コリントの信徒への手紙講解

39.コリントの信徒への手紙一16章13節-24節『結びのことばと挨拶』

16章13節以下は、この手紙の結びの言葉とあいさつです。13,14節は、前後の文脈から見れば少し唐突な感じがする勧めの言葉が記されていますが、この短い言葉は、キリストに結ばれた者として生きる上で、最も大切な教えを要約しています。

パウロは13,14節で、四つの大切な勧めを語っています。第一は、目を覚ましていなさい。第二は、信仰に基づいてしっかり立ちなさい。第三は、雄々しく強くいきなさい。第四は、何事も愛をもって行いなさい、です。

先ず、第一の「目を覚ましていなさい」という勧めは、終末の到来、キリストの再臨を意識したキリスト者の信仰生活において第一に覚えるべきこととして語られています。キリストに結ばれた者は、終末に向かう時を生きています。この時を、わたしたちは、この世界が主の審きのもとにあることを意識しながら、主に背くこの世界は滅びますが、キリストに結びついてキリストの救いを信じるわたしたちは、復活の命が約束されています。その望みの中で生きる者にとって大切なことは、いつもその信仰に目覚めていることです。目を覚まして、その希望に生きていないと、その望みに生きる信仰から引き離そうとする、悪の力や、誘惑に負けて、キリストへの信仰からそれてしまうことになりかねません。だから、目を覚ましていることは、第一に覚えなければならない大切な教えです。怠惰になりやすいわたしたちに向かって、主は、いつも目を覚ましていなさい、という励ましを与えてくださいます。パウロは、そのように主の深い愛の励ましの勧告を私たちに与えてくれているのであります。

第二は、信仰の基づいてしっかり立ちなさいという勧めであります。キリストへの信仰がはっきりしないと、わたしたちはしっかり立つことができません。世のあり様は、絶えず変化し、その変化する動きについていこうとして、その動きに振り回されて生きている人は、心が定まっていませんから、しっかり立つことができません。世がどれほど変化しようとも、「イエス・キリストは、きのうも、今日も、また永遠に変わることのない方です」(へブル13:8)。キリストが約束してくださる救いは、失われることのない確かなものです。その確かさを保証してくれるのは、キリストがわたしたちの人間性全体を救うために、わたしたちと同じ肉体を取って、わたしたちの罪を十字架において贖って下さり、復活を通して、それが、命をもたらす救いであること明らかにしてくれているからであります。

これこそが滅びることのない救いであるとの信仰に基づいてしっかり立つことが大切です。この信仰に基づいて立つ者は、どんな試練の中でも揺らぐことがありません。キリストの不変の救い、その救いを通して示される神の不変の愛を信じる者は、揺らぐことはないのです。

信仰によって立たないなら、しっかり立つことができません。信仰によってしっかり立たない人の歩みは、いつも揺らぐのです。信仰に立たない教会も揺らぐのです。だから目覚めることと、信仰に立つことは、どちらも切り離せない大切な主の教えです。

第三は、雄々しく強く生きなさい、という勧めです。「雄々しく」は、アンドリゼーステの訳語で「男らしく」とも訳されます。「強く生きる」という言葉と合わさって、雄々しく強く生きる信仰が強調されています。神の愛、赦し、による救いが強調されると、信仰者の歩みとしては、弱々しくても構わないというような考えが、日本人の信仰としてはよくあるように思います。確かに、神の恩恵による救いを考えると、わたしたちの強さは問題になりません。しかし、パウロは、世にあって、雄々しく強く生きなさいと進めています。雄々しく強くないと、実際の信仰の戦いはできません。主イエスは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)といわれます。主イエスの勝利に結び付けられた者として、わたしたちの信仰は世に勝つのです。この勝利を確信して、雄々しく強く生きることが求められているのです。わたしは弱い弱いと言っていてはだめなのです。そんなことを言って信仰に立とうとしないから、弱くなり、悪魔の誘惑に負けるような生き方をしてしまうことになるのです。キリストの愛は、最後の力としての死をも恐れないで、雄々しく強く神に生きる信仰に基づくものです。わたしたちも同じ信仰をもって、雄々しく強く生きなさいと言われているのです。

第四は、何事も愛をもって行いなさい、という勧めです。この愛は、どこまでもキリストと結び付けられた愛です。人を愛するのも、キリストのまなざしからです。それは、その人にとって救いとなるかどうかがわたしたちの第一にしなければならない基準です。それは、キリストを伝える心をもつことです。キリストに背を向けて生きる人には、厳しくそのままでは滅びることになることを告げることも、大切な愛を示すことになるでしょう。愛は、このように優しさと厳しさの二面があります。聞く耳のあるものが聞くがよい、と言って主イエスは宣教の業に従事されました。聞く耳をもたない者への宣教は、困難を極めます。しかし、そこにキリストと結びついた真の愛がないと、その宣教の業は続けることができません。他者のために生きることは、己を捨て神に生き抜かれたキリストに学ぶ以外にできないことです。しかし、そのキリストがわたしたちに豊かな救い、命をもたらしてくださったように、わたしたちも他者のためにそのように生きることができます。何事も愛をもって行いなさい、というのは、その関係の中で、教会での交わりを考えていくということではないでしょうか。キリストとのその関係の中で、世に心を向けて生きるということではないでしょうか。それは高ぶる愛ではなく、こんな私のようなものさえ救ってくださったキリストへの感謝から生まれる、へりくだった謙遜による愛に他なりません。

