コリントの信徒への手紙講解

3.コリントの信徒への手紙第一1章10-17節『キリストの御名による一致』

この手紙がパウロの牧会書簡であるということを既に説明しましたが、パウロは、1章10節からコリントの教会に対する具体的な牧会上の問題に立ちいって論じています。最初に取り上げられるのは、「クロエの家の人たちから知らされた」分派問題です。クロエは、エフェソ在住の婦人で、商業もしくは貿易を手広く営んでいた一家の女主人であったと考えられ、パウロがこの手紙を書いたころ、彼女のもとで働いていた奴隷か使用人で、当時コリントへ行ってきたものがあり、その中の何人かがキリスト者で、コリント滞在中にコリント教会の分裂について知るようになった可能性が高い。いずれにせよ、パウロが聞いたのは、コリントの教会が四つの分派に分かれて分裂の危機にさらされているというものでした。といっても、この分派・分裂の問題は神学的な争いによって生じたものではなく、極めて人間的な思いによって生じたものです。しかし、パウロはそのような分裂の危機に直面している極めて人間的な集団へと変質していっているコリントの教会の信徒たちに向かって、「兄弟たち」という、愛に満ちた呼びかけをしています。パウロはこれから行う勧告を主にある「兄弟」として、兄弟に向けて行おうとしているのです。兄弟という言葉は、キリスト信徒にとって特別重要な意味を持つ言葉です。ローマ書8章29節によれば、イエス・キリストを信じ告白しイエス・キリストの御名によって洗礼を授けられた者は、御子を長子とする兄弟とされた存在です。キリストの教会における信徒の交わりは、イエス・キリストを長子とする兄弟姉妹の交わりです。

そして、わたしたちが兄弟姉妹となったのは、「主イエス・キリストの名によって」洗礼を授けられたという事実に基づきます。パウロはこの事実から出発し、教会の一致のために勧告を始めます。これ以外のところからパウロは決して語ろうとしませんし、これ以外のところから話しても一致を語ることができません。

教会は「人間的な何か」の魅力に眼が奪われると、不一致、勝手な主張、分裂の危機にたえずさらされていきます。教会の一致、教会が心を一つにするということは、それを唯一可能にする「イエス・キリストの名」を覚えることなくしてあり得ません。なぜ、「イエス・キリストの名」を覚えるということがそれほど大事なのでしょう。

コリント教会は人間的な表現をすれば、パウロの宣教の働きを通して生まれた教会であるということができます。4章15節において「キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。」と、パウロ自らが語っている言葉がそのことを証ししています。しかし、教会の本当の父は神であり、教会はイエス・キリストによって生み出された存在です。パウロは決して雄弁な伝道者・説教者ではありませんでした。朴訥な喋り方をするパウロに比べ、アポロはアレキサンドリア生まれの学識あるユダヤ人で、聖霊に満たされた雄弁家として知られていました(使徒言行録18章24節以下)。アポロはパウロがコリントの伝道をした後コリントにやってきて宣教活動をしたのでしょう。アポロ派と呼ばれる人たちは、パウロのような単純素朴な伝道よりも、「知恵の言葉」を巧みに操るアポロの言葉を好んだのでしょう。ケファとはペトロのことですが、ペトロが実際コリントで宣教の働きについていたかどうかわかりません。ペトロが使徒の中でも最初に名が記されており、最初の使徒であることから、そのことを楯にとって自分は「ペトロ派」だと名乗る者が現実に現れ、パウロの使徒権の権威を攻撃するようなことがあったのでしょう。

パウロ派は、これらアポロ派とペトロ派に対抗するために後から生じた一派であろうと多くの注解者が見なしています。パウロはその事に対して心を傷め深く悲しんでいます。

「キリスト派」については、よく判りません。この派は、恐らくキリストの特別な直接的な啓示を受けたと名乗る人たちであったのではないかと推察されています。彼らは霊の特別な賜物を主張し、他のすべての立場を否定し、神秘主義的な傾向が強かったのではないかと考えられています。

