コリントの信徒への手紙講解

52.コリントの信徒への手紙二8章1-7節『神の恵みに生きる』

第二コリント書の中で、8-9章は独立しています。この2章で取り上げられるのは、エルサレム教会の貧しい信徒たちを助けるための募金に関しての問題です。エルサレム教会の信徒たちは、下層階級に属し、ユダヤ教徒たちの弾圧を受け貧困に苦しんでいました。使徒言行録15章には、エルサレムの使徒会議における割礼問題だけが記されていますが、ガラテヤ書2章10節には、「貧しい人たちのことを忘れないように」との要請を受けたというパウロの言葉が記されています。つまり、エルサレム会議では、割礼問題だけではなく、エルサレム教会のための義援金の訴えも同時に決議されていました。

パウロは、この義援金募金の要請を受けて、諸教会に献金の訴えを行いました。コリント教会にも、既に第1コリント書16章1-4節において、その訴えを行っています。ローマ書15章25-27節には、義援金の目的がはっきりと書かれています。パウロはそこで次のように述べています。

「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」

パウロは諸教会への手紙で、このようにエルサレム教会への募金問題に度々触れています。パウロがこのように言及すること自体、この問題が決して小さな問題ではなく、教会のあり方を示す非常に重大な問題であったことが示されています。ユダヤ人と異邦人が主キリストにあって「一つの民」とされていることを証しする重要な機会として捉えられています。

それだけに、8-9章でパウロが書き記していることは、単なる募金のための訴えにとどまらない、教会論的な献金についての重要な教えが含まれ、今日の教会の献金と、その献金を通しての教会的な一致のあり方を教える重要な教えであることを覚える必要があります。

さて、この二章の表現は、多少持って回った言い方になっています。例えば、中心課題は「寄付」「献金」「募金」ということですが、これらを直接表す語が一つも用いられていません。この表現の間接性は、献金という訴えにくい問題を遠慮したためではありません。献金を自発的な信仰の心で応答することを願っていたからです。そこに信仰の理解、教会に対する一致した理解がなければ、その本当の目的が達せられないからです。だから、教会論的な理解を深めてもらう意図から、このような間接的な表現が取られているのであります。

最初に、パウロは「マケドニア州の諸教会」のこの献金に対する態度について報告しています。ローマ書にも、この献金に自発的積極的に応答したマケドニア州の諸教会のことを記し、この教会を一つの模範として報告しています。

パウロがエルサレム教会義援金募金の訴えに先立ち、マケドニア州の諸教会の報告をしたのは、この献金の持つ意味を、神学的、教会的に理解して欲しかったからです。

パウロは、その意義をはっきりと理解してもらうために、最初の言葉を慎重に選んでいます。パウロは1節で、「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵み」といっております。エルサレム教会への献金は、マケドニア州の諸教会には、「与えられた神の恵み」の機会であったというのです。パウロはそのことについての喜ばしい知らせ、福音を語るように、コリントの信徒たちに伝えたいといっているのです。

献金の業はどのようなものであれ、「神の恵み」の業に参加することです。その恵みの機会をどう受けとめるか、各自の信仰が現れてきます。エルサレム教会の貧しい信徒たちの救済義援金募金に、いち早く応答したマケドニアの諸教会の人たちも、エルサレム教会の信徒たち同様、試練と貧しさの中で苦しんでいる人たちでありました。パウロは2節で、「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」と述べています。

献金、慈善のための業は、経済的にゆとりがあるから出来るというのではありません。なくても出来ます。貧しさの中でも、信仰に生き、「満ち満ちた喜び」に生きている人間は、これに喜んで応えようとします。その信仰が人を豊かにします。その信仰の業に「神の恵み」が現れます。パウロは、それをマケドニア教会の人々の姿に見たのです。

豊かさとは、経済的に富むこと、ゆとりある暮らしをしていることで、困窮や試練がないということではありません。激しい試練と窮乏の中にあっても、同じように窮乏の中に苦しんでいる兄弟のことを覚えて、その献金に喜んで応えようとする信仰に、真の豊かさがあります。

彼らは「力に応じて、否、力以上に、自分から進んで」このわざに参加したとパウロは証します。力以上のことをどうやって出来るか、と人は言うかもしれません。力以上のことはできません。しかし、パウロが言おうとしていることは、何とかできる限りのことをしようという祈りをもって応じたということではないでしょうか。「自分から進んで」、これが、奉仕の業において一番大事な心がけです。

献金は、主のため奉仕の業です。余るものを差し出すのではなく、乏しい中、貧しい状態でも、喜んで奉げる、それが献身です。これが「力以上に」とパウロが言った意味です。しかも「自分から進んで」そうするところに、このわざに与る喜びがあり、人を豊かにするのであります。

8-9章には、「寄付」「献金」「募金」等を直接表す語が一つも用いられていない、とすると、それを表すのに、どういう言葉を用いているのでしょうか。それは、「恵み」「豊かさ」「奉仕」という言葉で表されています。4節の「慈善の業」は、文脈から汲み取った意訳です。本来の語は、1節の「恵み」と訳された言葉と同じカリスというギリシャ語が用いられています。マケドニア州の諸教会の信徒たちは、貧しい人を憐れんでやるという気持ちを少しも持たずに、この業に参加したのです。神の恵みの業に自分たちも加わりたいという願い、祈りの心でこれに参加したのです。パウロは、この献金を「恵み」である。その行為を「豊かさ」であるといいます。そして、「奉仕」であるといいます。

