コリントの信徒への手紙講解

44.コリントの信徒への手紙二3章4-18節『主の霊の働きによる』

この御言葉は、新しい契約の奉仕者としての使徒の務めの特質と栄光について述べています。しかし、使徒だけに与えられる特質と栄光ではなく、すべてのキリスト者に同じように与えられていることが18節に明らかにされています。使徒の務めの特質と栄光は、新しい契約が持つ特質から与えられるものです。それが同じように一人一人のキリスト者に与えられている事をパウロは述べています。それゆえ、この章は、新しい契約に生きるキリスト者・教会の特質と栄光について語っています。

さて、「契約」と訳されています元のギリシャ語、ディアセーケーは、世俗的ギリシャ語の用法としては、もっぱら「遺言」という意味で用いられています。しかし、七十人訳聖書は、ヘブル語の「ベリィース」という語を、ギリシャ語に訳すときに、ディアセーケーを用いました。そこから、この言葉の意味を理解しなければなりません。その本来の意味は、神と人との対等の「契約」関係を表す言葉ではなく、神がその民の救いのために与える秩序を表し、従って、それが人間に対する規範となることを表しています。この元来の意味から、ここに示されている「新しい契約」の意味を理解するが大切です。

神が人と結ぶ契約はどれも本質的に「救済的・恩恵的」です。ここでの議論は、古い契約としてのモーセの律法が、文字に書かれた一時的で消え去るべき運命にあり、人を罪に定める務めしか負わないものとして、消極的な評価しか与えられていない印象を受けます。しかし、律法は元来、神の救済に与ったイスラエルがその祝福の道を歩み続けるために与えられた祝福の手段でした。律法には神の義の道に従うなら「祝福」を、従わないなら「呪い」が与えられることが告げられています。しかし、イスラエルの子らは、アダムの罪の本姓の腐敗が刻み込まれていましたから、律法は人を罪に定めるという役割を果たすものとして働き、人の救いのために働くことはできませんでした。だから、石に刻まれた文字としての律法は、人を「殺し」、「罪に定める」という役割しか果たさないとパウロは述べています。この様に、古い契約の下においては、神がその民の救いのために欲し与えた救いの秩序は、人を罪に定める働きとしての務めを荷うだけであった、とパウロは述べているのであります。

しかし、今や、「新しい契約」が与えられ、神がその民に与える救いの秩序が新しくされたとパウロは言います。使徒は「新しい契約に仕える」もので、その資格は自分の思いや人から与えられるものではなく、神から与えられるものであるとパウロは言います。「資格」を表すギリシャ語ヒカノテースは、「あることを行なうに十分な状態、能力、立場」を意味しますが、それは神から与えられる、とパウロは言います。「新しい契約」が、神がその民に与える救いの秩序であるなら、使徒の資格、能力、立場も、すべて神から与えられます。神が、人間の福音ではなく、神の福音を宣べ伝える力(能力)を使徒に授けられたので、使徒は新しい契約の奉仕者とされている、とパウロは述べています。

神がその民のために定めた新しい救いの秩序とは何でしょう。パウロは、Ⅰコリント11章25節で「新しい契約」について触れています。それは、イエスの血によって立てられ有効とされた救いの秩序である、といっています。また、ヘブル書8章8節から9章15節には、永遠の大祭司として、永遠の霊によってご自身を傷のないものとして献げられたキリストの血が、新しい契約の仲介者としての永遠の贖罪として効力を持つと告げています。しかし、このキリストの贖罪行為自体は、「古い契約」の律法に従ってなされています。つまり、キリストは律法の義を完全に満たし、その義なる者の血によって、罪ある者の贖いが完全に成し遂げられたことによって、「古い契約」はその成就によって古びたもの、消滅すべきものとなったのです。

7-11節の議論は、これらの「新しい契約」の内容を承認する形で進められています。「新しい契約」の「新しさ」は、終末論的・救済論的に理解されなければなりません。その事態はすべて神によって意志され、創り出され、定められています。

パウロは、「古い契約」を、文字として、律法として示し、人間の罪を宣告し有罪と定める審きのつとめを果たすものとしてのみ語り、「新しい契約」を、「霊」として語り、「霊は新しい生命の力」として、人を義とし栄光に満たすものであり、永続するものであると言います。新しい救いの秩序は、キリスト・イエスにある命の霊として、霊的性格を帯びています。パウロはこのように「律法」と「霊」とを対置し、「律法」と「福音」の対立を明らかにしています。

使徒のつとめは、「霊に仕える」ことにありますから、聖霊の担い手であり、奉仕者であります。使徒職自体が終末論的な救いの秩序の中に組み込まれているのです。「使徒のつとめ」は、「新しい契約」における、新しい救いの秩序の中に組み込まれ、神によって定められ、その資格が与えられ、その職務にふさわしい能力も、この秩序の創始者である神から与えられている、とパウロは述べています。

