コリントの信徒への手紙講解

41.コリントの信徒への手紙二1章12-22節『神の真実を誇りに』

人間は些細なことで人の誠実さを疑うことがあります。パウロはコリント訪問を約束しましたが、コリント教会の事情が変化したこともあって、訪問を延期しました。それが、パウロは信用のおけない人間であるということを言う人が現れ、それに対する弁明を書かなければならなくなりました。この箇所は、その問題を取り上げています。

コリント訪問計画の変更の問題は、事柄としては些細な問題でありました。Ⅰコリント16章5-6節において、パウロは、マケドニア経由でコリントに至り「冬を越すことになるかもしれない」、という滞在を予告していました。しかし、コリント教会の情勢が悪化したため、の順序を急遽変更し、パウロはエフェソからエーゲ海を横断してコリントに急いで行ったのですが、そこで激しい中傷を浴びたので、マケドニアには行かず真っ直ぐ引き返してしまいました(15-16節)。23節で、2度訪問すると予告しながら2度目の訪問を果たしていない理由を述べていますが、その変更がパウロに対する不信感を強めることなりました。パウロに敵対していた人たちは、その事を理由に、パウロへの非難を強めていた、というのがこの文脈の背後にある事情です。しかし、ここには、コリント訪問変更の理由についての弁明がありません。この問題の本質が神の言葉の真実とパウロの使徒職の真実さにかかわる問題であると判断していたから、自分の行動・書いたもの・語る言葉の真実さ、を理解してもらうことに先ず努める必要があると考えたのです。

パウロは神の真実と恵みを誇りに生きていた使徒であります。パウロは誇りという言葉をこの手紙で、しばしば用いています。12節は、原文では、「誇り」という言葉で始まっていて、この言葉を強調して用いています。パウロは偽使徒や反対者たちから、偽使徒ではないかと言われ、いろんな非難や中傷を受けて、使徒としての「誇り」をひどく傷つけられていました。しかし、パウロは人間としての「誇り」「名誉」の回復を願って、その事を主張しません。パウロは人に認められる名誉の回復を願っているのではなく、神に認められること、使徒の真実に関わる誇りの問題を語ろうとしているのであります。

パウロは、「世の中で、とりわけあなたがたに対して」、といっています。教会はこの世から離れて立っているわけでありません。私たちの信仰も世と違うところに立ち、信仰者としての歩みをするのではありません。そして、「神の恵み」は、この世にも向けられています。使徒の伝道計画は時に変更がなされることがあります。それは、「人間的な考え」(17節)によるものではなく、この世全体に向けられている「神の恵み」の支配を覚えて祈る祈りの中からなされた変更であり、決定であります。そのことを伝道者はいつも覚えねばなりません。教会もそれを見守っていかねばならないのです。この世に立つ教会として、その判断をどこに重点を置いてなすべきか、吟味が求められます。パウロは人間的な事情や配慮からではなく、その基準がどこに求められるべきかを先ず問題にしています。

パウロは、「人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました」と語っています。「人間の知恵によって」は、直訳すると「肉の知恵によって」です。ここで「肉の知恵」と「神の恵み」とが対照されて語られています。わたしたちは、「肉の知恵」にしたがって行動すべきなのか、「神の恵み」に委ねて行動すべきなのか、が問われているのです。教会をどう建て上げていくべきか、教会の伝道をどうすべきか、それは常に「肉の知恵」と「神の恵み」の狭間で議論されますが、パウロは「神の恵みの下に行動してきた」と述べています。教会は、その議論をする時、果たして自分たちはどうか、常にその吟味が迫られます。

パウロが問われたのは、使徒としての真実さ、誠実さの問題でした。これに対してパウロは、「神から受けた純真と誠実によって」行動した、と主張しています。「神から受けた」は、原文では単に「神の」です。「純真」も「誠実」も、どちらもギリシャ語では、「真実」「純真」「誠実」などの意味を持つ言葉が用いられています。「純真」(エイリクリネイア)は、エイレー「日の光」という意味の名詞とクリノー「吟味する」という意味の動詞からなる合成語です。古代人は、その物が混じりけのない、錆やしみがない本物であるかを調べるのに、日の光の下で見て、吟味しました。そして、調べるものが金であれば、これは純真の金であると判定したのです。ですからこの言葉は、全く混じりけのない、純真、真実、誠実、完全を意味します。

この場合、エイリクリネイアを神の本質と見るのと、神の判定に立ちうる人間の真実と見るのとでは、意味が違ってきます。しかし、パウロはこの場合どちらの意味も含めて語っています。

パウロはここで自らの使徒としての行動の指針は、「人間の知恵」にあるのでなく、「神の純真と誠実」にあると主張します。「神の」と断っているとおり、パウロの行動の源は神にあります。神が真実で純真で誠実であるという事実を出発点としています。神が真実であるという揺るがない根源的な事実が「この世」に生きる人間の「真実」を呼び起こすのです。真実に生きるために、パウロは、「神の恵みの下に」身を委ねて生きてきたのです。

