コリントの信徒への手紙講解

34.コリントの信徒への手紙一15章29-34節『日々死んでいる者を生かす神』

パウロは34節において「神について何も知らない人がいる」と言っています。このパウロの言葉は、キリストを信じていない未信者の人を指して言ったのでしょうか。この議論はコリントの教会に宛ててなされた手紙ですから、その受取人に対してのものです。洗礼を受け、キリスト者となった人たちに向かって、パウロは、「神について何も知らない人がいる」と言っているのです。神を信じている、キリストを信じていると言っている人に向かって、パウロはそう言っているのです。本当にドキッとする言葉です。「神について何も知らない人がいる」とパウロが言ったのは、死者の復活を否定する人に対して言っている言葉です。

復活を否定する人はどんな生き方をするか、パウロは「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」というイザヤ書22章13節を引用して語っています。飲み食いにしか楽しみを見出せない人生、あるいは倫理観のない不道徳なことを平気で行なえる生き方、それらは「神について何も知らない人」の生き方である、とパウロは言っているのです。神を信じていると言いながら、神なき人と少しも変わらない生き方をしているキリスト者がコリントにいたのでしょう。

神とわたしたちの関係は、親子の関係のようなものです。私たちの思いと行いとが、神を映し出す鏡のような役割をするのです。どのような神を信じ、その神の前で自分をどのように捉えて生きているか、明らかにされて行くのです。その意味で私たちの責任は重いのです。人生をただ飲み食いのためだけに生きている。悪しきものとの付き合いをやめられず、不道徳を繰り返す生き方をしている。それは、「神について何も知らない人」の生き方です。キリスト者であるわたしたちが、それと少しも変わらない生き方をしていたなら、生き方が「神について何も知らない人」であることを証明していることになります。あなたは神を知らない無神論者だ、ちっとも神を信じていない不信仰者だ、と言うのと同じ意味のパウロの批判がここに示されています。それはクリスチャンにとってとても屈辱的なことです。だからパウロは、「わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです」とわざわざ断っています。こんな事を言われるのはとっても恥ずかしいことですよ、言いたくないことをあえて言っている、いわざるを得なかったと言う、パウロの痛みが伝わってくる言葉です。

しかし、こうまでして語るパウロの真剣な言葉に耳を傾けないなら、わたしたちは、本当に「神について何も知らない人」であり続けることになります。神を神として本当に知る道は一つしかありません。それは、独り子キリストを私たちの罪のために十字架に死なせ、三日目に復活させた神を信じ、キリストを信じるものを死者の中から復活させることのできる神を信じることです。そして、イエス・キリストにおいて私たちの神となられたことを信じることです。神は、イエス・キリストの死と復活において神であるということを示されたことを信じることです。

わたしたちは、愛する者が死んだ時、その遺骨を大切に埋葬します。それは、その人の残された最後の部分であるからです。その最期のものを大切にすることによって、その愛する人とのすべての関わりを大切にしまっておこうとするのです。キリストの死と復活と、わたしの死と復活が一つとされる、そのことを信仰的に確認するのが、洗礼という儀式です。わたしたちは、自分の生と死の全体が、キリストと共にある、即ち、キリストと共に死に、キリストと共に復活させられる者であることを信じていることを洗礼という儀式で確かめるのです。

わたしの罪を担い死なれたキリストが復活されたということは、わたしの死は終わりではなく、希望の始まりであることを示し、キリストにある人生は、その喜びも苦しみも、既にキリストにある神の肯定の下に置かれているということです。

パウロはここで死者に対する洗礼を取り上げていますが、それ自体を否定も肯定もしていません。ただ死者の復活を否定しながら死者に洗礼を授ける当時の習慣の矛盾を指摘しているだけです。

死者洗礼とは、キリストを信じて洗礼を受ける者が、キリストを信じることなく死んだか、あるいは信じていてもそれを公に告白せずに死んだ、死者のために代わって受ける代理洗礼のことです。その行為はただ、キリストの死と復活とがその死者に対しても効力があり、その死者も復活させられると信じられてこそ意味を持つという意味で、言及されているに過ぎません。そのような信仰がないのに死者に洗礼を授けても無意味である、とパウロは言っているのであります。

わたしたちの信仰と行為との間には常に一致が求められます。パウロはその事を、身をもって示して語っているのが、30-32節です。31節の言葉は、日本語に訳しにくい言葉ですが、パウロが主キリスト・イエスにあって持っている誇りは、「わたしは日々死んでいる」ということだといっています。それを「誇り」として持っている。パウロはそう言っているのです。キリストにあって生きるということは、キリストにあって日々死んで行くことだ、パウロは言うのです。

わたしたちがキリストの名による洗礼を受けてキリスト者として生きるということは、キリストと共に死にキリストと共に生きることを意味するのだ、その事実をキリストの十字架と復活においてみる時、わたしたちは、日々死んでいる自分を見て誇りに思う生き方ができる、とパウロはいうのであります。

パウロが本当にエフェソで野獣と戦ったということは、聖書のどこにも出てきません。使徒言行録の19章21節以下のエフェソでの騒動の記事も、Ⅱコリント11章23節以下で自分の受けた艱難を述べているところでも、パウロは獣との戦いについて記して否ません。ローマ市民が獣との戦いの刑に処せられるのは、市民権を失った場合だけです。ですから、これは実際に起こったことではなく、エフェソペソでの戦いが身近に死の危険を感じるほどのものであったことを示す比喩として語られているのでしょう。

いずれにせよ、パウロの経験した死を覚悟する多くの戦いは、パウロ自身が死者の復活に与らないなら、わたしの毎日の生活はどんな実を結び、どんな意味があるのだろう、という信仰の本質にかかわる問いかけの意味があります。

死者を復活させるキリストの復活の力が最後は勝利する、その最後を信じるということは、現在の戦いを支配しているのはキリストの復活の力であり、キリストを復活させた神であるということを信じるということです。だから、わたしたちはキリストにあって日々死んでいる、ということを誇りに生きることができるのです。

決して人生をやけっぱちになって投げ出したりせずに、その日、その時を、力を尽くして生きることです。死者を復活させる神は、今死に逝く者を生かすのです。「わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、「内なる人」は日々新たにされていきます」とⅡコリント4:16でパウロは述べています。だから、主キリスト・イエスにあって、誇りを持って、わたしは日々死んでいます、という生を生きることができるのです。

イエス・キリストにあって死を克服できているから、わたしたちは、現実の生を精一杯生きることができるのです。わたしは、日々死んでいる存在であるわたしを生かすキリストを知っている、キリストにあってわたしを生かすことのできる神を知っているからこそ、試練や苦しみ、病いにおいても、絶望しないで希望を持って生きることができるのです。

だから、「神について何も知らない人がいる」というパウロの言葉を、自分の問題として受けとめることが大切です。神はキリストを信じて日々死んでいるわたしを生かしてくださるお方であると信じる人は、神についての正しい知識を持っています。その知識があるから、誇りを持って、キリストにあって、「わたしは日々死んでいます」と語ることができます。

わたしたちの人生、信仰生活において、「神がすべてにおいてすべて」となっているか、そのことが復活信仰において問われているのであります。神について知るということは、神がわたしの人生をすべて支配しておられるということを信じることです。それは、具体的には、キリストの復活の力がわたしの人生のどの瞬間も支配し、神はその愛と力でわたしを支えていてくださっているということを信じることです。それが、それだけが、神を知る唯一の道であることを覚えましょう。

新約聖書講解