コリントの信徒への手紙講解

19.コリントの信徒への手紙一8章1-13節『愛は造り上げる』

コリントの信徒たちからから寄せられた「偶像に供えられた肉」に関する質問がここで取り上げられています。この問題は、当時のコリント教会の置かれている環境から理解する必要があります。コリント教会は教会員の大多数が異教からの改宗者でありました。そして、コリントの町は、日常の社会生活の中で異教の祭儀や習慣が隅々にまで浸透していましたので、キリスト者は私生活の中で、それとどう戦うかという信仰の実際問題として、避けて通ることのできない問題の一つが「偶像に供えられた肉」を食べて良いかという問題でありました。

コリントの町の市場で売られている肉はみなコリントの神殿の神々の前で捧げられた犠牲の動物の肉でありました。それは、神殿祭司たちの取り分を取った後、市場に売りに出されたものでありました。これはコリントに限らず古代社会では、肉の供給は神殿を中心にして行われていたようです。神殿には「神殿レストラン」といわれるものがあり、祭りにおけるお付き合いをすることがユダヤ人でない異教の人々の間では日常的なこととして行われていました。

ですから肉を食べるということは、こうした異教の祭儀を経た犠牲の肉を食べることを意味していました。コリントの信徒たちはキリスト信徒になるまでは日常生活の中で何の抵抗も感じずに肉を食べていたわけです。それがキリスト者となってから、キリスト者となるまでと同じ態度で肉を食べ続けることができるかどうか、信仰の良心の問題として疑問に思い、悩む人が表われてきたのであります。

しかし、もう一方でそんなものに思い悩む必要は全然ないとドライに割り切る信徒もいました。それは、「我々は皆、知識を持っている」と主張する人々でした。パウロは教理的な問題としては、この立場に立つ人たちの理解は正しいことを認めますが、コリントから寄せられた問題は、その事柄に対する知識が正しいかどうかということが問題なのではないといいます。その知識から来るキリスト者の自由の振る舞いが、その理解に達していない人の信仰の良心に躓きを与え、教会の交わりに混乱と動揺を与えていました。パウロは、この弱い人に対する配慮をすべきことをここで述べているのであります。

パウロは「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」といっています。教理的な知識の問題としては自由に食べてもよいという判断は、それを信仰の良心の問題から苦しんでいる人々に対し、愛の思い、配慮の思いがないと、教会を建て上げていくことができない、とパウロはいうのであります。

教会を建て上げるのに、パウロは、教理の理解はどうでもいい、愛さえあればそれで良いといっているのでありません。正しい教理の理解というのはやはり教会を建て上げ、信仰を育てていく上で重要で欠かせないものです。しかし、その知識が如何に豊かであっても、神への愛、キリストの愛に根ざすものでなければ、教会を本当に建て上げていくことはできない、とパウロはいうのであります。

「愛は造り上げる」とパウロはいいます。「造り上げる」はオイコドメオーというギリシャ語が用いられています。これは、「建てる」とか「強化する」という意味を持つ言葉です。パウロはここで個人が建てられるとか、強化されるという意味で、そう述べているのでありません。愛は教会全体のために役立ち健徳的な結果をもたらすものであります。

自分には知識があり判断力があると誇っている者に対して、パウロは「その人は、知らねばならぬことをまだ知らない」と人の知識の不完全さ不十分さを指摘しています。教会を建て上げていく上で大切なことは、知識の多さでないとパウロはいうのであります。本当の知識は人を謙遜にします。「その人は、知らねばならぬことをまだ知らない」、このパウロの言葉の前に、わたしたちは、謙遜にさせられます。パウロほど多くの知識を持つものが語っている言葉であるだけに、謙遜に聞く必要があります。

「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」とパウロは申しますが、キリストの教会を建てる愛は、人間の愛を越えたところから理解されるべきものです。

3節でパウロは「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」と言っています。本当の知識というのは、神について知っている、何々について知っているという知識ではないというのです。神への愛が本当の知識をもたらすというのです。わたしたちは、「神を愛する人は、神を正しく知る」という言葉が続くと期待するかもしれません。しかし、パウロはそうは申しません。「神を愛する人がいれば、その人は神に知られている」と言うのです。「神を知っている」ではなく、「神に知られている」と言うのです。

