コリントの信徒への手紙講解

22.コリントの信徒への手紙一10章1-13節『終末を生きる信仰』

「誰も滅びることなく、朽ちない冠を得る」これがパウロの使徒としての祈りです。この祈りをもって10章の警告がなされています。

パウロは、地上における信仰の歩みは、終わりの時に向かう在り方として語っています。それを、イスラエルの出エジプトにおける出来事に重ね合わせて述べています。コリントの信者の大多数は異邦人キリスト者でした。しかし、パウロは「わたしたちの先祖は皆」といって、コリントの異邦人キリスト者も、「わたしたちの先祖」であるイスラエルに属するものとして呼びかけられています。

イスラエルの民は、エジプトの奴隷の苦役から、主の約束にしたがって解放され、主の民の信仰のあり方を荒野の試練を通して問われ学びました。それゆえ、荒野での40年は、イスラエルの信仰の原点となりました。そこで経験した出来事を繰り返し思い起こし、主の言葉に聞いていく、これが神の民イスラエルの生き方の基本でありました。

1節の後半から4節にかけて、出エジプトの出来事における神の救いの御業が語られています。神はイスラエルをエジプトの奴隷の苦役から解放し、彼らをご自分の民として、その歩みを始めさせられました。

出エジプト記13章21節に、「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」と記されています。「雲の下」、それは、主の臨在の下、主に守られて、先立って導かれる主にしたがってという意味です。イスラエルは、神の選びによって主の民とされました。その出発は、主が先導し共にいてイスラエルを救い出すためになされました。彼らが恋慕ったからではなく、主が憐れみをかけ、彼らの祖先アブラハムに与えていた約束を思い起こして、エジプトで奴隷にされて苦しんでいたイスラエルを救い出されたのです。そして、その道中、イスラエルをいつも「雲の柱」の下に置き、道を迷わないように導かれたのであります。

イスラエルは、「皆」その救いに与かりました。イスラエルは、「海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲む」体験をしました。「海を通り抜ける」出来事を、パウロは洗礼を意味するものとして述べています。モーセは、神と人との仲立ちをする仲保者としての役割を担い、来るべき救い主キリストを指し示す者としての働きを担っています。

洗礼とは、古き自己がキリスト共に死ぬことです。イスラエルは一度「海の中」で死んだのです。しかし、死んだはずのイスラエルが「海を通り抜けて」も生きているとすれば、それは神の恵みによって生きている以外にあり得ません。パウロはそのことをここで述べているのであります。イスラエルを追ってきたエジプトのパロの軍勢は皆海の藻くずと化して死に、モーセに属するものだけが死を潜り抜けて生きています。それは神の恵みにより、復活の命に与かっていることの証拠としてパウロは示しているのであります。バプテスマが指し示すのは、そういう事実であります。復活の命は、信仰によってその事実を信じるものだけに授けられたのであります。パウロはこれを主キリストにあるバプテスマの型として説明しているのであります。

イスラエルは、また、荒野で天からのマナで養われました。「霊的な食べ物」とは、やはり出エジプトにおける荒野で与えられた天からのマナのことであります。出エジプト記16章にそのことが記されています。

イスラエルの民は、荒野で食べるものがない時に、エジプトでは「肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」とつぶやきました。その時、イスラエルに与えられた「天からのパン」がマナであります。このマナをパウロは「霊の食べ物」とし、キリストの体を表す聖餐のパンの予型として指し示しているのであります。

そして、「霊的な岩」としてのキリストについてパウロは語っています。出エジプト記17章、民数記20章にレフィディムの岩から出した水のことが語られています。パウロはこれをキリストの血を指し示す飲み物として語っているのであります。

「わたしたちの先祖」であるイスラエルが「皆」、同じ主の臨在の導きに預かり、同じ救いを知り、同じバプテスマを受け、同じ聖餐に与っているという恵みを知っているという事実を、パウロは強調して示しています。

モーセは、救い主キリストの型として、キリストを指し示す存在であります。イスラエルにあらわされたこれらの出来事は、キリストの救いの「しるし」としての意味を持っています。そのしるしは、神の恩恵によってイスラエルの救いはある、ことを指し示しているのであります。この恩恵に、共に信仰をもって与かり続ける限り、その恵みから誰一人もれることはない、これが主の民イスラエルの核心でありました。

イスラエルが辿った歴史は、コリントの信徒にとっても、わたしたちにとっても、「しるし」としての意味を持っています。

洗礼と聖餐に与っているだけで救いが自動的に与えられるのではありません。5節において、「しかし、彼らの大部分は神の御心にかなわず、荒野で滅ぼされてしまいました」とパウロは語ることによって、そのことを明らかにしているのであります。

5節の原文は条件文です。正確には、「しかし、神は、彼らの大多数をよしとはされなかった。なぜならば、彼らは荒野において壊滅させられたからである」と訳すべきです。ここは神の御心にかなわなかったから滅ぼされたと順序だてて述べているところではなく、彼らが「荒野で滅ぼされてしまった」から、その事実をもって、「彼らが神の御心にかなわなかった」ことが判るのだ、という文の調子になっています。

