コリントの信徒への手紙講解

20.コリントの信徒への手紙一9章1-23節『福音に共にあずかるために』

「わたしは自由なものではないか。……」とパウロは、かなり激しい口調で語っています。思わず筆が滑ったという注解者もいます。1-18節のところは、使徒権について、使徒としての個人的な話に脱線しているような書き方になっています。議論の道筋としては、偶像に捧げられた肉を食べる自由の問題が前にありますので、パウロは使徒としての自由を自分はどのように用いてきたかを語ることによって、コリントのグノーシス主義者に反省を促しているところであると考えられます。彼らは、自分たちはもう霊的な知識を持っている覚知者だと自負していました。「霊の人」として、魂にたいする配慮だけを心がければよいのであって、魂は肉体に縛られているわけではないから肉体的なことは何をしても構わない、偶像に供えられた肉が自分の魂を汚すわけではないと言って自由にそれを食べていたわけです。それが弱い人を躓かせていた訳です。

しかし、パウロは、使徒として、生活の資を得るために仕事をせず、教会員の献金等によって支えられる生活をする権利を主から頂いているはずではないか、と主張します。しかし、その権利を自分は行使しなかった。また、そのことの故に一度も人に誇ったことはない。ただひたすら福音を告げ知らせることに努めてきた、それは自由を与えられている者の特権としてそうしてきたと主張している、それが1-18節までの要点です。

それは、決して使徒権を大上段に振りかざしてコリントのグノーシス主義者たちを沈黙させるためでありません。大事なのは、キリストから委ねられているそのつとめをどのように用いるか、キリストに教会がどのように仕え、キリストを中心にして一体となるかを考える事です。人を福音に与らせるための努力、そのことを喜びとするキリストに奉仕する教会のあり方を、パウロは語ろうとしているのであります。

キリストがわたしたちに与えてくださった自由とは、勝手気侭になんでもしてよい自由ではありません。それは、どこまでもキリストに繋がる自由を得た者の、キリストにある自由を享受するためのものであります。キリスト者がキリストにある者としてふさわしく生きる。それは、徹底して、私たちに命を与えることのできる方、キリストに結びつき、キリストに仕える者として生きるところから可能となる生き方であります。

キリスト者がもっているところの自由とは、自分の生きたいように生きる、したいようにする自由ではありません。それでは、ただ自己の願望を生きているだけでしかありません。自己の願望に生きる者は、その願望に縛られて生きていて、その世界の虜になっています。そこから少しも自由に生きていません。自己の願望に生きる者は、他者のために自由な心で生きる事ができません。自分は自由であるといいながら、自分のああなりたいこうなりたいという願望の奴隷としてしか生きられない、利己的な自由を生きているだけであります。

パウロが「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人に奴隷となりました」というのは、本当は自由に生きたいのだけれども、我慢しているのだと言っているのでないです。

「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになった」「弱い人に対しては、弱い人のようになった」というのは、福音を伝える使徒として「そうせずにはいられない」という強い召命観からでる「その人を得るため」の働きの為です。パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と言っています。ここでパウロが「なった」(エゲノメエン)という時、テレビで出てくる水戸黄門のように庶民に変身して化ける事と違います。また文字どおり「弱い人」になりきってしまうことでもありません。

わたくしの大変尊敬しているカトリックのが釜ヶ崎で暮らしておられます。そこで本田司祭は弱者と一緒に生活し、弱者の視点から福音を見直し、福音がよく理解でき良く見えるようになったと言います。それは本当だと思います。しかし、パウロがここで「弱い人に対しては、弱い人のようになった」というのは、そのような生き方とは違います。「弱い人」を理解する、弱い人を得るというのは、そのような形でしかできないというのなら、みんな釜ヶ崎に行かないと福音を理解できないと思います。勿論、行って見るのも大切なことであると思います。

しかし、行ってもみんな本田司祭のようにできるかというと、わたくしにはそのようにできないかもしれませんし、そうしようとも思いません。そういう生き方は、ある人にとって必要と思われるかもしれませんが、皆が皆する必要はないし、できるわけではないのです。そして、福音理解の問題として、経済的に貧しい者が「弱い人」で、富める者が「強い人」という単純な色分けを本田司祭は決して行っている訳でないけれども、勢い余って発言する中で、多分にそのようなそのような言葉が時々見られるのも事実であります。

弱者の視点でという本田司祭の問題提起をわたくしは大切にしたいし、いつも本田司祭の働きに尊敬をもって注目している一人であります。それでも、あえてここでパウロが「弱い人のようになった」といっているのは、それとは意味が違うということを言わねばならないでしょう。

ここで、パウロは、福音が見えてくるか、見えて来ないかの議論をしていません。そう「なった」のは、「福音のため」と言っています。「福音に共にあずかる者となるためです」と言っています。パウロは、自分が宣べ伝えている福音のためにそうなったと言っているのです。それは、水戸黄門のように庶民に化ける事を意味しません。さりとて、本田司祭のように釜が崎に行って弱者の中に入り込み、そこから福音を理解することを意味するのでもありません。「福音」とは、イエス・キリストであります。イエス・キリストを伝えるためには、それを伝える者が、イエスがもたれた視線、イエスが担われたものを理解し、そこからイエスが担われた「人」の問題を見なければならない、キリスト者の自由をそこから捉え直さなければならない、ということではないでしょうか。

主イエスは大酒のみで、大飯ぐらいであると人々から酷評されながら、取税人や罪人と言わる人たちの家に行っていっしょに交わりを持たれました。それは、彼らを救うためです。そして、イエスは神の御子であられたにもかかわらず、人間の肉体を取り、わたしたちの間に住まわれました。それは、文字どおりわたしたちと同じ肉体を持ち、人間の弱さを知る人と「なった」のです。福音とは、人となられた方が、わたしたちの罪をになって、十字架にかかって、わたしたちの罪のために死んでくださったことにより、わたしたちの罪の審きが既になされ、イエスを救い主キリストと信じる者がもはや罪に定められなくされているということであります。十字架に死なれた方イエス・キリストが三日目に墓より復活し、弟子たちにその栄光のからだを示した後、天に昇られたという知らせを内容とするのが福音であります。パウロが「弱い人のようになった」という時、はっきりと意識していたのは、このキリストの謙りの姿であります。キリストが「なった」ものを示すため、その姿に促がされたという福音理解が根底にあるのであります。

自由を享受して喜んでひとり悦にいっている信仰ではなく、キリストの福音に共に与りたいと祈り願う自由を享受できる喜びから沸き上がる、キリストから与えられる熱情に促がされたパウロの言葉であるのであります。

他者のために生きる事は、命じられてできるものでありません。わたしたち罪人のために生きられたキリストを仰ぎ見て、その方に生かされている喜びを知っているからできることではないでしょうか。何とかしてその喜びに共に与かってもらいたい、その熱意が人を救いへと導くために、その人の奴隷のように仕えさせる人間に変えられるのであります。「福音に共にあずかる者となるため」という、日頃からの祈りが何より大切なのであります。

新約聖書講解