ガラテヤの信徒への手紙講解

3.ガラテヤの信徒への手紙1章6-10節『福音-キリストの恵みへの招き』

ガラテヤ信徒への手紙を、パウロがそもそも書かねばならなかった真の理由は、パウロがガラテヤ地方を伝道して去ったあと、ガラテヤの教会にあらわれた人たちが、パウロが宣べ伝えたのとは異なる福音を宣べ伝え、教会の多くの人がそれを受け入れたため、教会の信仰が、本当にキリストの福音に生きているといえない、まったく異なった方向に向かって歩んでしまっていたからです。それはもはや福音の名に値しない、別の全く異なるものが、宣べ伝えられていたからです。

福音を純粋な水にたとえますと、無色透明で透き通っていて濁りがありません。それは渇く喉を潤し、健康を豊かにするように、人の魂を生き返らせ豊かにします。しかし、その無色透明な純粋な水に、一滴異なる色のついた害ある液を落としますと、その水全体がその一滴の色に染まり、飲めない水にするばかりか、それを飲むものの健康を害するようになります。パウロは、ガラテヤ地方の教会で起こっている問題を、そのような深刻な事態に至らせている、と判断したので、大急ぎでこの手紙を書いたのであります。

つまり、真の福音にもう一度立ち返らせ、そこに踏みとどまらせようとする、この教会に対する愛から、パウロはこの手紙を書いたのであります。

そしてこの教会に対するパウロの愛の深さは、教会の歪んだ現実、間違った歩みに対する激しい怒り、憎悪を感じさせる激しいことばで表明されています。この本論部分に最初に現れる言葉は、日本語訳では最後に出てきますが、「わたしはあきれ果てています」という言葉です。

なぜパウロはガラテヤ教会の現実に「あきれ果てている」か、パウロをあきれ果てさせる「ほかの福音」の内容について、パウロが具体的に述べていませんので、この手紙に書かれている内容から理解する以外にありません。また、その「ほかの福音」を宣べ伝えたのがどのような人々だったのかも、手紙の内容から類推するほかありません。そうした事柄の詳細を断定的にいうことはできませんが、確実にいえることは、これらの人々はパウロの宣べ伝えている福音、その骨格となる教理を真正面から否定したという形跡は、パウロの議論からは見えてきません。パウロがこの手紙で触れているのは、割礼などの儀式を守ることが、救いにとって不可欠なものであるかどうかという問題です。パウロが宣べ伝えた福音は、キリストの福音です。それは、キリストの十字架がわたしたちの罪のためのものであり、わたしたちはキリストの十字架によって完全十分に罪が贖われ、赦しを受けるものとされているというものです。十字架の言葉を福音として信じる者は、もはや罪の定められることのないものとされているので、救いのためにこの福音を信じること以上何も求められていない、これこそがパウロが宣べ伝えた福音の内容であります。

福音はそれだけで十分・完全な救いをもたらす内容をもっており、したがって、これに何かを付け加えることを必要としないのです。だから、これに割礼が必要であるというのであれば、それは、キリストの十字架がそれだけでは十分でかつ完全な救いをもたらすものでなかったという、その福音の完全な恩恵を否定することにつながります。いいかえれば、キリストの福音はそれだけでは、もはや十分な福音ではあり得ない、ということになります。

割礼という儀式は、旧約聖書にある律法の中に定められた儀式です。ユダヤ人はその権威を総じて律法の仲介者となったモーセに基づくものとして受け入れています。それを神の前における人間の正しさ、義を立てる道として一部でも認めることは、その業を通して救われるという道を認めることになります。それは救いにいたる問題として、人間の業による協働が必要だという主張に必ずつながっていきます。救いにはこの要件が不可欠なものとしてなお残っていることを認めることになります。それは、神のまったく自由な恵みによる救いを主張する福音を否定することになります。

パウロがここで、「キリストの恵みへ招いてくださった方から、離れ」させることとして述べているのは、そのことです。キリストはわたしたちにとってどんな方か、パウロはここで、神の恵みへ招き入れるために来られた救い主であるといっているのであります。キリストの十字架以外に何かを加えないと十分でないという主張は、神の恵みから離れ去る事になる、パウロはそういっているのであります。

割礼の問題は、今日のわたしたちの問題として理解するとどういうことになるのでしょうか。今わたしたちは、割礼などの儀式は守っていいませんから、この議論はピンと来ないかもしれません。また、これを過去の問題として、自分には関係のない問題だと考えるかもしれません。

割礼という儀式には、イスラエルという信仰の共同体の一体性を示す意義がありました。第一に、割礼は、イスラエルという神の教会の一員であることを外的に保障するしるしとしての意味がありました。第二に、それによって神の律法を満たしているという安心、義に生きている人の証明として役立ちました。そして第三に、その儀式が肉体の一部を除去する儀式として、神への完全な服従を意味し、完成へ導く象徴的行為としての意味がありました。これを行うことによって神に喜ばれる、喜ばすことができると考えられたのです。

