ガラテヤの信徒への手紙講解

2.ガラテヤの信徒への手紙1章4節『キリストとは、どんな救い主』

聖書において神を知るということは、知識の問題としてではなく、生き方を変える出来事として語られています。そして、新約聖書はナザレに生れたイエスが、神の御子で救い主キリストであることを明らかにしています。ですから、キリストが誰で、どんな方かを知ることは、わたしという人間の生き方を根本的に変えてしまう、そういう出会いの出来事であることを聖書は語っているのであります。パウロは、この手紙においてそのことを語っているのであります。

パウロはキリストの十字架と自分の生きる問題を、2章19-20節において次のように述べています。

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

パウロは復活の主と出会って、主の十字架の意味を知るまで、律法に生きる道は、自分の義、神の前に正しい者として自分を立たせることのできる道であると理解していました。そういう道を知っているものとして、自分は「異邦人のような罪人ではない」と2章15節で断言しています。しかし、キリストの十字架が何であるか知った時、即ち、キリストの十字架をわたしの罪のためのものとして理解した時、そう信じた時、それまでの自分の生き方が「神に対して生きる」ものでなかった、という自分の生き方の根本的な誤りに気づかされたという意味で、この言葉を述べているのであります。律法に従って、己を正しい者として生きる道もまた、神のために生きているのではなく、己のために生きる者でしかなかったということを認めざるをえない、根源的な人間の罪について語るパウロの言葉がここに記されているのであります。

だから、そう信じるパウロにとって、キリストの十字架は特別なものになりました。キリストの十字架は、わたしの罪のためのものとして示されている限り、神に生きるために、キリストの十字架と共に、古い自己は死んでしまったので、もはやそのような古い自己に生きることができない、神に生きていないわたしという人間もまた死んだ、十字架につけられた、というのがパウロの十字架の理解です。

そうだとすれば、死んだはずのわたしが現在生きているとすれば、それはわたしのうちに生きておられるキリスト以外にない、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰により与えられた新しい命を生きている、この神の恵みによってのみ生きることができると、パウロはいっているのであります。パウロの福音理解の根本には、このような考え方があります。

当然、パウロは自分が信じていますこのキリストへの信仰、福音を、ガラテヤの人たちに宣べ伝えたのであります。

1章4節には、キリストは誰か、キリストは何をされたか、その業は何のためになされたか、その業をなされる究極の根拠、動機が何であるかを、このわずか1節のことばの中に凝縮して述べられています。

原文を見ますと、最後に訳されている文章が最初に記されています。その順序で理解することが、パウロの一番述べたい順序を知る上で大切だと思いますので、それに従って、三つの大切なことを述べていきたく思います。

第一に、パウロは、キリストは「御自身をわたしたちの罪のために献げられた」と述べています。先ほど述べましたパウロの十字架の理解から、この言葉の持つ意味を理解することが大切です。

ここで「献げられた」と訳された言葉は、「与える」という言葉が用いられています。キリストの十字架は、父なる神の御心に従うという意味では、奉げる行為ですが、それが「わたしたちの罪のためのもの」である限り、わたしたちに向かっては、ご自分の命を「与える」ための行為として示されたものであります。この恵みをわたしたちが本当に知るためには、神の御子である罪なきキリストの十字架を必要とするほど自分が神に背いて生きていた罪深い人間であることに気づかないと、キリストの恵みの本当の意味、その深さ、広さ、高さをわたしたちは知ることができません。しかし、そのように素直に認められないもののためにこそ、キリストの十字架は必要であった、そのように罪を認めないで、いまなおその罪の支配の中にある「わたしたちのために」キリストはご自身を奉げてくださった、ということによって、パウロはわたしたちをキリストのもとへと導こうとしているのであります。

第二に、パウロはキリストの来られた目的が、「この悪の世からわたしたちを救い出すため」であると告げています。キリストと結び付けられている私たちは、主の祈りを生きることが求められています。その第二の祈願は、「御国を来たらせたまえ」で、第三の祈願は、「御心が天に行われるように地にもなさせたまえ」です。第六の祈願は、「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」です。

