ガラテヤの信徒への手紙講解

20.ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節『御霊に導かれる生活』

この御言葉は、キリスト者の信仰生活がキリストの交わりの中でどのようになされるべきか、実際的な勧めがなされています。そして、5章25,26節における勧めと結びつけて理解することが大切です。キリスト者の信仰生活がキリストとの交わりの中でどのようになされるべきか、という勧告としてこれらの御言葉を捉えることは、信仰生活がその本質においてキリストとの交わりであることを理解する上で重要です。教会はキリストの体として存在していますので、わたしたちは、その肢体として、キリストの体の一つの器官として、結び付けられている存在です。そのようなものとして、体の一部が痛めば、体全体が痛みを覚える、そういう教会的なつながりを持つ存在であることを、パウロはコリントへの信徒の手紙一12章12節以下で述べています。キリスト者の信仰生活というのは、何も教会の中だけの行いではありませんが、その信仰を支え、成長させる働きの場として、第一義的に、教会の存在、そこでの生活を抜きにして考えられません。そういう意味で、キリスト者の信仰生活というのは、キリストと結び付けられた、互いの存在を覚え合いながら歩む、有機体、共同体としての歩みであるということができます。

いま、わたしたちの生きている社会は、個人の尊厳、自由、プライバシーというのを最大限尊重すべきことを前提にして成り立っています。それは、公権力の名において、それが曖昧にされた時代に対する反省、欧米社会においてはそうしたものとの戦いの歴史が非常にはっきりとした形でありますので、個人の尊厳、自由、プライバシーを守るということは特に厳しく言われます。それは、国のあり方、社会のあり方としてはとても大切なことですが、それは、同時に個人の生き方には無関心になる危険性がいつも背中合わせに存在しています。

教会においても、個人の趣味や、生活の上のさまざまな問題について、このことは基本的には重んじられるべきことと思います。そうした事柄に関してまで、教会や他の信徒が干渉したりすることはできません。しかし、ここでパウロが述べていますことは、キリストの体としての霊的共同体としての交わりを破壊していくことになる罪に気づいた時における、教会としてのあり方の問題です。1節で述べられている、「不注意に」陥った「何かの罪」といわれていますので、ここでは具体的にガラテヤの教会で起こったことが直接問題になったのかどうかよくわかりませんが、その問題自体はきわめてリアルなものとして、またその対処もふさわしく適切に行なわれるべきことが述べられています。

パウロはそれを、「霊に導かれているあなた方は」と述べていますので、誰か特に霊的な能力に秀でた人のことではありません。すべてのキリスト者に向かってパウロは述べているのであります。言い換えれば、パウロは、すべてのキリストに結ばれた人は、「霊の人」とされているので、その人を支配しているのは霊の導きであり、たとえその人自身、自覚が乏しくても、霊に導かれて生きている存在である、と述べているのです。

パウロは、キリスト者は「霊に導かれている人」として、キリストの交わりに共に生きる他者のことを「柔和な心で正しい道に導く」責任を担わされている存在としてこれらの言葉を語っています。だから、ある人が罪に陥っていることに気づかされたなら、「柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と勧告しています。

しかし、そこに一つの誘惑があることをパウロは注意深く警告するのを忘れません。わたしたちは、自分自身の弱さや、罪については案外鈍感であるのに、人の弱さや罪、また、問題と思われる性格や態度のことを批判的に、時には非常に厳しい目で見がちです。

人の誤り、罪を正すということは、その忠告を受ける人自身から、その人が信頼される関係にあればそれほど難しくはありませんが、年下であったり、日ごろから互いの関係が良くなかったりしますと、その忠告が却って仇になったり、いっそう悪い関係になりかねません。

パウロは、3節において、「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」、と非常に厳しい言葉で、教会の中にもそういう人が現れる現実に私たちの注意を喚起しています。これは「柔和な心」とは正反対の、5章26節でのべられている「うのぼれ」の心を持つ人のことです。キリストがどんな方か、キリストと結びついている私たちがどんな存在か、そのことを頭の中だけでなく、現実の教会生活、現実の交わりの中で、心に刻み込まれていないと、「柔和な心」というのが、実際には私たちの中でなかなか育っていきません。