神の審きの原因は、民の罪にあります。それはわたしたちに対する神の警告として告げられています。出エジプトの救いが、来るべきキリストの救い、洗礼と聖餐の予型であったとすれば、荒野での滅びもまた「わたしたちを戒める予型」としての意味を持っています。パウロはそのことを述べているのであります。

その意味で、5節の「しかし」は重要な意味を持つ接続詞です。救いについては神の一方的な恩恵が強調されています。しかし、滅びについては、人の罪が強調されています。それが「しかし」という接続詞で分けられている。神の恵みを無きものにする人間の罪の責任が激しく問われている、そのことをわたしたちは、信仰の問題の問題として聞くことが重要であります。

神の恵みを台無しにする「悪のむさぼり」が四つ上げられています。第一は、偶像礼拝の罪です。第二は、みだらな行いの罪です。第三は、神を試みる罪です。そして第四は、不平を言う呟きの罪です。第一と第二の罪は深い結びつきがあります。パウロは、この点に関して、「民は座って飲み食いし、たって踊り狂った」と、出エジプト記32章6節を引用し、イスラエルが踏み外した罪の問題を明らかにしています。神から律法を授けられたモーセが山から下りてくるのが遅いと言って、イスラエルの民がアロンに信仰の対象の確かさを保証させるための金の子牛を作らせました。この民の行動は、偶像とは利己的な利益を求める信仰が生む、いわば肉の欲求から出たものであることを明らかにしています。偶像崇拝がみだらな行いの場へと転落していった例として、民数記25章が引用されています。シティムにおいてイスラエルは、モアブの娘にしたがってペオルのバアル礼拝と娘たちとの淫らな行為のゆえに2万3千人が倒れて死にました。

主を試みる者、不平を言う者の滅びをパウロは警告しています。イスラエルは神の恵みによる救い、解放の喜びに与ったにもかかわらず、肉の満足を満たせないといって、偶像の誘惑に負け、不平を言い、神を試みる罪を犯しました。

パウロはこれらのことを、「時の終りに直面しているわたしたちに対する警告」として語っているのであります。「時の終り」とは、キリストが世の終りのときに再臨される時を指しています。キリストに結びつく者は、「時の終り」に向かう希望を持って、その約束を最後まで疑わず、現在のときをも神の恵みにある時として捉え、信仰の戦いを立派に戦い抜く課題を担いつつ歩むことが求められているのであります。

パウロは、神を信頼し、キリストにつく者の決定的勝利について語っています。キリストの十字架と復活を信じて、洗礼を受けた者には、キリストと共に死に、キリストと共に新しい命の中に入れられています。そして、聖餐は、まさにキリストとの交わりそのものであります。洗礼も聖餐もそれ自体が救いを保証するものでありませんが、信仰をもって受ける者に救いの確信を与え、慰めを与えてくれる礼典であります。

すべてを主に委ね、主にのみ信頼する者として歩まず、地上の信仰の戦いを闘わないなら、イスラエルの多くの者たちが「荒野で滅ぼされてしまった」のと同じようにされるとパウロは警告しているのであります。

自分はもう「強い人」と自負する者に、特にパウロはこの警告を語ります。「だから立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」と述べています。この警告を、一人一人が自分を戒めるための言葉として受け止めることが大切であります。わたしたちは、自分は大丈夫といえるほど、強くはないのです。

だからといって絶望することはありません。試練は避けられませんが、わたしたちの信仰が本物であるか、わたしたちが本当に神にのみ信頼して生きる者であるか、神はしばしば悪魔の誘惑さえ用いてそれを試されることをなさいます。しかし、13節の御言葉は実に慰めに満ちています。自分はそんな試練にとても闘えない、とても勝てないと思っている「弱い人」に向かって、パウロは、神は人間が耐えられないような試練は与えられない、と語っているのであります。イスラエルを導き出された「神は真実な方です。」そして、イエス・キリストは神の真実そのものであります。キリストは十字架にかかって死なれたけれども、墓よりよみがえさせられました。神はそのようにして、キリストの救いの確かさと真実を証されました。試練を耐え忍び、その中で、キリストを信じ、キリストに己を委ねて生きる者に、神は約束通りの恵みを与えてくださいます。それと同時に、その試練に耐えられる逃れの道を用意してくださるのであります。その道がどのように示されるか誰にも判りません。しかし、神は必ずそれを備えてくださいます。そのことを信じることが大切です。

わたしたちの信仰の歩みに試練があることを知っていることは幸いなことです。神は、キリストを信じた者からその試練をすべて取り去ることをなさらないのです。そこに深い意味のあることを、わたしたちは、学ぶべきです。主イエスは、捕らえられる前に弟子たちのために祈られました。その祈りがヨハネによる福音書17章に記されています。その祈りの中で、「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」と15節に述べられています。このキリストの祈りに支えられて、わたしたちは試練に立ち向かう勇気を与えられているのであります。死に打ち勝たれた主イエスがその祈りを、今も祈っていてくださっているからであります。時は「終りに直面している」、この信仰の認識の中で、今をどう生きるかが一人一人に問われているのであります。その試練に、キリストの祈り守りを信じて、キリストのみを仰ぎ見、恵みに委ねる生き方が、わたしたち一人一人に求められているのであります。

新約聖書講解