わたしたちが、神と教会の前で、そして、「世の中で」も真実でありうるとしたら、それは、神の恵みの関わりの中で起こるというほかありません。パウロの真実は、神の真実と一致する時にのみ主張しうるものであるのです。だから人間の真実は、神の真実と共にのみあるといい得ます。神の真実を照らす日の光がすべてのものを隠れることのできないように強く照らします。パウロは、すべてを明らかにし・知る・神の真実の日の光の下に立つ人間として、神の恵みに委ね・神の真実を信頼する人間として、自分の行動は真実であると主張しているのです。自分が何の落ち度もない完全な人間であると主張しているのでありません。罪と弱さに満ちた人間にもかかわらず、召したもう「神の恵みの選び」に対して、ひたすら信頼を表明し、その恵みに委ねて生きている自分を、良心の光に照らしても「誇り」に思うと主張しているのです。だから、パウロの誇りは、「肉の思い」「人間的な考え」によるものでなく、「神の恵み」に対する感謝と賛美として表明されているのです。

パウロが理解してほしいと祈り願うことは、この自分の行動の根底にあること、背後にあって突き動かしている原動力が何であるかこということです。それは、神の真実であり、神の恵みにほかなりません。

神の真実の光で自己吟味する時、見えてくるものは何でしょうか。それは、語る言葉の中にある本心です。そこから、その言葉が何から出てきているかが明らかになるのです。「肉の知恵」に生きる言葉か、「神の恵み」に委ねて生きている者の言葉かが見えてきます。人がどう思うか、そんなことに関心を持っていること自体が既に「肉の知恵」に支配されている可能性があります。人にどう思われるかではなく、果たして自分は「神の純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました」と、パウロが言うように、自己吟味が求められます。

人の言葉、人の書いた言葉の真実を吟味する時に求められるのも、この態度です。パウロはここで、神から与えられているところの使徒職の真実を主張しようとしているだけなのです。コリント訪問の計画の変更が、パウロの使徒としての真実を疑われることになりました。パウロは、ある時「しかり」といったのに、時が変わればそれを「否」という人間だと思われていたのです。そういう人間の言葉でないという、自らの言葉の真実を、神の真実からパウロは明らかにすることに努めます。

18節で「神は真実な方です」とパウロは言います。神の真実は、福音の内容であるイエス・キリストと、神の約束との関係で明らかにされます。神の救いの計画と約束は、旧約聖書において明らかにされてきました。パウロは聖書を用いてそれを語りました。神の救いの約束は、イエス・キリストにおいて成就した、すなわち「しかり」となった、とパウロは言っているのです。神が真実な方であることの証明は、神の約束の「言葉」が成就したかどうか、それが現実に起こったかどうかということによってのみ判断できます。

だから、パウロの使徒としての真実は、自ら語る福音の内容と一体のものです。神の約束がイエス・キリストにおいて成就し真実であることが明らかにされたのであれば、その言葉の真実に執着し誠実に語るパウロの言葉は、やはり真実であるということになります。だから、パウロは神とイエス・キリストを証人として立つことができるのであります。パウロを支配しているのは、「肉の思い」ではなく、「神の真実」です。神の真実から伝道を始めるのです。パウロはこのスタイルを、ある時はそれを「しかり」といい、ある時は「否」というようなことをしないのです。

神の真実、神の「しかり」が、キリストにおいて実現したことが、宣教の確かさを保証します。神の約束が、イエス・キリストにおいて実現し・現実となったということは、神はその言葉を、イエス・キリストにおいて「しかり」とされたということにほかなりません。神の人間に対する「しかり」を、イエス・キリストにおいて、パウロは捉えています。それは、人間に対する神の恵みの真実の事実化であり、歴史化でもあります。一切の人間の言葉の真実は、この事実にこそ根拠を持っています。パウロとコリント教会を結び付ける言葉は、神の約束がイエス・キリストにおいて「しかり」となり、アーメンとなったということです。このように神の言葉は、イエス・キリストにおいて受肉したのです。パウロはこの神の真実を「誇り」、この神の真実に執着しているのです。使徒として神の真実の恵みに委ねる自分こそ、真実の使徒としての歩みをしているとパウロは確信しているのでありす。

神の真実と、パウロの言葉を確かなものとするのは、聖霊です。聖霊こそ、「主イエスの来られる日」(14節)に救いを確かにする証印であり、保証となるものであります。

使徒パウロの真実を保証するのは、第一に神の真実と恵みです。第二に、神の約束に応答しそれを実現するイエス・キリストの真実です。第三に、これらすべてを理解させる聖霊の真実です。パウロはこの三位一体の神が如何に真実な方であるかを明らかにし、この神を証人に立て、23節において、ようやくコリント訪問延期の理由を告げようとします。神の真実を欠くなら、使徒の働きはあり得ません。パウロとコリントの信徒をキリストに結び付けているのは、神です。キリストにおいてその約束を果たされる神の真実に、コリントの信徒も共に立ち、「イエス・キリストの日に」、神の真実に生きていることを「誇り」に互いに思うものであることを、パウロは祈りながらこれを記しているのです。ここに牧師と教会員のよって立つ信仰の真実のあり方が示されているのではないでしょうか。

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