コリントの信徒への手紙講解

21.コリントの信徒への手紙一9章24-27節『朽ちない冠を得るために』

ギリシャでは、今日のオリンピック競技の元になったアテネのオリンピアで四年毎に競技会が開かれていました。そのような競技会はオリンピックだけでなく、様々な都市においても定期的に行われていました。コリントにおいても、二年毎に「コリント地峡大競技大会」といわれるものが開かれていました。オリンピックでの優勝者には賞品としてオリーブの枝で作られた冠が与えられましたが、「コリント地峡大競技大会」での勝者に贈られる賞品は松の枝で作られた冠でありました。競技場で競い合う者はその賞を得るために日頃から精進し節制して努力をします。パウロはここで「賞を受けるのは一人だけです」といっていますが、強調は賞に輝く者が「一人」しかいないというところにあるのではなく、「賞を得るように走りなさい」というところに置かれています。それは、「福音に共に与かる者となるため」という23節の言葉との関係から見ても明らかです。

パウロはここで信仰生活を異教徒が参加する競技会の譬を用いるのは、異教徒でさえその競技会で賞を得るために「節制」し努力するのであれば、永遠の命を約束されているキリスト者はなおさら、それに相応しい「節制」が必要であるということを強調するためです。しかし、ここで運動能力を競う競技会の賞とキリスト者が神から賜る賞とが同じレベルで論じられているのかというと、そうではありません。

競技場で走る者に与えられる賞は、「朽ちる冠」ですが、キリスト者に与えられる冠は「朽ちない冠」です。

「競技をする人は皆、すべて節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」とパウロは言います。

「節制する」を表すギリシャ語の動詞エンクラティオマイは、エンクラテイアという名詞に由来します。エンクラテイアは通常、人間のあらゆる欲望、飲食、性に関する事柄や、弁舌に関係することに用いられます。エンクラテースは、いかなる誘惑にも悩まされず、または、惑わされもしない自由で独立した、自立している人間を示す場合に用いられます。

エンクラテイアはギリシャ世界では、個人倫理の問題として高い徳目としてよく用いられますが、聖書にはこの語はほんのわずかしか用いられていません。特に福音書にはエンクラテイアの語は一つも見られません。新約聖書にはわずか7回用いられるだけです。その内パウロの手紙には4個所で用いられています。Ⅰコリントには7章9節とここに用いられています。ガラテヤ5章22-23節では聖霊の結ぶ実の徳目として用いられ、ティトス1:8では監督の徳目として数えられています。この使用頻度の少なさと用いられ方が示すとおり、「節制」は、元来、ギリシャ世界で見られる個人倫理の徳目でありました。だから新約聖書を記す者たちは、キリスト教的な生活の形成のあり方を、ギリシャ的な個人倫理の問題ではなく、神より提示された救いの応答として理解すべきことと考えていましたから、ギリシャ世界で用いられている個人倫理の徳目表に上げられている「節制」という言葉を用いることを潔しとしなかったことにその理由を求めることができます。

ですからパウロが「節制」という言葉を用いる場合も、新しくキリスト教的な意味付けを行って、特に教会統治の必要上、異教の世界から改宗した人にも理解できる形で用いています。

これらの徳目表を用いること自体、キリスト教が異教世界の中で深く関わりながら教会を正しい姿で建て上げていくべき課題を示しているのであります。この手紙をパウロが書いたときのコリントの教会の状態がギリシャ世界に見られる徳目の一つ「節制」という言葉を用いなければならないほど、倫理面でも恥ずべき現実があったことを示しているのであります。

しかし、パウロは救いの完成は一方的な神の恩寵として、イエス・キリストの救いの御業、十字架と復活によってもたらされたと語っていますから、それと対立する「節制」という個人の修練・努力の賜物としての救いの完成を強調しようとしているのでないことは明らかであります。

パウロが言おうとしていることは、「朽ちない冠」を知らず「朽ちる冠」しか知らない者ですら、その栄冠を受けるために「節制」し努力しているのであれば、ましてや「朽ちない冠」、即ち、「永遠の命」を約束されているキリストを信じる者は、それを受けるに相応しいキリスト教的な「節制」があるではないか、ということであります。

競争する者は目標を持たず闇雲に走ったりしません。優れた拳闘家は空を打つような無駄なパンチを打ちません。何をすれば勝利の栄冠を手に入れることができるかよく知っているので、無駄な走り方、無駄なパンチを繰り出しません。ゴール、目標が良く見えているからです。キリストから賜る永遠の命の恵みの絶大な価値を知るキリスト者は、そのゴールがはっきりと見えているはずです。わたしたちは、終末の時に与えられる「義の栄冠」(Ⅱテモテ4:7-8)、「しぼむことのない栄冠」(Ⅰペトロ5:4)、「命の冠」(ヤコブ1:12,黙示2:10)を目指して走るキリスト者に相応しい生き方があるのであります。

27節の「体を打ちたたいて」の元になるギリシャ語は「目の下を打つ」とか「うるさくする」という意味があります。それは、奴隷の目の下を、いうことを聞くようになるまで打ちたたくことを意味していました。「服従させる」は「奴隷にする」という意味であります。自分の体を自分の意志に従うようそこまで鍛錬するという意味であります。

自分はもう救われているのだといって安心してしまって、もう何をしてもよいと怠惰になるのでなく、絶えず救われた者としてのふさわしい生活を心掛けるべきではないかと、パウロは述べているのであります。

ウエストミンスター小教理問答の第1問の答えに、「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」とあります。わたしたちは、ただ罪赦された存在でありません。罪赦されて、神の前にある本来の人間の姿に回復させられた存在であります。それは、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」存在として変えられたということを意味しているのであります。そのような存在に福音によってされているのであります。キリストにあって新しく神の前に自分を吟味しつつ生きる、それが宣教の教会に連なる一人として相応しく生きる道であります。キリストご自身が私たちの罪、弱さを担って救いを完成してくださいました。それを福音としてわたしたちに無償で与えられているのであります。そうであるが故に、「福音のため」「福音に共に与かる者となるため」に、相応しく生きるキリスト教的な「節制」の生活というものがあるのであります。

「他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」と、パウロは自分に言い聞かせ、教会に言い聞かせているのであります。宣教の教会は異教の人々よりも高い倫理が求められるのは、「朽ちない冠」を与えられているからであります。高い栄光を知ることを許されているからであります。体も魂も、滅ぼすことのできる方を知っているからであります。体は魂の牢獄ではなく、その体さえ神の栄光を現す器であることを知らされているからであります。だから私たちは神から賜る自由で、その体を、奴隷のように自由に自分の意志に従わせ、神の栄光を現す器として用いるのです。そのことが、人々をそして自分を、「福音に共に与かる者」とすることができる宣教の働きに役立てるというのであります。私たちの地上での労苦、働きのための節制は、不潔なものから魂を遠ざけるためのものではありません。そういう禁欲が目的ではありません。他の人が救われるためであり、福音が世に侮られないためであります。全存在を通して神の栄光の器とするためであります。すべては「朽ちない冠を得るためのもの」であります。

新約聖書講解