コリントの信徒への手紙講解

33.コリントの信徒への手紙一15章20-28節『キリストの復活と終末』

この段落は、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについていた人たちの初穂となられました」(20節)という言葉で始まっています。「しかし、実際」は、直訳しますと「今や、しかし」となります。パウロがこういう書き方をする時は、非常に重要なことを語る時です。ローマ書3章21節は、信仰による義について語る非常に重要な個所ですが、その冒頭の言葉は「ところが今や」となっていますが、ギリシャ語では、Ⅰコリント15:20全く同じです。

今、という時を殊更強調し、新しい時の始まりとしての「今」を強調する場合のパウロの決まり文句です。今、この出来事を持って大転換が起こった、という知らせを告げる言葉が、「今や、しかし」です。しかもその大転換がいずれもキリストにおいて起こっている点が重要です。キリストにおける出来事がキリストに属するすべての者に転換をもたらす時の開始を、「今や、しかし」という言葉が告げるのです。

パウロは、私たちの存在、この世界、宇宙を一変させる出来事として、キリストの死者からの復活を語ります。

「キリストは死者の中から復活した」ということが、コリントの信徒たちに宣べ伝えられ、福音の言葉として聞いたという事実が12節で語られていますがここで今や既に起こった事実として積極的に述べられています。この言葉は、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」という3節の言葉と結び付けて理解する時、福音としての意味をより深くと捉えることができます。パウロはローマ書6章23節で「罪の支払う報酬は死です」と言っています。人の死は罪の結果としてもたらされた問題であるというのが聖書における死の捉え方です。キリストがわたしたちの罪のために死なれたということは、その死によってわたしたちを縛る罪の力を滅ぼし、無力化したということです。キリストは、十字架の死に至るまで神への従順を全うし、神の意志から背こうとする不信仰の罪に打ち勝たれたのです。キリストはその罪に打ち勝たれた勝利者として復活されたのです。

そして、父である神は、キリストを復活させることによって、罪と死がもはや「この世」を支配する最期の力でないことを明らかにされたのです。26節において、「最後の敵として、死が滅ぼされた」といわれていますが、これは非常に重要な意味を持つ言葉です。

その意味で、「キリストは死者の中から復活した」(20節)と語られていることに大きな意義があります。キリストは罪に支配されて死んだ者の中から復活されたのです。しかもその復活によって、キリストは「眠りについた人たちの初穂となられた」といわれています。

ユダヤ人は収穫の初穂を神に捧げる習慣を持っていました。パウロはユダヤ人でしたから、ここはその習慣を背景にして語っています。神に初穂を捧げることによって、それに続く収穫のすべてを捧げ、また収穫のすべてが神に祝福されることを願いました。ですから、キリストの復活が初穂といわれるとき、それは死者の復活を待ち望むすべての人にとって、終末における神の恵み、復活を先取りする出来事として語られています。そして、やがて自分たちも復活に与ることを約束する出来事として語られています。

つまり、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」という言葉は、終末的な意味を持っています。キリストにおいて起こる終末的出来事の先取りが「初穂」という言葉に表され、それと結び付けられた「死者」の問題が語られていることに、大きな慰めと希望があります。

パウロは、ここで終末論の問題を論じています。わたしたちは、終末論というと世の終わりの時のことと考えがちですが、終末の出来事は、現在の出来事と深い関わりの中で実現する事柄です。キリストの復活は、終末における出来事の先取りとしての意味があります。だから、キリストの復活は、終末の出来事を現在化させる意味を持っています。

パウロはそのことをよりはっきりさせるために、アダムとキリストとの対比を行なっています。ここではそれほどはっきりとはいっていませんが、ローマ書5章12節以下の言葉を対比しながら読むと、パウロは、死は一人の人アダムの不信仰によってもたらされ、復活は一人の人キリストによってもたらされたと語っています。アダムとキリストは、宇宙的・終末的普遍的人間として、その者が属する世界、運命全体を支配する仲保的存在です。

アダムと人類との関係は、42節以下の議論と対比して見る限り、自然的・地上的・肉的な体として語られ、文字通り「すべて」の人類がそこに含まれ、そのままでは死ぬべき、朽ち果てるべき存在として語られています。

