コリントの信徒への手紙講解

48.コリントの信徒への手紙二5章1-10節『終末信仰を生きる』

パウロがここで述べているのは終末信仰を持って生きる生き方の問題です。7節で「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」と述べていますが、パウロにとって、信仰とは復活のキリストと共にあるということです。キリストの復活を信じるということは、それがわたしのためであり、わたしも同じ復活に与るということを信じることです。キリスト教信仰というのは復活の核心に立つ信仰だと、パウロは述べているのです。

もう24年前になりますが、神学校で渡辺信夫先生がカルヴァンの『キリスト教綱要』についての特別講義をされました。その時、渡辺先生は、キリストの復活を信じない、そこに自分の生き方をかける決断をしていない信仰というのは、キリスト信仰ではなく、「信仰のようなもの」であるといわれました。それでは、人生の危機に直面した時、何の力にもならず、人を立ちあがらせることが出来ない信仰であるといわれました。

わたしたちは、キリストの復活を本気で信じ、それが自分において起こる、必ず起こる出来事と信じている、それに人生をかけているなら、明日死ぬかも判らないという危機に直面して、多少の心の動揺はあっても、「落胆しない」はずです。パウロは「わたしたちはいつも心強い」といっていますが、これは自分自身の何かによってそうであるといっているのでありません。復活を信じているから、その約束に生きているからそうだと言っているのです。

パウロは、わたしたち人間の体は「地上の幕屋」であるといっています。過ぎ行く壊れるものであるといっています。地上の幕屋である体は、日々古くされ、壊れていく、これが現実の人間の姿です。しかし、この地上の幕屋が壊れても、神によって備えられる建物があることをキリスト者は知っているといっています。それは、復活の体のことです。今、キリストは復活されて天におられます。そして、キリストは世の終わりの時に、もう一度来られます。その日、その時、キリストを信じ、キリストに結びついて生きている人を、キリストはご自身の栄光の復活のからだに変えてくださるという約束を与えてくださっています。パウロがここで知っているというのは、そういう約束が実現するということです。その約束の実現を待ち望んで生きるのが、終末信仰です。ですから終末信仰と復活信仰は同じです。

終末における復活を信じる信仰というのは、現世を逃避的に生きません。地上の幕屋は朽ちていくものであるなら、そういうものは早く脱ぎ捨てる方がよいとは考えないのです。その上に「天から与えられる住みかを上に着たい」と願うのです。「天から与えられる住みか」というのは、朽ちない霊の復活の体です。パウロはこの朽ちるべき地上の幕屋の上にそれを着ることを願っています。つまりそれを着ることによって、復活の新しい存在へと変えられることを願っているわけです。

パウロは、キリストの再臨、終末の到来を、自分の生きている時に来るということを信じていました。そうならないかもしれない可能性も3節で認めてはいますが、そうなるという信仰によって生きていました。だから、地上の幕屋をいただきながらの重荷も負うて堪え忍ぶことが出来る。どんな苦しみにも落胆したり、失望しないで堪え忍ぶことが出来る、ということができました。

終末の来るのを知る信仰というのは、そういう信仰です。今の時に現れる苦難を、一時のもの、過ぎ去るものと、見なす信仰であります。

キリストの再臨によってもたらされる終末は、単なる世の終わりの時でありません。その時には、キリストと結びついている者の復活だけが起こるのではありません。それは、地上の体を与えられていた時の行いが裁かれるときでもあります。救いはキリストから恵みとして与えられ、それを信じている者にだけ与えられます。しかし、審きは、キリスト者にも、キリストを信じない人にも公平に行なわれます。それは、神によって「地上の住みか」の生活の公平な吟味と裁きがなされるのです。救われた者としての神への感謝と賛美に奉げられた生が肯定され、祝福される時でもあるのです。朽ち行くからだにおける労苦が一つ一つ顧みられる時でもあります。復活を信じるということは、神によって私たちの全生涯が顧みられ再創造され、完成させられるということを信じることです。復活は、キリストの再臨をもって始まるというのでなく、その日の到来を信じている者の生の中で、今すでに始まっています。それは、目には見えませんけれども、はじまっているということを、信じるのが終末信仰です。

その確かさを保証し、地上にあってキリストの再臨による終末の時まで与えてくれるのが、聖霊です。パウロは5節で、「その保証として」聖霊が与えられるといっているのはそのためです。「保証」とは、手付金のことです。わたしたちは、土地などを買う時に、手付を打ちます。それは、全額支払うまでの売買成立の権利を確保するためです。手付金はその土地が将来自分のものになる約束として、購入者には特別な意味を持っています。その様に、神はわたしたちのために来るべきキリストの復活に与らせる確かさを、聖霊による手付金によって保証してくださっているのです。神がご自身でその様な確かな保証を与えてくださっている、そのことを朽ちゆく体、地上の幕屋の中で与らせていただいているのです。

わたしたちが信仰の目で見ることが許されているのは、現在はそこまでです。しかし、そんな確かな保証、手付金としての聖霊が現在与えられていますので、「わたしたちはいつも心強い」といえるのです。6節でパウロが、「体を住みかとしているかぎり、主から離れている」といっていますのは、信仰が離れているといっているのでも、主との交わりが絶たれていると言っているのでもありません。信仰者は完成された神の国に生きているのではなく、なお待望の歩みとしてそれを仰ぎ見て生きていることを、この言葉は示しているのであります。

終わりの日における、キリストにある復活の確かさ、キリストと同じ状態に変えられるという信仰に立って現在生きているから、死を覚悟しなければならないような現実に立たされても、「落胆しない」し、「いつも心強く」生きられるとパウロは言うのです。

キリストの復活を信じるということは、私たちの人生がそこまで変わるということです。死と生の意味がその様に位置付けられるということです。こう確信するのがキリスト教信仰です。しかし、そのように復活を信じていない、終末の到来を信じていないというのであれば、それは、キリスト信仰でないということになります。たとえクリスチャンと呼ばれていても、この信仰に立たないと、それは、キリスト信仰ではなく、それに似た「キリスト信仰のような信仰」であるということになります。渡辺先生は、そういう信仰は単なる精神の浄化(カタルシス)を求める信仰でしかない、といわれます。そのような思いで、キリスト教信仰を求めても、自らの死や人生の危機に立ち向かう力は与えられません。のような信仰では、命を懸けることが出来ません。

信仰とは、復活のキリストを信じ、そこに自分の人生のすべてをかけることです。それに悔いはないとかけることです。この世のどんなことにも惑わされず、そこから逃げ出さず、この世の中で、キリストに命を預け、キリストにしたがっていく信仰です。その信仰をもっているから、わたしの苦難もキリストに担われていると信じることが出来、その苦難に耐えていくことが出来るのです。そういう信仰の決断が出来ていないと、パウロのように生きられません。

しかし、同じ決断をし、同じ信仰に生きているなら、パウロがここでもっているのと同じ確信が必ず与えられるはずです。ここには、パウロのような使徒にしか生きられない信仰の偉人の話が書かれているのでありません。キリスト者なら誰もが出来る、キリスト者らだれもが信じなければならない、そういう信仰の生き方が書かれているのであります。

新約聖書講解