パウロは、5章13-14節において、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです」、と述べています。結局、「隣人を自分のように愛する」心がないと「柔和な心」は育ちません。5章13-14節とほぼ同じ意味のことを、パウロは6章2節において述べています。ここでは「互いに重荷を担う」と述べられていますが、重荷を互いに担うとはどういうことを言っているのでしょうか。これを知るには、わたしたちの交わりの要におられるキリストのことを知る必要があります。キリストは、わたしたちの罪を背負い、神の赦しの下にわたしたちを置き、ご自身の交わりの中に入れ、柔和な心で、いつも温かく見守り、御言葉の勧告と霊の導きを絶えず与えてくださっています。キリストは今も、共にいてそのようにわたしたちを担ってくださっているのです。

2節の「互いに重荷を担いなさい」という言葉と、5節の「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」ということばは、一見したところ矛盾しているように見えますが、この場合、ここで述べられているわたしたちの重荷というのは、教会的な交わりの中で与えられる重荷のことです。教会の中にいる他人の罪の問題にかかわりをもつ事が必要とされることが起こります。また教会の働きの中で、わたしたちには自分では無理と思えるようなことを時に担わされることがあります。それは時に試練に思われることがあります。しかし、パウロは、Ⅰコリント10:13において「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」、と述べ、そのように与えられる重荷を「自分の重荷」として担う心が求められていることを明らかにしています。それは、その時、試練であるとか、苦しみであると感じられるかもしれません。しかし、本当の教会の交わりの喜びは、そのような重荷を担えるようになった時です。

本当に自分の重荷を担う人間になるには、4節で述べられているように、自己吟味が求められます。「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人」にむかって、パウロはとりわけこのことを述べています。人が人の誤りを正す前に、自分に誇れるようなものがあるか、自己吟味が求められます。わたしたちは、そうして静かに自分の行い、信仰を自己吟味するとき、何も人に誇れない自分がいるのを発見します。神の前に罪深い心をいつまでも持っている自分に気づかされるのです。そこから、うぬぼれの心が打ち砕かれていきます。また挑みあう心も、ねたみあう心も打ち砕かれていきます。本当の謙遜、柔和さというのは、そういう自己吟味が、キリストの十字架を前にしてなされていく時に、与えられるものです。霊の導きというのは、そういう具体的な信仰の歩み、教会生活の中で育てられ、与えられるものです。パウロは少なくとも、ここではそういうものとして語っています。

このテキストで唯一分りにくいのは、6節の言葉です。これは、御言葉の教えを受ける信徒と御言葉を語る牧師との関係についての教えとして理解されることの多い箇所です。確かにそのことも大切な捉えかたであるには違いありませんが、ここで「持ち物」と訳されている語は、アガトイスですから「良いもの」です。これは10節に述べられている「すべての人に対して」「善を行ないましょう」という言葉と共に読むべき箇所ですので、信徒だけに求められている言葉として述べられているのではないでしょう。教会はキリストにあってなされる神の善意、愛の心を持って、互いのことを思い合う共同体として生きる存在です。神がわたしたち一人一人をそのようなものとして選ばれたのです。そこから互いを思い、その罪の問題を見つめる時、裁くものとしての言葉、思いではなく、神の赦しの中で、悔い改め、救いからもれないように、その兄弟をとどめる努力がまず私たちに求められます。

兄弟への忠告の前に、祈り、忠告しようとするその人自身がまず、神の前に打ち砕かれる必要があります。言葉や文章は諸刃の剣のように自分のところに返ってきます。結局愛のない、或いはそれが足りないために、兄弟を失うことが多いのです。それを誰が一番悲しんでいるか、を考えることが大切です。それは、大きな自己犠牲を払ってわたしたちを救ってくださったキリストご自身です。また間をとりなしてくださる聖霊ご自身です。聖霊の導き助けを求めることを第一としない忠告や勧告は、人の思い上がり以外の何物でもありません。それは割礼問題や食事の交わりのことで人を批判して回るユダヤ主義の人々と同じ間違いを犯すことになります。
パウロは、人は自分が蒔いた種を刈り取ることになると警告を与えています。これは終末における審判の前に立たされることを意識させる言葉です。最終的には、人の心にある問題、また行いのすべては、神の吟味・審きの下におかれます。しかし、それを人に怖れを抱かせる言葉としてでなく、自分自身の在り方を見つめる言葉として積極的に受け止めて、善に生きることを勧める言葉としてパウロが用いようとしていることに注意を払うようにしましょう。審きを畏れる心からは、本当の愛、喜びの信仰は育ちません。キリストに赦された者として、希望、感謝、喜び、この神の愛を深く受けとめる信仰、そこから与えられる真の謙遜、へりくだりを支えているのは、御霊の導きです。その御霊の導きを祈り求めて歩む信仰生活が求められているのです。

新約聖書講解