9章5節では、「贈り物」といわれていますが、この語のギリシャ語エウロギアも元来の意味は、「祝福」です。9章12節の「奉仕の働き」と訳された言葉は、ギリシャ語では、レイトゥルギアですから、元々の意味は、「民のつとめ」あるいは、「礼拝」です。そして、9章13節の「施し」も、「交わり」を表す、コイノニアという語が用いられています。パウロは、本来「献金」を意味する言葉を、これらの語をもってあてているのです。

「経済的に困窮しているものを支援すること」は、「恵み」、「奉仕」、「豊かさ」、「祝福」を意味し、「礼拝行為」につながり、「交わり」をもたらすという理解がパウロにあります。

「献金」という言葉をずばり出すといやらしくなるから、間接的に表現した方が良いという、配慮や、遠慮からでた表現ではないのです。献金の持つその神学的、信仰的、教会論的な意味がこれほど豊かなものであるということを、パウロは言いたかったのです。

マケドニア州の諸教会の信徒たちは、「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出た」と、パウロは言います。「慈善の業」は「恵み」(カリス)です。「しきりに」は、原文に忠実に訳すと、「多くのすすめをもって」です。献金の奨励をしたのは、パウロではなく、むしろマケドニア州の諸教会の信徒たちでありました。

これが「自分から進んで」の内容です。主のために良いことをするために、人々に参加してもらうために、「多くのすすめをもって」始める。これがここで言われている大切な点です。隠れて静かにするのも献金ですが、良いことを堂々と進めるのも献金の業です。自分から進んで、というのは、自分ひとりというのではない、多くの人に与ってもらいたいという祈り、それを一緒に持つ信仰です。

5節は、この献金問題をめぐる一番重要な教えが示されているところですが、新共同訳の翻訳は良くありません。文法的にはこのように訳せなくはありませんが、「神の御心にそって」という語は、「自分自身を」まず主に対してそして、私たちに対しても、献げたと訳すべきところです。前の口語訳も新改訳もその様に訳しています。パウロは神学的にそう理解して語っているのです。そうでないと、献金という言葉を、直接用いず、礼拝行為における神の恵みに対する応答としての用語を用いている意図が通じなくなります。その業の中で一番重要な判断が、「神の御心を知る」ということです。それを知って、それにしたがって、先ず神に、そして、それに仕える使徒に、教会に仕えていく、という順序が大切なのです。献金は、パウロがローマ書15章27節において述べておりますとおり、どこまでも「肉のもので」奉仕する行為ですが、その根本には、神の御心に従う、主に自分自身を奉げる、主の教会のために献身するという信仰がなければ、その業を全うできないのです。

マケドニア州の諸教会には、パウロは期待していた以上に、その信仰があったことを、喜んでいるのであります。

パウロはその信仰の模範にしたがって、テトスをコリントに遣わすに当たって、彼に、「この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるように」勧めたといっています。それは、コリント教会の豊かさを示す機会として欲しいというパウロの祈りをもっての派遣であったということです。7節は、フィリピ書1章6節で神について述べているのと同じ言葉使いが用いられています。フィリピ書では、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしたちは確信しています」と述べられています。ここでも「慈善の業」は、「神の恵み」の業ですから、この業自体に、神が働き、神の恵みの力によって成し遂げるようにとの、祈り、願いが込められています。

人は、神の恵みに与って救われます。その恵みに生きる人間は、神が教会の働きを通して必要としておられる御心に、献身することによって、はじめてそれにふさわしく生きることが出来ます。コリントの教会は、マケドニア州の諸教会に比べて、信仰、言葉、知識、熱心の点で、豊かであったとパウロも認めています。しかも、「わたしたちから受ける愛」においても、「すべての点で豊かなのですから」、といわれているように、この献金の恵みにおいても、豊かな者となりなさい、とパウロは勧めているのです。

このパウロの勧めは、わたくしたちの献金の業、協力伝道や、中会や大会の業として行われる働きのための献金を考える上で、非常に教えられます。

献金という業は、どこまでも肉の働きで得た果実で仕える行為です。しかし、そこに「神の恵み」に仕える信仰が伴う時、その恵みに奉仕しようという祈りと願いが伴う時、余るものがないと出来ないというのではなく、貧しさの中にあっても惜しまず奉げる豊かな心が育ち、その心で奉げようとします。そこに神の御心があると知るからです。それが、神の御心への献身です。しかし、その神の御心は、教会の働きを通して知らされるものであります。その様にして知らされた神の御心にしたがって、まず、主に、そして、教会の働きのために、「肉のもので」自分自身を奉げる、これが献金の業であります。

神の恵みは、実際、教会の中でその様に生きて働くのです。その恵みの業によって、エルサレムの教会とコリントの教会がつながっている、教会が一つになっていることを知ることは、非常に大きな喜びであり、互いに励みとなります。その心のない、信仰のない献金の業というのは、たとえ目標の額が達成し、経済的に困ることがなくても、教会を豊かにすることがありません。教会の業をいつも祈りに覚える、そういう関心と注意深さが求められているのであります。「肉のもので」も神に本当に喜んでもらえる、奉仕があることを知り、教会の訴える業に注意と関心を示し、これに応える教会となることの必要性を、パウロ教えているのであります。

新約聖書講解