パウロは、アポロ派やペトロ派と対抗して自分を慕う人たちがパウロ派を作ったことに対しても、極めて厳しい態度で臨んでいます。

なぜなら、教会はキリストの体であり、キリストとキリストの体である教会は、分かつことのできない同一ものだからです。キリストは十字架と復活を通し、救いを完成させ、ご自身の教会を「十字架と復活のことば」を土台とし、その上に自ら建て給うのです。ですから、キリストを信じ受け入れる者を、その教会の一員とし、教会の一体性をキリスト自らが創り出し保つ働きをしておられます。

パウロも、アポロも、ぺトロも、十字架につけられたキリストを宣べ伝える働きに、キリストから召しを受けて、このキリストからの命を受けて教会を建て上げる業に従事しているに過ぎません。

「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」という主張は、キリスト以外の救いの可能性や、救いの根拠を認めることになり、それは、教会を人間の集団と化すことになります。キリストの体をばらばらに人間的な党派によって分かつことになります。仲保者・救い主キリストの一つ性は、救いの一つ性の保証であり、唯一の救われるべき名となります。

パウロは人々を自分に対して従うように導いたのでありません。同様に、他の使徒たちも自分に従うように導くよう立てられているのでありません。教会の唯一の主であり救い主であるお方の下に導き、この方の下にある救いに与からせようと使徒は働いているのです。ですから、こうした分派を主張することは、教会が一つであることを破壊し、教会一致の基礎であるキリストを否定するものであります。教会が一つであるのはキリストによるのであります。教会がキリストの中にあるからです。キリストにつながっているからです。

そして、キリスト派を主張することの誤りは、第一に、キリストをキリストによって遣わされた使徒たちと同じレベルに引き下ろしてしまっているということの内に認められます。第二に、キリストに属しながら、同時に神ご自身が定めた使徒職を軽んじる誤りに認められます。

パウロの使徒としての本来の務めは、福音宣教にありました。「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように」(17節)するためであったことをこの段落の最後に強調しています。このことは洗礼を軽視するものではありませんが、コリント人たちがキリスト信徒とされ、教会の一員に加えられるのは、「イエス・キリストの名」によって告げられる、福音宣教に彼らが与ったからであります。イエス・キリストの十字架と復活の言葉こそ、救いに至らせる神の力であるからです(18節)。この福音宣教に与り、イエス・キリストにある救いを信じる者に、「イエス・キリストの名」によって洗礼を授けられるということは、私たちはこの名に表されている救いに与かるということを意味しているのであります。

イエス・キリストは私たちの罪を背負い私たちのその罪を贖うために死なれたのです。キリストの十字架は、キリストを知るまでのわたしの古い存在全体の死を意味します。ですから、キリストの十字架と共に私たちの古き自己は完全に死んでしまったのです。それでは、今生きているのは、わたしではないのでしょうか。そうではないのです。やはりわたしという一人の人間です。キリストと共に罪の古き自己が死んだ。けれどもキリストに在る者は、キリストが三日目に墓より復活されたように、キリストと共に復活の命、神に生きる命に与かるものとされています。私たちは実にこの復活の命に与かるものとされているのです。私たちはキリストの命に与かるものとしてキリストの兄弟姉妹とされているのです。わたしたちは、キリストの名以外に救われるべき名を知らないのです。まさに、キリストの名による洗礼こそが、教会を真に一つに導くのです。

ですから、パウロが13節で、「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」と問うている問いは重要な意味を持っています。誰も、人間の名において洗礼を受けたものはいません。洗礼と救いの有効性は、授ける人の権威と力ではありません。それは、どこまでも救いをもたらすことの出来る唯一の救い主イエス・キリストの名におけるバプテスマだけです。この名以外に私たちを救いに至らせるいかなる名も私たちは持っていません。ですから、教会を建て上げ、一致へと導くのも、イエス・キリストの名以外に在りません。キリストの名を求めるところから、教会の一致が生まれるのです。御名の力への信仰が教会を何時までも一致へと保つのです。

注・パウロはここで神学的な議論をしているのではなく、福音の根本的理解の問題です。それは、分派主義の混乱の原因が、「イエス・キリストの名」による信仰の一致を見失っていることにありましたので、この御名による一致を強調するため、バプテスマにおいても、「イエス・キリストの名」によることを強調しているにすぎません。教理の理解としては、後の時代から言えば、「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けるということになるでしょうが、ここでは御名による教会の一致を強調するという文脈での議論であることを留意すべきでしょう。

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