コリントの信徒への手紙講解

24.コリントの信徒への手紙一10章23節-11章1節『神の栄光のために』

8章から、「偶像に供えられた肉」に関する議論が続いていますが、その議論はキリスト者の自由に関するものです。この議論は、キリスト者に与えられている自由を、誰のために、何のために用いるか、これが教会を建て上げていくために、どのような意味を持つことになるのか、という点に集約することができます。8章においては、6章12節にあった「わたしには」という言葉が「すべてのことは許されている」という言葉の頭から省かれています。そして、「何事にも支配されはしない」が「造り上げる」(オイコドメオー「建て上げる」の意味を持つ)に置き換えられています。この言葉遣いの変化に注目することがこの箇所を理解する上で大切です。パウロはここで、キリスト者の自由の問題を、教会が「造り上げられる」こと、「建て上げられること」に焦点を当てて議論を進めています。

問題は、二つあります。教会を造り上げ、建て上げる原理、力は強さに基づく「自由」なのか、それともそれ以外の原理があるのかないのかということが第一の問題です。そして第二は、その食べるか食べないかがキリストへの信仰告白としての意味を持つという点です。

そして、この箇所の理解で大切にしたい視点は、24節の「自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」という視点です。

キリスト者は、偶像に供えられた肉が市場で売られていても、それを食べる自由が与えられています。

しかし、創造者である唯一の真の神への信仰を持っていない、異教徒から食事に招待されて、これは「偶像に供えられた肉です」といって食事を勧められた場合、そう言ってくれる人とその場にいる他の人の「良心の問題」として、それは「食べてはいけない」とパウロは述べています。パウロのいう他人の良心の問題とは、そう言った人が、パウロが食べることによって心を痛め悲しむことになるという意味ではありません。キリストを信じていない未信者が、パウロが食べることによって心を痛めるということは考えられません。そのひとが心を痛めるくらいなら、そんなことをわざわざ言うはずがありません。言うより以前にそのような「偶像に供えられた肉」をキリスト信徒であることが判っている人に出すはずがないからです。

むしろそのように言ってわざわざ「偶像に供えられた肉」を出すのは、その人のキリストへの信仰を試そうとして、いわば踏み絵としての意味で、そう言っているか、そのことをたとえ意識せずに、よかれと思って「これはどこそこの神殿で捧げられた聖なる肉ですよ」といったとしても、それを食べることは、その人にとって、キリスト者は、私たちと同じように自分たちの信じている神に捧げられた肉を喜んで食べると理解する可能性があります。その意味ではやはりその肉は「踏み絵」としての意味を持ちます。パウロがここで「他人の良心」という場合、キリスト者のその行為を通して、キリスト者が誰に対する思いを一番強く持って生きているかを知ることになるという意味です。また、偶像に供えられたものを食べてよいかどうかで、特に、偶像の神殿の食堂での共食問題で、それが偶像礼拝につながるのではないかと「信仰の良心」を痛めているキリスト者の「弱い人」がその場に居合わせていたならば、その「弱い人」に異教的生活と土着化した形での信仰生活を促がす結果となる、という意味で「他人の良心」への配慮の必要をパウロは訴えているのです。

ですから、28節の「これは偶像に供えられた肉です」という異教徒の言葉において、キリスト者は、その食事どうするかにおいて自分の信仰を告白することになります。それは、異教徒のキリスト者への評価を決めていく上で重要な意味を持っています。その態度を見て、自分の信じている神に対する忠誠を判断し、その評価がキリスト者全体、キリスト教会全体の評価に繋がっていくからです。ですから、この言葉に対する反応は、信仰告白としての意味を持っています。そして、その態度によって、わたしたちのキリスト信仰に対する評価を低め、キリスト信仰への期待を失わせる意味で、その人の「良心」を傷つけることになります。

だから、この場合の食べるかどうかの問題は、キリスト者の良心の問題でなく、他者の良心の問題です。しかし、問題の核心は、その行為を通してキリスト者は何を告白するかが問われます。

先に第二の信仰告白の問題を論じましたが、これを後回しにしますと、第一の点の焦点がぼやけかねないからです。最初に、「自分の利益ではなく、他人の利益を追い求めなさい」という24節のパウロの勧めの言葉がこのところ全体を理解する重要な鍵言葉であるということを申し上げましたが、そのところへ帰っていきたいと思います。第二の信仰告白の問題を、教会の外の人に対する「良心」の問題からその重要性を説きましたが、それは、彼らを真実なキリスト信仰へ導く信仰の証の機会、避けられない問題として語ってきましたが、24節の言葉は教会の外の人も、内の人も、すべてをキリストの救いに与らせる愛の問題として語る重要な鍵言葉です。

そしてそれは、その前の23節の「すべてのことが私たちを造り上げるわけではない」という言葉を受けて語られている点を見逃してなりません。「わたしたちを造り上げる」とは、教会を造り上げるという意味です。「造り上げる」は、オイコドメオーというギリシャ語からの訳ですが、「建て上げる」ことです。教会を建て上げるのは、強い人の自由な何をやってもよい、あらゆる行為でありません。教会を建て上げるのになくてならない行為というものがあります。それは、「自分の利益ではなく、他人の利益を追い求める」愛です。パウロはそのことを強調します。この段落は冒頭で8章からの「偶像に供えられた肉」に関する議論のまとめだといいましたが、パウロは8章1節で、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と言っています。教会を造り上げる力、建て上げる力は、「愛」だとはじめから言っているのです。

しかし、その場合の愛は、ヒューマニストの愛ではありません。キリストの愛をもって他者に向ける愛として語られている点が重要です。そうでないと教会を建て上げることができません。教会を、教会たらしめる力は、キリストの愛、キリストの言葉、キリストの救いの業だけです。だから、わたしたちは、このキリストへの信仰を、知識だけでなく、その行為においても問われているのであります。

その意味で、31節の「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」という言葉は、24節との関連で重要です。結局、人の信仰の強さ、知識が問題なのではなく、その行為が「神の栄光を現すものとなっているか」が、「他者の本当の利益」、救いに繋がるのです。この点が理解できなければ、ここでの議論は理解できません。33節の「わたしも、人々を救うために、自分の利益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしている」というパウロの言葉も、ここから理解しないと、人が喜んでくれるなら何でもすべきであるとパウロは言っていると、短絡的に取られる恐れがあります。

パウロはわたしたちがその一つ一つの行為においても常に意識していなければならないのは、「人々を救うため」という意識だというのです。それが「愛」だというのです。その愛が本当の教会を建てるというのです。最後の「あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」というパウロの言葉は誤解されやすい言葉ですがとても重要です。パウロは単純に「わたしに倣え」と言っているのでありません。「わたしがキリストに倣う者であるように」と、パウロの手本、模範としてのキリストを指し示し、そのお方にしたがっているところの自分の後ろ姿を見て倣ってほしい、とパウロは言っているのです。ですから、キリストの他者を見る目、他者に向けられる態度、それを見倣えとパウロは言っているのであります。

このパウロの言葉の意味は、ローマ5章6-8節から理解することが大切でしょう。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

他者の罪の救いのために自己を犠牲にされるキリストの愛、これを見倣う、そして、ただその神から与えられた使命を全うするために、神の栄光だけを現そうと生きられたキリストの生き様、これが私たちの見倣うべきあり方だ、とパウロはいうのであります。決して自分の益に生きようとせず、他者の救いのために生きられたキリストの愛を、神の栄光のために生きられたキリストの神への愛を、わたしたちは覚えるべきであります。

新約聖書講解