パウロは、キリストが来られたのが、「この悪の世からわたしたちを救い出すため」であると述べていることを、主の祈りと結びつけて理解することが大切です。わたしたちはキリストにあって悪の支配から救い出された存在です。しかし、終末の日にキリストが再臨されるまで、今なおこの世に悪の支配が残ることを新約聖書は語っています。だからこそ、その悪の支配より救い出されることを私たちは、毎日祈り、終末の日に備えて戦う必要があります。だから、主の祈りは、現実に世から脱出して、別世界に住まわしてくださいということではなく、神の恵みから切り離された自分のために生きようとする悪、その様にして誘惑してくる悪の支配からわたしたちを守り、神の恵みの支配に委ねて生きることができるように、という祈願となります。

パウロはキリストを知る以前の人間、キリストを信じる者となる以前の人間について、4章3節で「世を支配する諸霊に奴隷として仕え」る存在であったと述べています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」と述べています。1章4節で、「この悪の世からわたしたちを救い出す」キリストの業は、「世を支配する諸霊に奴隷として仕え」る存在であったわたしたちを、キリストの恵みの支配のもとへと引きあげて、神の子としてふさわしく生きるものにするたであることを明らかにしています。それは先ほどもいったとおり、この世から別世界に直ちに移すことによるのではなく、いまこの世で、神のいない世界、神に背く世界から、神の支配する神の国に新しく造り変える働きを、キリストは現在してくださっているという意味であります。わたしたちはいま既にそのようなキリストの救いに与っているのであります。御子キリストをそのような救いをもたらす方として、父である神は、女から生まれさせ、律法の下に生まれさせ、その支配下にあるものを贖い出してくださったという神の愛が語られているのであります。御子をそのように謙らせて、わたしたちを神の子とし、御国の相続者として相応しい身分まで与えようとされる神の愛のみ業を、パウロはここで語っているのであります。

キリストがこのことをわたしたちのためにしてくださったのは、わたしたちにそれに値する価値があったからでしょうか。そうではありません。わたしたちは神に背を向け、己のことばかりを考えて生きていた真に罪深い存在でありました。

ここでパウロは第三の問題として、キリストの救い主として業は、「わたしたちの神であり父である方の御心に従う」ということにおいて果たされたことを明らかにしています。「神の御心」というのは、わたしたちに向けられた神の意志、神の欲しておられる心のことであります。わたしたちがその神の御心を知る道は、キリストの言葉と業からであります。愛する御子を、女から、律法の下に生まれさせ、十字架にかけてわたしたちの罪を背負わせて死なせてまで救おうと欲せられたというのが神の御心であった、とパウロはここで示そうとしているのであります。

それが神の御心であるというなら、わたしたちの救いは、そのようにわたしたちを愛し、わたしたちを欲しておられる愛にしたがって、キリストはその愛を私たちに示してくださった、それがキリストの十字架であるということではないでしょうか。わたしたちは、この神の憐れみのみ心によって救われたといってもよい。この神の御心、その永遠のご計画がなければ、御子を与えられるという事もなかった、ということもできます。この神の熱意は、御子を遣わすことにおいて実現されたのであります。この恵みの事実を知ると、私たちに残されているのは、この恵みの神に感謝し、そのような業を、わたしたちのためにしてくださった神に栄光を帰しまつる以外にないということがわかります。だからパウロは、この挨拶の結びの言葉を、神讃美のことばで締めくくっているのであります。

わたしたちの信じる神は、御子キリストの父である神です。同時にその御子を与えて、わたしたちを救おうとされる、わたしたちの父となられた神です。そのことを今も欲し、そのようにわたしたちに目を注ぎ、手を差し伸べてくださっているお方です。救い主キリストは、父の懐で憩い、その支配の中でわたしたちを憩わせようとしておられる神の御心を実現して、実際、その恵み与らせてくださっているお方であります。だから、この恵みから目をそらさないで、この恵みに与っているものとして、この恵みに委ねて生きることが大切です。古い自分にこだわるのではなく、それを捨てて、神の恵みに委ねて新しく生きるのです。そのように生き方を変える時、わたしたちは本当に深い神の恵み、本当に大きい神の恵み、本当に高い神の子としての幸いを知ることができます。

今日、わたしたちは、この恵みに生きるようキリストの招きを受けているのです。

新約聖書講解