コリントの信徒への手紙講解

15.コリントの信徒への手紙6章1-11節『聖なる者とされ』

パウロは、この手紙の5章から、コリント教会において生じた道徳的・倫理的な問題を、キリストに結び付けられた聖なる者の集まりである教会を破壊する問題であることを、神学的に論じています。教会が内側から腐敗堕落していく時、世に証する教会として立てなくなります。宣教の力が失われている教会の現状を嘆きながら、パウロが述べている「しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」という6章11節の言葉は、心に深く刻みつけるべき大切な御言葉です。これは、洗礼を受けるときに特に覚えるべき言葉として、コリントの人たちは聞いていたに違いありません。

洗礼は、キリストの名の力により救われた者が、神の霊の洗い清めによって罪なき聖なる者にされたことを示す儀式です。その意味を信仰において受け止めていくとき、わたしたちを生かす力がなんであるかが明瞭となります。わたしたちの生き方がその日から変わります。「主イエス・キリストの名」とは、私たちの罪のために十字架に架けられて死なれたキリストが、墓より三日目に復活され、わたしたちの主となられたということが意味されている名です。この名によってわたしたちは、救われているのです。わたしたちは、この方の名を、信仰をもって告白することによって救われた存在です。主イエスは聖霊をも与えてくださり、聖霊の洗い清めによって罪の汚れを完全に取り除き、わたしたちを聖なる者としてくださったばかりでなく、その日から、義なる者として、取り扱ってくださっています。

わたしたちは、この喜ばしい知らせを聞き、この喜ばしい関係の中で生きる者とされているから、この喜ばしい関係を何よりも大切にして生きていかねばならない存在なのだ、というのがパウロの教えです。

この同じ信仰を持つキリストの教会に属する者は、互いに聖なる者として、互いの義と聖について配慮し責任を持つ関係にされています。「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことはできません。あなたがたの中にはそのような者もいました」(9,10節)といわれるように、わたしたちは、洗礼を受け、キリストの名による救いを受けるまで、「正しくない者」として生きていた存在です。この悪徳表のリストに上げられるような罪を犯していなくても、罪の世に生きていた存在であった事に違いはありません。

しかし、今は、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」(11節)という存在に変えられていると、パウロはいっています。「正しくない者」の多数いる世から召し出され、恵みにより、キリストの名と神の霊により、聖なる者とされたのです。これは、終末における救いの完成、聖化の完成を原理的に先取りして言われていることであって、実質の変化がすでになされているということではありません。わたしたちは、依然として「不義」に満ちた罪の世に生きていますし、その関わりの中で生きていかねばならないのです。そこに「聖なる者」「正しい者」とされている者の信仰の戦いがあります。わたしたちの信仰の戦いは、その現実を正しく認識し、教会の中から罪を取り除く戦いです。これが、5章9-13節において言われていることです。教会の「外部の人々」の罪を問題にし、その交わりを断とうとするなら、わたしたちは、この世から出て行かねばならなくなります。わたしたちの罪との戦いは、教会の外にある罪の問題ではなく、教会の中にある罪との戦いです。

しかし、それは、どこまでも「聖なる者」とされた者としての問題です。コリントの教会は、この点でこの問題の本質を誤解していました。「聖なる者」としての共同体は、自らに課せられた規準で、自らの力で事柄を判断し裁くことのできる存在であるべきです。しかし、コリントの信徒たちは、教会員同志の間で起こった争いを、この世の法廷に持ち込んで決着をつけようとしました。

「正しくない人々に訴え出る」ということは、キリストへの信仰を持たないこの世の人々の法廷に訴え出る、ということを意味しています。ここで、パウロはこの世の権威と法を否定しているのでありません。ローマ書13章では、この世の権威も神から由来するものであることをパウロは語っているからです。

「日常生活にかかわる争い」は、本来、キリストにある信仰の友同志の「金銭的な貸し借り」の問題であったと思われますが、それを教会の中で解決できず、この世の法廷に持ち出さねばならないほど、コリントの教会は知恵と判断力に欠ける状態にあったことを、パウロは知恵を誇るあなたがたには恥ずべきことであると言っているのです。

キリストがもたらす救いは、世に勝つ救いであり、わたしたちは、世に勝つ信仰を持っているはずです。それは、神の国の相続者として、世の終わりのときには、キリストと共にこの世の不義を裁く者として、審きの座に就くはずの者であるからです。ですから、キリスト者がその信仰の仲間をこの世の法廷に訴え出ることは、教会が世に敗北していることの証明になり、まことに恥ずべきことである、とパウロは言っているのであります。

教会の中で信徒同志の金銭的な貸し借りの問題が時々生じます。そのことが時には教会全体を巻き込む問題に発展することもあります。パウロは、コリントの教会に対して「あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」と問うていますが、この問いはわたしたちにも向けられています。金銭的なトラブルで兄弟が兄弟を訴える争いほど醜いことはありません。そうした事が起こらないように、事前の注意と慎重さが必要ですし、万一そういう事態になったとしても、「裁判沙汰」にするのは、教会の伝道の業を考えていく上で愚かな結果を生むことは、火を見るより明らかです。パウロは、7節において、「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです」と言っています。そんな状態では教会が世に負けていると言っているのです。借りた者がお金を返さないことは「不義」です。しかし、教会員同志の金銭上の貸し借りの問題を、この世の法廷に持ち出して争うことによって、教会の恥をさらし、教会の倫理面の低さを示すことは、教会が世に負けてしまっていることをさらけ出すことになります。そんなことになるくらいなら、「なぜ、むしろ不義を甘んじてうけないのです」とパウロは言うのであります。

パウロは、この問題を決して「みだらな行い」と同列において論じていません。お金を借りた者が返さなくてよいといっているのでもありません。同じキリストに救われたもの同志が争い、この世の終末の日に裁きを受ける側に立つ者の法廷に訴えることの恥じ、逆立ちした姿を問題にしているのです。

だから、「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか」(9節)という、パウロの言葉を注意して聞く必要があります。「正しくない者」、すなわち、悔い改めてキリストを信じ受け入れていない者が神の国を受け継ぐことはないといっているのです。そのものに教会の中で起こった信者同志の争いの判決を求めることは、終末の日に裁く側に立つべき者が、裁かれる側に立つ者から裁きを受ける事になっている矛盾をパウロは指摘しているのです。

そして、もう一度悪徳表(9節)を列挙し、このような者も「決して神の国を受け継ぐことができない」とパウロは語ります。教会の中にあっても、「正しくない者」のような古い罪人としての生き方をしているキリスト信徒も神の国を受け継ぐことができないというのです。ここに示されるような罪を一度でも犯した者は「決して神の国を受け継ぐことができない」とパウロは言っているのでありません。「あなたがたの中にはそのような者もいました」という事実をパウロは認めています。以前はそういう罪の生活を平気で行っていたかもしれないが、わたしたちは、「しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされている」(11節)という神によってもたらされている新しい自己のあり方に目を開き、その自覚のもとに生きることの大切さをパウロは語っているのです。それこそが教会が世に勝ち、世の尊敬と賞賛を受け、伝道において力ある働きをなしうることを語ろうとしているのであります。

教会が世のレベルよりも劣る倫理的な態度を取っていたのでは、己の救いを頂くこともできないし、世にキリストを証する教会として立っていくことができなくなります。パウロはこれらの言葉によって、教会の自己吟味を促しているのです。

新約聖書講解