ガラテヤの信徒への手紙講解

9.ガラテヤの信徒への手紙2章15-16節『ただイエス・キリストへの信仰によって』

パウロがガラテヤの信徒に宛ててこの手紙を書いた主な目的は二つです。第一は、自分がまさしく使徒であるということを証明するためです。この第一の目的は、すでに1章のはじめから2章14節までにおいて、具体的な事実も示しながら十分説明をし、パウロ自身証明できたと考えているようです。第二の目的は、ガラテヤの信徒たちの信仰を誤った考えから守るためです。それは、ヤコブのもとからやってきた人たちが、人が神の前に正しいとされて救われるためには、イエス・キリストの福音を信じるだけでなく、割礼を受け、律法を守ることが必要だという誤った主張をしていましたので、この誤りから教会を守らなければ、教会は「キリストの福音を覆す」誤った方向を歩むことになるという、危機を感じていました。パウロは、むしろ、自分の使徒の権威を疑われるよりも、この誤った考えに教会が振り回されることにより強く恐れを抱いていました。だから、この本来の問題に早く議論を移して行きたいという思いを抱きながら筆を進めていた、と思います。

パウロはアンティオキアでの愛餐の交わりの問題で、ヤコブの下からある人々が来るまで、ペトロが割礼を受けていない異邦人キリスト者と一緒に食事をしていたのに、彼らが来ると彼らの顔色をうかがうように、その交わりから身を引こうとしてことに対して厳しく非難し、叱責しています。ペトロのこの行為にバルナバも引きずられた姿を見たパウロは、ペトロたちの行為を、「福音の真理にのっとってますっぐ歩いていない」(14節)といって厳しく叱責しています。「のっとる」という言葉は、直訳すれば、「向かう」という意味だということを前回説明しました。それは、福音に向かって、心を向け、人の顔色などを気にせず、まっすぐその真理だけに従う生き方です。福音というのは、イエス・キリストが十字架において成し遂げてくださったことが救いの内容ですから、あのキリストの十字架において、わたしの罪が赦され、あがなわれたという恵みに感謝し、喜び、キリストにある新しい命を大切にして生きる、それが福音に向かって生きるということであります。

パウロは、この生き方を、19節において、「わたしは神に対して生きる」ことであるという表現をしています。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」、とさえ言っています。

このようにパウロの福音理解の根本に、自分は神の前に罪びとであるという深い罪に対する認識があります。その認識は、決して自分ひとりだけが罪深い存在だというものではなく、神の前に誰一人自分を正しいと主張し得ない、ということにおい徹底していました。パウロはこの認識において、誰であれ人は皆、キリストの十字架のあがないを必要としている。十字架以外に人が神の前に正しいとされる道はない、これがパウロの福音理解であり、イエス・キリストに対する信仰の根本的な理解です。

その意味で、ガラテヤ書2章15-16節は、このパウロの福音理解を凝縮した、信仰義認について述べているところでありますが、パウロは、この議論を単なる教理的な、神学的な概念の説明として行っているのではありません。その意味で、ここでパウロが用いている「わたしたち」という言葉に特別な注意を払う必要があります。パウロはここで「わたしたち」といっているのは、すべてのキリスト者をさして、事柄を一般化して語るためではありません。

この「わたしたち」という主語は、11節から14節で、パウロがまさしく非難したペトロを含め、自分と同じユダヤ人を指しているのであります。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人である」とパウロは誇らしげに語ります。パウロはこの言葉で述べようとしていることは、自分たちは真の神を生まれたときから知らされ、神の前に正しいものとして歩むべく与えられた律法を持っているということに関して言うなら、「異邦人のような罪人ではありません」とパウロは誇りを持って断言できたのであります。

パウロの福音理解の根本には、すべての人は罪びとであり、キリストの十字架のあがないを必要としているということを先に指摘しましたが、ここでのパウロの言葉はそれと矛盾しているではないかと感じるかもしれません。しかし、パウロの主張には少しも矛盾したところがありません。なぜなら、パウロは、「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」異邦人のように律法を知らず、神を知らずに生きてきた、そのような罪びとではない、という生まれながらに与えられている恵みに基づいて述べているだけで、決してそれ以上のことを述べているわけではないからです。

パウロは、「異邦人のような罪人ではない」という言葉を、神の選びの恵みの観点から述べているのであります。だから、異邦人がとりわけ罪深く、それに比べれば、ユダヤ人はそれほど罪深くもない、ということでもありません。むしろ、「この言葉は、「異邦人のように」罪が何であるか十分に知らされずに歩んできた、そういう罪人ではない、そういう意味で、わたしたちユダヤ人は、本当に大きな神の恵みを知らされてきた、という事実を述べようとしているのであります。

