叱責を、父親は時に行います。しかしそれは、自分の子供に「恥じをかかせる」ことが目的ではありません。教え諭し大人にならせるための訓練としてそれを行います。

パウロが激しい感情をぶつけるのは、それほど深くコリントの信徒たちを、我が子として愛し、信頼しているからです。他人の子供の悪い行いを見ても、大人はそれほど激しく怒ることはないでしょう。そこに信頼と愛に支えられた強い絆がないからです。しかし、父親の場合は違います。このパウロの教会を思う激しい愛、激しく心をゆすぶる深い感情は、コリントの信徒へのパウロの「父親」としての愛の現れです。

パウロの後、コリントの教会には多くの教師、指導者があらわれ、やってまいりました。しかし、パウロは「キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない」といいきります。パウロは、コリントの教会にとって、自分こそ「霊的な父親」であると断言するのです。

パウロがコリントの人々に厳しく教え諭すには、パウロがコリントの人々に対して持っている独特の立場があるからです。それを、パウロは多くの養育係としてのコリントの教会の指導者たちと、唯ひとりの父としての自分とを対置させています。

当時の社会にあって養育係(パイダゴーゴス)というのは、教師(ディダスカロス)と役割が異なります。教師は授業で教えることを本務とします。これに対して養育係は、主人の子供のしつけや世話をするのが本来の仕事です。学校の送り迎えもその仕事の一つでありました。このような養育係はほとんど奴隷が就き、彼らは社会的に重んじられていたわけでありません。ですからこうした社会的な背景から理解する時、〈キリストにある養育係〉は、キリスト教的生活を教え込むための指導者という意味が含まれています。さらに、パウロは、「わたしがあなたがたをもうけたのです」といいます。ここでは、「わたし」という代名詞が非常に強調されています。

ここでパウロは、コリントの人々の霊的な父であることを強く意識して、これらの事を書いているのであります。しかし、パウロは自分がコリント教会の霊的な父であるからということによって、他の指導者を軽蔑しているかというと決してそうでありません。パウロは他の指導者たちを軽蔑し、自分の優越性を主張するつもりは全くありません。パウロは「父親」ということばによって、自分とコリントの人たちと特別な関係にあることを指摘し、そのことに注意を促しているのです。コリントの人たちがキリスト者となったのは、パウロの宣教活動を通してであったことは、誰も否定できない紛れもない事実でありました。そして、パウロは彼らの霊的な父親として常に彼らを教え諭す権利と責任のあることを、神の前に強く自覚していたからです。

しかし、パウロがコリントの人々の父であるのは、「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」といっているように、あくまでも「福音を通し、キリスト・イエスにおいて」成立した関係に他なりません。パウロはコリントの人たちを新しい存在として生む働きをしましたが、その意味で彼らの父でありましたが、それは、どこまでも、「福音を通し、キリスト・イエスにおいて」であります。キリストの支配の下に、福音を媒介としてパウロはコリントの人々の霊的な父親となったのです。

パウロがコリントの人々に対して持つ父親としての立場と、コリントの教会の人々の子としての立場とは、一方的な服従を要求する関係ではありません。むしろそれは、フィリピ書2章22節において示されているように、両者の関係を成り立たしめたキリストの「共に福音に仕える」関係にあります。

パウロは父親として、「わたしに倣う者になりなさい」と大胆に語ります。世の父親がどれほど、自分の生き方に自信をもって、「わたしに倣う者になりなさい」ということができるでしょうか。また、御言葉に仕える者の何人の人が、「わたしに倣う者になりなさい」ということができるでしょうか。とても私には言えない言葉であると多くの牧師は言うでありましょう。しかし、パウロはここで自分の倫理的な行いの立派さについて言っているのでありません。パウロは自分を救うために命を投げ出されたキリスト、今もご自身に従う教会のために仕えておられるキリストに、仕え従おうとしている「わたしに倣う者になりなさい」、といっているのです。誇る者は主を誇れといったパウロが、「わたしに倣う者になりなさい」といって、自分の立派さを見習えということはあり得ないことです。また、知恵を誇り、分派を作り自分たちの指導者たちを特別賞賛することに警告したあのパウロが、自分を誇り、「わたしに倣う者になりなさい」ということは考えられません。《キリストの養育係》としてキリストの福音に仕える「わたしに倣う者になりなさい」というのです。その父親であるパウロと信徒とのあり方の模範は、パウロとテモテとの間に実に美しい形で存在しています。そして、パウロはテモテとの関係こそ、教会指導者と信徒との関係にまで広げて理解されるべきことであると願っているのであります。

美しい父子の関係は、信仰の目で正しく見つめられていくなら、健全な姿で継承されていくはずのものです。パウロはそのことに対する信仰をゆるぎなく持っています。パウロは我が子テモテを最大級の賛辞で紹介しています。しかし、ここで注意すべきは、テモテがパウロの「愛する子で」あるのは、「主において忠実な者であり」、「わたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方(道)」を彼らに思い起こさせ、教えることができるからです。何とかしてキリストに仕えようとするその姿勢、胸を打ちたたいてキリストの教えに従おうとするパウロの薫陶を忠実に守ろうとするテモテの生き方を見て、コリントの人たちがパウロを霊的な父としてもつことが自分たちにとってどういうことであるかを、知ることができるというのであります。

本当の愛には厳しさがあります。教え諭し訓戒することも愛の業の一つです。地上に存在する教会は罪に満ちた世との関わりの中で、常に悪の力と戦わねばなりません。堕落の危険にいつもさらされているのです。ですから、愛からの訓戒は教会にとって不可欠となります。教会員を愛する真の霊的な指導者は、その愛のゆえに、教会員を教え諭す任務に耐えることができます。そして、教会員もまた、その様に訓戒してくれる指導者を重んじることが求められます。

パウロがコリント教会の霊的な父親として、教え諭すことは、キリスト・イエスにおいて生じた救いの出来事を見つめて生きることです。教会のために自らを貧しくされたキリスト、御自分の命さえなげうって救おうとされたキリスト、弟子たちの足を洗い仕える者としてのあり方を教えられたキリスト、このキリストに仕え倣う者としての自分に倣え、とパウロは父親として語りかけるのです。そして、その一つの模範的な姿として、テモテの姿を見てそれを倣えというのです。

その言葉は、本当に《キリストの養育係》として現実に生きていないと言えない言葉です。教会の霊的な力は、このような霊的な父を持つことによって育つものであることを深く覚えさせられます。わたしたちの伝道所が、教会へと成長するためには、パウロのような《キリストの養育係》として生きる、そのこころがけを大切にする信徒が多く表われる必要があります。パウロは、そのことを深く心に刻んで生きていたので、あえて「わたしに倣う者になりなさい」と言ったのではないでしょうか。そう言えるひとりになれることは、それこそ光栄なことです。キリストはあなた方ひとりひとりに、そう言えるものとなることを願っておられるのです。

新約聖書講解