教会は、この四つの大切な教えを、絶えず実践して行くならば、その宣教は確かさを神が約束してくださいます。その信仰にしっかりと立つことが大切であります。

19-24節は、挨拶です。モルガンは、たちまちわれわれは公同(カトリック)教会の、普遍的教会の、全教会の、雰囲気の中に置かれる。・・・一つの教会との関連における全教会があらわれる。方々に散在している多くの教会の人々、一つの教会の全ての部分が、あらわれる。パウロが「アジア州の諸教会があなたがたによろしく」(19節)といったのは、この意味である、と述べこの手紙を結ぼうとしていることを明らかにしています。パウロはアジアの諸教会を知り、彼らの態度も知っていました。その中のある人々が愛の贈り物をもって態度を立証しました。コリントもこの愛の贈り物をエルサレムの教会のために送るよう要請されていました。ここに全教会の一致があり、これによって人々は互いに連結されてた。パウロは「すべての教会」という立場からコリント教会を是正しようとしています。

パウロはすべての関連ある事柄を述べたのち、二人の男女、アキラとプリスカに言及します。この二人と「その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたににくれぐれもよろしく」と挨拶しています。この二人はその宗教のゆえにローマを追われ、コリントに逃避したことを使徒18:2から知ることができます。また同章からパウロがエペソに赴いたときに、二人も随行していたことを知ることができます。そして、アポロがアキラとプリスカからキリストの福音を十分に教えられたことを知ることができます。パウロがエフェソに下ってきて、その信者の群れに何か欠けていることに気付いたという使徒19:1-7の意味もこれと同じです。ローマ16:3から、この二人がそこから追放されていたローマにもどっていたことを知ることができます。パウロはいま彼らの名を挙げ、二人はその家の教会と共にコリントの人々に主にあって心からの挨拶を送ったのであります。そこには同一の愛の原理が働いています。

この手紙の最後のところにきて、パウロは自分の手で筆を執って挨拶を記しています(21節、ガラテヤ6:11参照))。「22 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。23 主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。24 わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。」

「神から見捨てられるがいい(のろわれよ)。マラナ・タ」パウロはここで二語を書いたのではなく、三語、書いたのである、とモルガンは言います。この三語はつながっているのではない。二義的にはつながっているが、それは重要ではない。

「アナテマ」がギリシャ語であるのは、手紙全体がギリシャ語であるからである。パウロは「主を愛さないものは、のろわれよ(アナテマ)」と記したのち、パウロは突然アラム語をほとばしらせて「マラナ・タ」と言う。この二語はそれだけでは離れて立っている。先行する文とつながってはいる。この二語は使徒の心の大きな叫び、勝利に踊る心の叫びである。それは、パウロが若いころから慣れ親しんだアラム語であった。

「アナテマ」は新約聖書で6回用いられている。最初に出てくる使徒23:14では、パウロの敵がパウロの命を奪うという条件で誓い合ったときに用いられた「固く」と訳されている語である。次にローマ9:3で、ここは能力と情熱とをはらんでいるところで、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となって(のろわれて(アナテマ))もよいとさえ思っています」。これは人間の書いた言葉で、その主との交わりを完全に表現した最高の言葉である、とモルガンは評しています。Ⅰコリント12:3では、「神の霊によって語る人は、だれも『イエスはのろわれよ(アナテマ)(神から見捨てられよ)』とは言わない」、という。人が主を愛さないならば、その被とは衰え、滅び、のろわれるより(アナテマ)以外に、望みはない。パウロはその心の確信と目的とを一つの恐るべき文句にまとめたのである。ここで愛する(フィレオ―)というのは人間的愛情の言葉である。もし人が主を愛さないならば、その人は愛情をもって主のもとには行かない。この人には何ものもない。失われた人、滅んだ人である。主の最高の究極的な栄光と美とに対する感覚が、この二語のアラム語を誘発したのである、とモルガンは言います。

「マラナ」は単に「主」の意味で、「タ」は、来る、という動詞である。学者たちはこの語について多くの解釈を示している。「来たりたもうた」、「来たりたもう」、「来たりたまいつつある」、であろうとかんじんなのは「主」である。主の主権ということである。これがわたしがこの三つとも使いたい理由である。それは最高者である主が、人間的生命の中に来臨したもうことである。これ、パウロの心からの大いなる叫びであって、主が来たりたまうこと、主がきたもうであろうこと、主が来たもうたということは、主の大いなる実在が決して「つくりごと」ではないというパウロの確信の表れなのである、モルガンは言います。

それから最後の言葉、「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」(23節)。主、イエス・キリスト、このお方が、あなたがた一同と共にあるように。キリスト・イエスにあるあなたがたすべてにもあるように。これが一切である。そしてもう一つ個人的な一筆、「わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」(24節)で、パウロは結んでいます。モルガンは、これ以上輝かしい結びの言葉を持った手紙がこれまで果たしてあったであろうか、と記しこの第一コリント書の注解を結んでいます。

新約聖書講解