この理解の背後には、神の家族の一員となるために自分たちに何ができるか、あるいは罪に打ち勝つために自分たちは何をなすべきか、という人間の努力の方向からの救いの理解、その道が考えとしてあります。しかし、この理解の道筋は、福音が示す救いの方向とまったく逆向きです。神はキリストをわたしたちに与えて下さったのです。その意味で神は、キリストにおいて救いを成し遂げてくださったのです。だからわたしたちは、キリストの成し遂げてくださった十字架の救いを、恵みとして信じ、感謝して受け入れる、この恵みの神を喜び感謝し、讃美する以外に、信仰の表現を知らないのであります。勿論、救われた人としての喜びを表す道は、世に豊かに存在しています。でもそのような喜びを具体的に表しえないものであっても、あるいはそのようなことを表せないような状態に置かれていても、その救いは、絶対的なものとして、恵みとして、わたしたちにいつも与えられているのであります。

日本人のキリスト者の問題として注意すべきことは、より精神的に健康なものとなろうとして、まだ赦されていない罪を勝手に探し出そうとする熱心な宗教家たろうとする問題があります。それは敬虔な態度のようで、神がキリストにおいて成し遂げてくださった恵みの業を忘れた忘恩の罪であることをむしろ覚えるべきです。そのような敬虔の道はいつも喜びがなく、苦しい修行者としての道を歩まねばならないことになります。

教会の業に、キリストの恵み以外に何かを加えようとする試みも、同じように福音に生きる共同体からそらす危険が潜んでいます。それは、教会が福音宣教以外何もしては行けないということではありません。福音の自由は、何をもなしうるものに、教会も個人も変えるものであります。しかし、福音以外に何かがなければならないと教会として十分でない、と考えてはならないのです。

パウロはそれに何かを付け加える道を、「ほかの福音に乗り換える」道だといいます。そして福音には、「もう一つ別の福音」というものが存在しないのだといいます。福音というのはただ一つです。それ以外の道を説くこと、必要を訴えることは、まさに人を惑わす行為です。それは「キリストの福音を覆す」行為だとパウロはいうのであります。福音というのは、いくつもあるのではありません。ただ一つだけです。それはキリストの福音です。キリストの福音以外に福音はない、パウロはそういっているのです。

「キリストの福音」というとき、パウロは、この言葉を二つの意味で用いています。第一に、福音はキリストによってもたらされる、という意味です。そして第二に、福音の内容はキリストに関するものであるということです。福音は、その内容であるキリストが神から与えられた救い主、御子であるということからも明らかなように、それは神から出たものです。

そして福音は、神の恵みに生きるようわたしたちを招くものとして与えられています。だからこの福音の持つ本質が、福音を語るものに、その権威に服従するよう求めるのです。だから、パウロがここで「あきれ果てた」といって驚きを表明し、「ほかの福音」を語るものに「呪われるがよい」という激しいことばで非難しているのは、自分が宣べ伝えた福音が拒否されたことを、パウロは自分が退けられたからという意味での怒りを表しているのではありません。そうではなくて、それによって退けられたのは、神ご自身であり、キリストを通して恵みを与えようとされた神を拒むことになるからです。その様にして福音を拒むものは、パウロがそう語らなくても呪いのもとにおかれることになります。

だから福音を語るものとして、他人事としてパウロはこれを語ることができません。パウロはこれを自戒の意味をこめて語っています。

福音というのは、人を神の恵みに近づけ、神の恵みの中で生きる人に造り変える働きをする、そのような意味で、生ける言葉です。人を命へ導き、真の命の状態に保たせる言葉です。ということは、福音を曲げること、退けることとは、人を命から遠ざけ、それに与らせないことにつながりますので、その責任は実に重いのです。だからパウロは使徒として、自分は福音の内容である主キリストの僕でしかない、と述べています。人の気に入られるように、福音を曲げることも、受け入れやすいように福音を変えることも、説教者には赦されないのです。勿論福音をわかりやすく語る努力はいつも求められています。しかしそのことが福音に何かを加えたり、取り除くことになってはいけないのです。教会はこの福音に生きるとき、福音そのものの力で成長させられ、生き生きとした喜びで満たされるのです。

福音というのは、神に近づく、神の恵みを知り、その恵みのうちに生きるただ一つの道であります。神の愛、神の懐で憩う喜びの道、その自由を味わい知る道は、キリストを通してしか知ることができません。キリストの十字架において自己に死に、神の恵みに生きる自由を知る人しか味合うことのできない喜びであります。キリストの福音に触れるということは、そういう喜びに与ることです。だからこのただ一つの福音、キリストの福音に何かを加える必要もありませんし、加えれば、その恵みから離れることになってしまうのです。福音がただひとつだということは本当にわたしたちを安心させるものです。なぜならこの福音だけを信じていればよいからです。この福音を信じる者だけがこの神の恵みを喜び享受することができるからであります。

新約聖書講解