そのパウロが16節において、「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」、と述べているのであります。パウロがここで述べようとしていることを理解するために、ここでも「わたしたちも」と述べていることに注目する必要があります。15節で、パウロは、律法をもっている、与えられている、ということに注目して、自分たちユダヤ人は、「異邦人のような罪人ではない」という喜び、神の恵みへの感謝喜びを語っています。しかし、ここではその故に自分たちには、罪がないなどとは主張し得ないという、もう一方の事実を強調しているのであります。

生まれながら神の前を歩む義の道、律法を知らされていながら、それでもその義を行い得ない罪深い人間の姿をパウロはここで直視しているのであります。パウロがこのような罪の認識に導かれたのは、自分が努力しても神の義を行い得ないという良心の苦しみからでしょうか。パウロはそのようなことをこの手紙において書いていません。人間に内在する罪の問題に関しては、ローマ書の7章で詳しく論じられていますが、その場合の「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:24)というパウロの告白は、自身の回心前の罪深さについて語っているのか、あるいは回心後のパウロの罪の苦闘について語っているのか、あるいは十字架を通して知らされた新しい罪についての認識を示しているのか、様々な議論があります。

しかし、パウロは3章24節において、「律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係」であると述べています。パウロは、十字架のキリストを知るまで、その意味を知るまで、律法によって自分は義とされると信じ、その点に関しては、ファリサイ人として、落ち度のない人間として自負を持って生きていた、ということを、フィリピ書3章7節において述べています。

だから、パウロが2章16節で「わたしたちもキリスト・イエスを信じました」と述べた言葉は、非常に重要な重い意味を持ちます。パウロが自分を罪人だと認識したのは、キリストの十字架の意味を知ってからであります。十字架が「わたしのための」ものであると知ったとき、パウロはあのキリストの十字架において、わたしという人間が死んだという事実を信仰において認識したのであります。つまり、神の前に自分は義なるものとして生きていた、という考えがまったく間違っていた、そういう律法の捉え方自体が間違っている、聖書の読み方、理解の仕方が間違っている、そういう事実を、十字架のキリストから知らされたのであります。これは、神に対して生きる生き方ではなく、自分のために神の律法を守っているに過ぎない、という傲慢さ、利己的な生き方にはじめて気づかされたのであります。神に対して生きるということは、己に対して死ぬことであります。キリストの十字架は、わたしたちの罪のあがないのために自分の命を差し出す、という死であります。それはまさに神に生きるために己に生きることを断念する、その意味で己に死ぬことによって神に生きる道であります。パウロはそのキリストの信仰の真実を見たのであります。16節の、「イエス・キリストへの信仰」という言葉は、ギリシャ語では、「イエス・キリストの信仰」となっています。イエス・キリストの信仰がわたしたちを救うというのは、日本語としては変な感じがしますので、「イエス・キリストへの信仰」と訳されていますが、元になるピストスという語は、真実という意味もありますので、十字架において表された、イエス・キリストの真実な救い、変わることのない救い、という事実に基づいて、わたしたちユダヤ人も救われた、それは「律法の実行によるものではない」救いだ、律法というものを他の誰よりもよく知らされているわたしたちでさえ、律法を守るということで果たしえなかった、神の義を、イエス・キリストがあの十字架において完全に満たし、その義のおかげで、わたしたちは義とされている。それをただイエス・キリストを信じるということを通してのみ、恵みとして与えられることを、パウロは神の啓示を受けて知るものとされた、そのことを1章12節で述べてきたのであります。

パウロは、ファリサイ人として、律法を守ることの難しさを知っています。ファリサイ派が偽善者としてしばしば非難されるのは、自分たちが守れるように律法を解釈して、守っているに過ぎないからです。パウロは「わたしたちも」ということで述べようとしているのは、律法を守って、人が神の前で義とされることはできない、という事実を、深く知らされたからであります。律法についてよく知らされている「わたしたちでさえ」そうなのだから、律法を知らない異邦人はなおのことそうだし、すべての人は、律法の実行によってはだれひとり義とされない、それはただイエス・キリストへの信仰によってのみ、義とされるのだということを、ユダヤ人は他の誰よりも先に知らされ、「わたしたちもキリスト・イエスを信じました」とパウロは、述べているのであります。その福音の理解、イエス・キリストへの信仰の理解に、ペトロも同じであるということを、パウロはこの「わたしたちも」という言葉において込めているのであります。このパウロの福音理解に立つとき、人は誰も自分を誇ることができない、自分を正しいとすることができない、ということが初めて理解できるのです。ただ、キリスト・イエスにある信仰によって義とされ、人は救われるのであります。この差別なき救いの前に、ただ神様ありがとうございます、といって感謝することだけがわたしたちにできることである、ということを本当に深く覚えさせられます。

新約聖書講解