ガラテヤの信徒への手紙講解

16.ガラテヤの信徒への手紙4章1-11節『神の子とするために』

この御言葉は、3章26節で、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」と述べられていたことを通して与えられるキリスト者の自由を語っています。3章26-29節においては、差別なき、イエス・キリストにある救いの平等性が論じられていましたが、ここでは自由の問題が主題となっています。そのように説明しますと不思議に思われるかもしれません。なぜなら4章1-11節に、自由という言葉が一つも出てこないからです。

しかし、父の財産を相続する子の身分でありながら、後見人や管理人の監督の下にいるという言葉や、奴隷として仕えていたという言葉が示すのは、キリストとの結びつきを信仰において与えられていないときの自由のない生の現実です。パウロがこの手紙において終始一貫して述べていることは、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者とがキリスト・イエスにあって同じ救いに与っているということです。イエス・キリストへの信仰によって、すべての人が等しく救われ、その救いの中で自由が与えられているということです。

その事実は、3章29節において、キリストのものとされた者は、皆「アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」と述べることによって強調されています。アブラハムはユダヤ人にとって信仰の父ですが、異邦人キリスト者にとってもそうです。それは神の約束を信じ、神の約束に己が生きる道を委ねるすべての者の父となったという意味で言われています。

アブラハムは神の約束を信じつつも、その約束をすぐに手に入れることができませんでしたが、なおもその約束を信じて生きた人物として聖書の中で特に記憶にとどめられているのです。ユダヤ人は、その子孫として、神の恵みを約束された相続人とされていましたが、相続人が「父親が定めた期日まで」後見人や管理人の監督の下に置かれるように、奴隷の子と変わらない状態に置かれ、身分なき者のような扱いを受けていたという意味では、彼らは本当に自由なものではなかったということをパウロは4章1-2節でのべています。

1-2節と、3節は論理的には何のつながりも持たないことを述べていますが、パウロは、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者とは、救いの本質において何の差もない、同じ自由な恵みによる救いの相続者とされているという議論をしていますので、その後見人が相続人の自由を一定期間奪う同じ役割を、「世を支配する諸霊の奴隷として仕える」という言葉で、パウロはやや強引に、結び付けようとしています。異邦人は、かつては神を知らないものとして、他の神々を神として奴隷として仕えてきたという歩みをしてきたと述べ、それを「無力で頼りにならない支配する諸霊」に隷属させられる現実として述べることによって、ユダヤ人キリスト者が未成年の時代、「世を支配する諸霊の奴隷として仕えていた」現実と本質において同じであることとして語っています。こうしてユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の両方を隷従させた「世を支配する諸霊」の業を語っているのであります。

ユダヤ人は、天地の創造者である唯一のまことの神を知らされていたのに、「世を支配する諸霊の奴隷として仕える」ものであったというのは、ちょっと不思議な感じがしますが、パウロはその現実を、10節において、「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。」という言葉で、その不合理な問題を明らかにしようとしています。つまり、ユダヤ教の中で宗教的な様々な暦が出来上がってきました。その暦に従って様々な祭りを祝い、断食や食事に関する定めや制限が加えられるということが行なわれました。パウロの教えに異議を唱え、こうした習慣を重んじるユダヤ主義キリスト者の考えに、異邦人キリスト者は振り回されて、救われるためにキリストの救いとは別に、そのような習慣も重んじなければならないという考えに心変わりした、そういう事情が背景にあるようです。異邦人キリスト者は、かつて真の神を知らない者として、まことの神でない神々の奴隷として仕えていましたが、キリストを知ることを通して、まことの神を知る者にされ、また、まことの神に知られる喜びを味わう自由を経験したというのです。これまで彼らが異教宗教の中で、いろんな迷信を信じてきた、また信じるように強要される経験をしてきました。それらは、真実な神から出たものでない故に、9節で、「無力で頼りにならない支配する諸霊」の業として説明されています。ユダヤ人がキリストの来られるまで守っていた、「いろいろな日、月、時節、年などを守る」習慣もまた、パウロは「無力で頼りにならない支配する諸霊」の業として語っているのであります。そのユダヤ人の習慣を受け入れることは、「無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしている」行為になるとパウロは厳しく批判しているのであります。これはやはり多くの神々によって支配されて生きてきた日本人が、キリストの福音を受け入れるときにも起こる問題でもあります。パウロはそれを「無力で頼りにならない支配する諸霊」また「世を支配する諸霊」という言葉で呼んでいます。キリストは、そういう迷信や宗教的決まりごとに縛られ、奴隷的に支配される自由のない状態から解放し、真の自由で喜びに満ちた神の子としての身分にわたしたちを導きいれてくださった恵みをここで語っているのであります。