しかし、キリストと人類との関係は、霊的・天上的な体として語られています。その関係は神の恩恵としての聖霊を媒介として、わたしたちの内にキリストへの信仰を生み、この信仰はキリストの復活信仰と結びつくとき、わたしたちをキリストの復活の肢体としてその生の全体をキリストにかかわるものとなります。

だから、「キリストによってすべての人が生かされる」というのは、アダムにある自然的人間全体を包括する言葉ではなく、聖霊の恩恵の働きによってキリストを信じる者がキリストの肢体とされ、一人のキリストとして、その「すべて」が復活の命に生かされるということを意味します。

宇宙的・終末的にはキリストに属する者は皆、キリストの肢体として「すべて」復活に与るわけですが、この終わりの出来事には「順序」があることを示します。20節でキリストの復活が「初穂」として語られていましたが、23節では、キリストの復活は終末の「最初」の始まりとして語られています。終末はキリストの復活と共に始まるわけですが、復活のキリストは再臨されるとき、キリストを信じて死んだキリストに属する人たちを復活させて、この世の終わりが来ると語られています。

キリストの再臨によってもたらされる終末の時は、キリストに敵対する支配、権威、勢力を滅ぼし、父である神に国を渡される、時です。

キリストの復活によって、終末は、すでに現実のものとして与えられています。わたしたちの復活もキリストへの信仰においてゆるぎない確実なものとされています。しかし、キリストが再臨し、キリストに属する者の復活が起こり、キリストに敵対する世の支配が終わる時まで、キリスト者を支配するもう一つの勢力が存続することも明らかにされています。そのもっとも大きな敵、力としての死が存続することも語られています。この死と結びつく、病気や試練や苦しみ悲しみの原因は、キリストに敵対する支配、権威、勢力がこの世に存在することによって起こることが語られています。だから、キリストに敵対するものがすべて滅ぼされない限り、わたしたちは、悩み、苦しみ、悲しみから、完全に解放されないわけです。

しかし、こうした悲しみの究極の原因である最後の敵としての死そのものが滅ぼされ、神に敵対するすべての勢力がキリストの足の下に置かれ、その威力をぜんぜん発揮できないようにキリストに服従させられる、日が約束されています。それは、キリストが万物の主権者・王であられることが明らかとなるのが終末の時です。その終末において、御子なるキリストご自身が父なる神に服従されます。そのことによって、神こそすべてにおいてすべての存在であられることが完全に明らかにされます。すべては神から出で神によって成り立っているということが、キリストの勝利によって明らかになるのです。

現在はというと、キリストの再臨の時が来ていないわけですから、依然としてわたしたちは、死ぬことを免れ得ないわけです。悩みも苦しみも悲しみも人生には伴います。この世は神がすべてを支配しておられるわけですが、神に敵対する支配、権威、勢力が存在します。こうした力がわたしたちを悩ましているわけです。その究極の勢力、敵として死の力があります。

しかし、死者の中からキリストが復活されたことによって、「今や」既にキリストを信じるわたしたちの存在全体は、キリストの支配の下にあるのです。わたしたちの現在の生は、なお死なねばならない肉の弱さにありますが、既にキリストの復活の命に包まれているのであります。

わたしたちの人生を見る目、世界を見る目は、現実の悲惨、死の悲しみに支配されていないのであります。キリストの復活から終末を見る目が与えられているのであります。キリストの復活は、神がキリストに属するすべての人に与えようとされている命そのものを示しています。

ですからキリストの復活を信じるということは、その復活の命に私たちが結び付けられているということであり、私たちの現在の生において既に神がすべてにおいてすべてとなられているという事実を信じることです。

ですからたとえ死に直面する危機の中にある者であっても、キリストに属する者はキリストがその復活によって既に死を滅ぼしておられるゆえに、死に支配されることはないのです。今まさに死ぬかもわからない命であっても、キリストに属する者を支配しているのはキリストの復活の力です。終末はキリストの復活によって既に来ているのです。キリストを信じるわたしたちは、終末を生きる自由と喜びを享受できる者にされているのです。現在、どんなに悩みや苦しみや悲しみがあっても、キリストにあって癒される希望の中にあるのです。それは、キリストの復活が私自身の復活であると信じているからであります。

新約聖書講解