ガラテヤの信徒への手紙講解

7.ガラテヤの信徒への手紙2章1-14節『神は人を分け隔てせず』

パウロは、この御言葉を、福音の真理と自由に関わる問題として、「割礼問題」を通して語っていいます。パウロは、ここで、コリントの教会の中で起った「割礼問題」が、「キリスト・イエスによって得ている自由」から人を引き離し、再び、人間の考えによる罪の奴隷にする、福音の真理に反し、それから遠ざけるものとして、その決着を曖昧にすることができない問題であるという認識を示しています。

パウロは、この問題について、エルサレムで、「おもだった人たちには個人的に話した」と2節で述べていますが、この場合の個人的にというのは、私的にと言うことではありません。またその際、「自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました」と、述べていますが、自分の宣べ伝えた福音が間違っているのではないかと不安に感じたからではありません。また、意見を求めて、そのような判断や批判が、仮に自分に向けられたなら、それに聞くつもりで、意見を求めたということも考えられません。パウロは、自分の宣べ伝えた福音が真理であるという確信を、「イエス・キリストの啓示」に由来するものとして既に持っているからです。また、エルサレムへの第1回訪問での15日間の滞在におけるケファとの交わりの中でも得ていたことでしょう。パウロは、エルサレムにいる、主の兄弟ヤコブ、ペトロ、ヨハネの三人が、「おもだった人」「柱と目される」存在であることを認めていますが、こと福音の真理に関しては、彼らの判断で決する事柄だとは考えていません。6節のパウロの言葉がそのことを裏付けています。

パウロは、このエルサレム訪問に、同労者で、エルサレムの教会に自分の執り成し手となったバルバナを一緒に連れて行きましたが、もう一人ギリシャ人のテトスも一緒に連れて行きました。彼は、パウロの宣教を助ける協力者でしたが、割礼を施していませんでした。パウロやテトスだけでなく伝道した異邦人には、だれに対しても施していなかったのです。ユダヤ人の男性は、生後8日目に割礼を施すことになっていたので、当時の問題としては、現実にはそのことは議論になりようがなかったのです。だから、ユダヤからやってきた、特にヤコブの下からきたと主張している人たちが、異邦人が救われるために洗礼だけでは不十分で、割礼が必要であると主張した、そういう問題が、この手紙に書かれていることの背景にあります。パウロは、このような主張をする人たちのことを、「偽の兄弟」と呼んでいます。

エルサレムでの会議においても、これらの人々は、この問題を持ち出し、割礼を強制しようとしたのでしょう。しかし、パウロは、テトスに割礼を強制されることはなかったし、柱と目される主だった人たちからも強制されなかった、と言いますが、「福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした」、と5節で述べる、パウロの固い決意に基づく、会議での努力も当然あったと考えられます。その結果として、テトスに対する割礼の強要もなかったでしょうし、柱と目される主だった人たちも、それを強制しなかったということにおいて、パウロと同じ判断に立ったことを述べているのであります。

しかし、6節のそのあとに記されている、「この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません」という言葉は、福音の真理性を保証するのは、人間の権威ではないことを明確にする言葉です。「人を分け隔てする」と訳されている言葉は、直訳すれば、「人の顔を取る」とか「人の顔を受け入れる」となります。つまり、神は、教会で重んじられる人の顔で判断されるのではない、真理はそのような顔で決まるものでない、とパウロきっぱりと述べているのであります。