わたしたちを正しい知識に導くのは、わたしたちが神を愛するよりも前に、神に知られているという事実が存在します。わたしたちが神を知るに至る前に、神はわたしたちをキリストの救いに与かるよう選び、わたしたちを愛し覚えていてくださっている、これが「神に知られている」ということの意味であります。私たちの正しい知識は、この愛の神に知られているという事実に支えられて、神を愛するという信仰を私たちの心に喚起させることによって生じるところのものであります。

パウロは「神に知られている」と申しますが、神は何によってわたしたちを知り覚えておられるのでしょうか。それは、キリストにおいてであります。偶像の犠牲に供せられた肉を食べてよいかどうかの問題を教理的な知識の問題として言えば、食べてもよいし食べなくてもよい自由の問題であると、4-6節において、神と宇宙と教会との関係において結論づけますが、信仰の良心の問題でためらいを覚えている「弱い」者に対して、「強い」者は、配慮すべきではないかというのです。その際、パウロは、「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」とその理由を述べています。神は、信仰の弱い者、小さいひとりをもキリストにあって覚えておられる。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」という救いを通して覚えておられるのであります。まさに神はキリストの愛を通してわたしたちを知っていてくださるのです。

そのようにして神に知られているわたしたちの存在というのは、何も自分を誇るべきものはありません。どれ程多くのことを知っていてもその知識を誇ることはできません。神と世界と教会の関係についての知識を持ち、その知識から自由に事柄を判断し行動する自由を与えられていたとしても、その判断に同じように達し、同じように行動できずに、信仰の良心の問題で躓きを覚えている人に対しては、その自由も制限されるべきではないか、とパウロは言うのであります。

「偶像に供えられた肉を食べることについて」4-6節で、教理的問題としては、神は唯一であるから、偶像の神は存在しないとパウロはきっぱりといいます。4節と5節は矛盾したような言い方に感じられますが、4節は聖書の信仰の立場からの発言であり、5節は異教の人の考えについて述べているところです。異教の多くの神々、多くの主に対して、パウロは唯一の神、唯一の主、イエス・キリストを指し示します。

「万物がこの神から(from)出、私たちはこの神へ(towards)帰っていくのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって(through)存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」という言葉は、地上に存在するいかなるものも神となり得ないことを明らかにします。たとえ異教の神々の祭儀に犠牲の肉として捧げられた肉であっても、その肉の性質が変化するわけでありません。その宗教を信じているものにとっては魔術的な意味がその「肉」に持たせられていたとしても、キリスト者にとってはただの肉として食べることはいっこうに差し支えない、というのが「偶像に供えられた肉について」の「我々は皆、知識を持っている」という言葉の持つ意味です。パウロはこの考えを教理的理解としては承認するし、その理解の下で「偶像に供えられた肉」を食べる自由を認めることができます。それを食べたため、何かが失われる、あるいは何かを得るということはない、というのであります。

しかし、それと同じ知識にすべてのキリスト者が達しているわけではありません。みんな異教の環境の中で生活していましたから、その古い習慣から「偶像に供えられた肉」を食べながら、果たしてこれでいいのか良心を悩ませていた「弱い人」(それを本当に弱いと言えるかどうかは問題ではあるが)は、そのような知識を持たず、そのような割り切り方ができなかったわけであります。そして、肉そのものを食べることを止めてしまった人がいたのであります。パウロは、その弱い人が「強い人」が平気で食べているというので、躓いてしまい、その正しい知識を持たないまま食べてもよいのだといって、信仰の良心を捨てて食べてしまうことになれば、弱い人に罪を犯させることになるから、そのような自由の権利の行使は差し控えた方がよいといっているのであります。

特に、「偶像の神殿での食事」は、たとえお付き合いのための食事であったとしても、その場所と状況をわきまえると教会の交わり面で与える影響は、非常に大きく危険な面があったからであります。

パウロは「愛は造り上げる」と言いました。パウロは教会への愛のゆえに、「食物のことで兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしない」と13節で断言しています。「肉」そのものを食べないとまで言っています。そのことを通して陥る偶像崇拝の罪を人に犯させないように、パウロは自分に与えられている自由を制限するというのであります。「愛は造り上げる」のであります。愛は教会の徳を建て上げるのであります。そのため自由に自分を制限し兄弟を立たせようとするのであります。そのようにして神を愛するのであります。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」からであります。教会のみんなの救いの達成、それがすべての判断の基準になるのであります。知識としてはよくても、愛ゆえにそれを用いない自由、それが本当の信仰の強さというものであります。

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