コリントの信徒への手紙講解

37.コリントの信徒への手紙一16章1-4節『エルサレムの信徒のための募金』

コリントの信徒への手紙一の最後の16章は、エルサレムの信徒のための募金計画とパウロの伝道計画のことが1—12節に記され、その主題が章全体(13-24節)に及ぶ記述になっています。キャンベル・モルガンは、この章の注解において、15章の最後の節の初めにある、「こういうわけですから」(ギリシャ語オーステという接続詞〈だから〉)に注意を促しています。

この「だから(オーステ)」が、復活についての真理にまでさかのぼるという一般の解釈が本当であることをモルガンは疑わないが、それが真理全体でないことも疑わない。しかし、これが真理の全部であるとは考えないと述べ、「だから」が何にかかり、先行する事柄が何であるかを見つけるためには、手紙全体をさかのぼり、1章9節まで行かなければならないと提唱します。パウロはコリント教会と、普遍的な教会とに、この手紙を記している、「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人」(1:2)にあてて書いたのであり、コリント教会に向かって彼が語る事柄は、どの教会に向かっても言いたかった事柄です。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」。これは教会の使命と機能とを啓示するものとして重要である。教会はイエス・キリストとの交わり、コイノーニア、事業、愛の交わり、にまで召されている。大切なのは、教会は主の交わりに召されてその事業に参加することで、神はそのために教会を召し出した。この手紙を書き終わった後で、パウロはいま、最後の「だから」という。肉による教会の失敗と、霊による力の秘訣についてパウロが述べたすべての事柄を受けていたのです。

わたしたちは神に召されて、子なるキリストの交わりに、その伝道と事業との交わりに入れられたのです。神は誰も滅びることを欲さない真実な方であることにパウロはまず注意します。「だから、神は真実な方であり、そして、私たちはその交わりに入らせていただいたのだから、あなた方も真実であれ」というのです。

パウロは二つの重要なことを述べています。第一は、神は教会を召してイエス・キリストとの交わりに入らせてくださる。神は真実な方である。第二は、これを基にして教え全体によって註釈させ、教会は一つの義務を負うという。それは「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」、という。

ここに一つの大きな主題が展開する。パウロは、教会の属する人々は、神にお手伝いするのには、神のためになすべき事柄を見出さねばならないといったのではない。

主の業とは何か、話すことは不可能である。わたしたちがしなければならないことは、新約聖書に戻って主を見つめることです。主の言葉に耳を傾け、主の言われる事柄のうちどれが重要な言葉かを理解せよ。そうすれば主の業が何であるかを見つけることができる(ルカ19:10、マタイ9:13、ルカ15章の三つのたとえ話など)。失わせたものを探すために山々を越えて旅することは何か、それを私たちは知っているだろうか?「堅く立って」、これは個人的な真実のことを述べており、真実を固執せよといっているのである。たとえ日曜学校を優等生で卒業しても、本当に信頼することはできない。「堅く立って」は、常にそこにいることである。我々が主の業に励むとき、反対にあわざるを得ない。しかし、労苦も主にあっては無駄になることはない。この章の価値は個人的なものよりも以上のものである。

この章を考えると、教会が見えてくる。エルサレムの地区教会が、コリントの地区教会が。マケドニアとガラテアの諸教会が。しかしこれら諸教会のすべてが、相互の連帯性によって一つの教会を構成している。

まじわり、これが基本的主張である。主イエス・キリストとの交わり、わたしたち相互の交わり、これがこの章において基本的、終局的、実際的な適用を受け、エルサレムのであろうと、コリントのであろうと、どこのであろうと、教会の会員は、まず主との交わりにおいて結ばれ、相互の交わりに結ばれ、一人が苦しめば皆苦しみ、一人が喜べばみな喜ぶ、共同生活のスリルがキリストの体すべてに脈打っている。

パウロ、テモテ(10節)、ステファナ、フォルトナ、アカイコ(17節)、アキラ、プリスカ(19節)。これらはみな教会員であり、教会のわざに関与している。それがこの章全体の栄光であり、美である。

第一の区分(1—4節)には、全教会が見える。当時の状態が見える。それはエルサレムにある教会に関することであった。当時エルサレムにある教会は、富んだ人がいなく貧しかった。パウロはローマ書でも同一の事実に言及した(ローマ15:22以下)。

エルサレムは破壊され滅んでしまっている。主は使徒たちに、エルサレムから始めて、ユダヤとサマリアの全土、地の果てまで、主の証人たるべきことを命じた(使徒1:8)。迫害が起こるまで教会と特権に執着し、本当の霊力を失っていた。迫害で彼らは追われ、苦難と圧迫の下に、ユダヤとサマリアの全土を出て行き、地の果てまでも出ていくようになった。この時までに彼らは大部分追い出されていて、残っている連中はみな貧しかった。教会は困窮し、富んだ人は一人もいないようであった。

このことがコリントとどのような関係があるのか。ガラテアの諸教会とどんな関係があるのか。その他パウロの伝道によって設立された教会とどんな関係があるのか。これらの諸教会は、苦難の内にあるエルサレムの聖徒たちと交わりを持つ責任があり、生活の共同と献金とを実践する責任があった。キリスト教会の理想の美、その共同体をわたしたちは見る。そしてキリスト教会の社会が現れる。パウロはここで献金の指示を与えている。

この指示は、教会の地方的事情に対処するためのものである。エルサレムにある兄弟姉妹のひどい苦難に同情して、彼らに助力すべきである。これは特別な窮状に対する指定献金であった。

第一、 献金は定期的、組織的に、週の初めの主の日に行われるべきであった。
第二、教会員は各々その富の程度に応じて寄付すべきである。寄付は個人的なものであるべきである。

パウロは細心に、寄付は霊的な事柄の助けとなるべきであることを示す。自身が訪ねていくときに、集金するべきではない。

これらの献金は教会によって届けられるべきである。しかし一切は教会が特に任命した役員によって事務的になさねばならない。

神の教会は、神の全教会が彼らとともに苦痛を分けるべきであり、さらに彼らの窮乏に奉仕すべきである、とパウロはいうのです。

16章の大部分は具体例のページです。この章の内容はパウロの最後のことばと、個人的な挨拶です。事実問題として、使徒がこの手紙の中で主張したどの事柄も、ここで扱われています。具体例のページではあるが、主のわざにおける教会の交わりを具体例で説明しているのです。

こうしてパウロはこの手紙の冒頭に連れ戻しています。そこでパウロは基本的な大真理を定置しました。神は真実な方である。あなたがたは神によって召され、主イエス・キリストとの交わりに入れられたのである。神の子との交わりにある教会、これがこの手紙全体を通じての主題である。したがって、主の業を行うため、完成するために、教会員は互いに交わるのである、とパウロは言います。

教会は一つに結ばれていて、一員が苦しめば全員が苦しみ、一員が喜べば全員が喜ぶ。全教会が共同生活を営み、主との交わりの生活を営み、したがって相互の交わりの生活を営む。だから、エルサレム教会が窮迫すれば、ほかの諸教会が献金をもって援助にくる。本章の初めの4節で、教会の交わりがこのように互いに行われるのを見ました。共に生きる教会としての交わりと献金を結び付けて理解することの大切さを深く教えられます。

新約聖書講解