ということは、パウロはここで違う決定が下されていたとしても、その決定に従うことはないといっているのであります。教会を一致へと導き、正しい方向に引っ張る力は、そのような人間的な権威の体系によるのではないのです。パウロが自分の走ったことが無駄になるのではないかと心配したのは、教会の判断が分かれ、教会が分裂することです。だからといって、人間的に妥協して、「一致」を求める方向での努力をパウロは選ばないのです。よく教会が内で争う時に、「一致」が叫ばれます。それは確かに大切なことです。しかし、その一致が、福音の真理に基づかない、それを犠牲にした、人間的な妥協として保たれたものであるなら、それはキリストによる一致ではなく、人間の努力による一致となります。パウロが、「偽の兄弟」扇動によって、真理が曲げられることのないように戦ったのは、彼らが求める「割礼」が、救いを、律法を守る人間の努力、功績とする考えの誤り、危険を含んでいたからです。救いは、ただキリストの十字架と復活を通して与えられる神の恵みによるものです。その救いを信仰によって与るものであるという議論を、パウロはこの後でしていますが、人間はその信仰さえ功績にする危険があります。この場合、パウロがいう信仰とは、神の恵みによる救いに対する信頼です。パウロは、これを福音の真理と呼んでいます。福音というのは、喜びのおとずれです。神の恵みによる救いを、喜びをもって知らせることです。人はこの喜びの知らせを聞き、神の恵みが、今までそれを知る機会さえ与えられないでいた異邦人にも、告げ知らされている。それを神はパウロという人を通して実現しておられる。その事実を、このときのエルサレムの会議は確認することができたのです。エルサレムの会議の決定が、教会の一致を導いたのではない、のです。エルサレムの会議は、ただ神の委任がどういうものであるかを、共に信仰をもって確認することができた、ということです。

この議論の本当の難しさは、エルサレムにおける特殊な問題を見なければなりません。そこにあるユダヤ人社会は、割礼を前提として成り立っていいます。それはユダヤ人であることと割礼を受けていることは一つであると考えられていたからです。だから、そのような考えの下では、割礼を受けないユダヤ人が、安全にそこで生きていくことも、ユダヤ人のキリスト教会が平和に争いなく福音を宣べ伝えるということも現実にはできなくなります。だから、神学的な原理の問題でいえば、割礼は救いには必要ないものです。しかし、割礼を受けた人への伝道は、それにふさわしい形で行わねばならない現実もありました。だから、教会は改めてそのことを、伝道の実際の働きから確認する必要がありました。

だから、大切なことは、7-8節の議論の中で、パウロが、エルサレムの主だった人たちが、ペトロには割礼を受けた人たちに対する福音が任されているように、パウロには割礼を受けていない人々に対する福音が任されている、ということを確認したことです。それを自分たちが決めたことでなく、「任されている」といっていることです。だれから「任されている」かというと、それは、神から、キリストからということであります。8節では、さらにはっきりと、ペトロに働きかけた方とパウロに働きかけた方が同じであることが述べられていいます。

委任する神の同一性を教会が信仰をもって受け入れたことが大切であります。教会が大切にしなければならないことは、神から来るものです。福音の真理は、神から与えられているから、人も教会も重んじなければならないのです。そして、神から来るものであるゆえに確かなものであります。そして、それが神からの福音の真理であるゆえ、教会の歩みを正すことができる、正しい道を歩ませ、無駄に走ることはないようにすることができるのです。教会の会議がしなければならない大切な判断は、それが神からのものか、人からのものかを区別することであります。

しかし、実際の伝道においては、現実の困難も認識し、柔軟に対応した教会の姿もここに見ることができます。福音の真理については、たとえ柱と目されるペトロであっても、それを揺るがすものになる危険があると判断した時、パウロ直ちにその間違った態度を正す行動を取っています。11節以下の記述の中にそのことが明らかにされています。

福音の真理は、キリスト・イエスによって与えられている自由に生きる道であります。それは、わたしたちを、福音の持つ自由と喜びの中で生きるものにし、救いに至らされる希望の道につながっているのであります。しかし、その福音の真理以外に、割礼が必要だとか、何かが必要だといって、主張する道は、結局、その真理からそれ、命を失い、喜びや、輝きを失うことにつながっていきます。福音の真理に生きるとは、結局、キリストにおいて示された神の愛を信じ、その恵みに委ね、それを喜んでいきぬく道であります。

そして、福音にある自由さ、人を分け隔てなく救う神に自由な恵みに留まり、互いを受け入れあって生きていくことこそ、キリストの教会の信仰の本質的な姿であることを、この御言葉から学ぶことが何よりも大切であります。

新約聖書講解