ここで、パウロは、キリストにある自由、恵みによる救いと対比して、律法の問題を論じています。その対比において律法は、罪の囚人として人々を閉じ込め、罪を自覚させ、キリストへ導く養育係のような消極的な意味しか持たないことを明らかにしています。ここでの議論は、どこまでもイエス・キリストのおいてなされる救いの問題であり、その救いの中にある自由の問題です。だから、律法はキリスト以前の未成年の時代の後見人、管理人であり、「世を支配する諸霊」の働きでしかないとうのです。その支配下にある人間は、奴隷として自由を持たない存在である、とパウロは述べているのです。「しかし、時が満ちると」といって、パウロははっきりと時代が転換した事実を4節において述べますが、この言葉は明らかに2節の「父親が定めた期日まで」という言葉との関係で述べています。「時が満ちる」とは、この場合、神の救いのときの充満のことを表します。その充満は、「神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになる」という出来事として語られています。4節は、どこまでも御子の受肉の事実を語っています。神の御子イエスは、「女から」生まれるだけでなく、「律法の下に生まれる」ということを通して、徹底して神の御子であるキリストがわたしたちと同じ人間性をとり、人間の側に立たれたということです。「律法の下にある」者たちとの完全な連帯のうちに生きられたということです。それは、まさに堕落後のアダムにおける罪の現実の下に立たれたということです。御子自身は罪を持たない神であられましたが、そのように弱い罪の人間性を身に纏い、「律法の下に」立たれたというのです。だから、主イエスは、恐れや孤独や苦難や誘惑や疑い、そして究極的には神に見捨てられる十字架の審きを身代わりとして引き受けられることによって、常に脅かされる不安な人間の生活のあらゆる状態に陥る弱さをご自身の問題として引き受けられたというのです。御子は、自らは罪を犯されませんでしたが、そのようにして罪深いこの世に属するものとして、常に死にさらされる弱さを共にされたというのです。パウロは、その事実を5節において、「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」という言葉で述べているのであります。

この場合の神の子とするという言葉は、キリストを長子とする(ロ-マ8:29)その兄弟として、神の家族の相続人の身分に養子とされるという意味で述べられています。1-11節において、人称代名詞は、一人称単数から複数形、また二人称の複数形や単数形へとめまぐるしく多様に用いられています。2章においては「わたしたち」と「あなたがた」をユダヤ人と異邦人を区別する意味で論じていますが、ここではそのような明確な区別を設けることはできません。むしろ「わたしたち」という語は、その両者が共に与るキリストにある救いの恵みの事実を強調するために用いられています。それは3章26節以下において述べられているように、すべての人は皆「キリスト・イエスにあって一つ」にされている事実から考えても明らかです。ここでは神の御子であるキリスト・イエスにあって、皆、律法の支配から贖い出され、自由にされ、神の子とされたというのです。後見人の管理下からも自由にされたという意味では、大人の扱いを受けたということもできます。

この身分の転換は、キリストにある、法的な側面のみが強調されているのではありません。神の救いはもっと深く豊かに表わされています。それはわたしたちの実質的なあり方、内なる状態の面においても及ぶ変化として、6節において「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」、と述べられています。「アッバ」というのはアラム語です。主イエスと弟子たちが日常語として用いていた言語です。パウロはこの手紙をギリシャ語で書いていますが、この「アッバ」という語をそのままアラム語で用いています。これは、主イエスが祈りのとき父に向かって親しく用いた言葉でもあります。幼児が親しく安心して用いる「パパ」「とうちゃん」という意味を持つ言葉です。そういう近さ、安心、平安の中で、自分はその名を呼ぶ父の子であることを自覚する言葉が、「アッバ」です。そのように呼ぶことのできる心の状態を、「御子の霊」が心に植えつけられ、私たちの心をいまや支配するのは、「無力で頼りにならない支配する諸霊」ではなく、御子の御霊です。その御霊が支配し、わたしたちの心に送られ、私たちの心を神の子にふさわしく造り変えて、神の子として成長させてくださるというのです。このような素晴らしい救いを「あなたは」といって、受けるものとされていることをパウロは力強く語っているのであります。神が一人一人の名を個別的に覚え、「あなた」と呼んで覚えてくださるというのです。わたしたちはもはや奴隷ではなく、「神の子」です。神によって立てられた相続人です、といって私たちの全存在を包み込んで、「無力で頼りにならない」「世を支配する諸霊」から自由にし、神に生きる自由を回復してくださっているというのです。神の子としてそのような素晴らしい自由に生きる存在に私たちは造りかえられているというのです。

だからといって、パウロはここで、「世を支配する諸霊」の活動が停止し、わたしたちを悩ましたり、誘惑したりすることが全くなくなったといっているのではありません。世の終わりの日に、キリストが再び来られる日まで、その戦いは続きます。しかし、わたしたちを今現実に支配し導いているのは、わたしたちを神の子とされたキリストの贖いの力であり、神の子とする御子の御霊の豊かな導きです。パウロは、この恵みの事実に目を向けながら、現実の戦いに絶えず勝利できる力も神から与えられる神の子とされているという事実に目を向け、神の国の相続する神の子とされていることを、絶えず覚えながら歩んで生きることが大切であると言っているのであります。

新約聖書講解