この「新しさ」、終末論的・救済論的な秩序が、今や神から与えられることによって、モーセとその律法の「古さ」、暫定性、消滅すべきものとしての性格が決定的になったのです。だから、パウロは出エジプト記34章29-35節を引用し、モーセの顔の輝きとその顔にかけられた覆いの問題について触れて、モーセが顔に覆いをかけたのは、栄光が失われるのを隠すためとしていますが、出エジプト記に記されているその元来の意味は、モーセの顔の輝き(栄光)を見て、イスラエルの人々が死ぬことのないようにするためでありました。しかし、パウロはこれを、「新しい契約」において示された、新しい救いの秩序、すなわち、終末論的・救済論的な意味から、そのような解釈を与えているわけです。

そして、14節では、その顔の覆いを、イスラエルの頑なさを表すものとして、「取り除かれるべきもの」として語られています。「考え」と訳された言葉は、理性を表します。パウロがここで明らかにしようとしていることは、イスラエルに律法が啓示されたことの意味です。彼らが神の栄光を帯びたモーセの顔の輝きの姿を見なかったのは、神が彼らの心を頑なにして、イスラエルは律法が終わるべきものであるということを知らないままとどまっているからである、というのです。その心に覆いがかけられているので、律法が過ぎ去るものであり、死をもたらすものであることを知らない。それどころか、律法に仕えることから生命がもたらされるといつまでも思い続けている心の盲目性を、「覆い」という言葉でパウロは表しているのです。

14節の「古い契約」(パライア・ディアセーケー)は、「旧約聖書」全体を指しています。キリスト教会が今日「旧約聖書」と呼ぶ言い方は、このパウロの言葉から始まりました。パウロは、「古い契約」の古さ、その「覆い」がかかった状態を、「新しい契約」の新しさから説明しています。新しい契約の新しさとは、古い契約を古い契約として読めない「心の覆い」を「取り除く」ところにあります。その覆いを取り除くのは、キリストであります。キリストによってのみ、旧約聖書の上にある覆いが取り除かれ、キリストによってのみ、律法の正しい認識が与えられることを、パウロは示しているのです。古い契約の持つ意義、すなわち旧約聖書の真の理解は、「新しい契約」の内容であるキリストを信じ受けいれ、キリストから理解するときに初めて与えられる、とパウロは言います。イスラエルの人がいつまでも心に覆いがかかり、盲目であるのは、キリストを拒み続けているからである、とパウロは言うのです。

「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(16節)といって、パウロは、イスラエルに対する希望を捨てていません。イスラエルが主の方に立ち返るとは、キリストにおいて示されている救い、福音を聞いて、悔い改めることです。モーセは主と語るために主の前に出るたびに覆いを取ったという文章を、パウロはイスラエルとキリストとの関係に適用して、モーセのその行為を「主に向く」こと、すなわち「回心」と解し、そこから「主に向くこと」こそ、イスラエルに心の覆いが取り除かれ、キリストの霊に与らせ、再び栄光を与えられる希望を語るのです。

パウロは、既に6節において、「新しい契約」を「霊」として語っています。そして、17節において、「ここでいう主とは“霊”のことです」という説明を加えています。この霊を「主の霊」と呼んでいます。この場合、主とはキリストのことでありますが、霊は明らかに聖霊のことです。17—18節のパウロの議論は込み入っていてすっきりしませんが、主と霊を一方で同一のものとして語りつつ、もう一方で霊をキリストの下において区別して語っています。キリストの業と聖霊の業が同一であると語られ、区別して語られるところに難しさがありますが、そこにまた新しい契約における神の救いの秩序の特徴があります。

新しい恵みの契約は、イエス・キリストにおいてのみ実現しました。それは、キリストの十字架の血で立てられた「新しい契約」です。それは、この歴史の中でただ一度起こった出来事です。それは、わたしたちのためになされた贖罪、和解の出来事です。キリストは、新しい契約の中保者として、古い契約の律法の「義」を完全に満たし、その贖いを完全に成し遂げ、その義を人に与えるため、いま聖霊において共におられます。キリストの霊である聖霊は、キリストの義、命をもたらすお方として働いておられます。キリストは、現在、聖霊の働きを通して、律法の終わりを明らかにされます。このように、聖霊の働きが新しい契約における救済史の秩序の中でしっかりと位置づけられています。

そうであるならば、使徒のつとめが「霊に仕えるつとめ」であるということは、この場合どういう意味を持つのでしょうか。それは、霊が、キリストの成就された救いの業を、一人一人の「心の覆いを取り除く」ことによって、心をキリストに向ける働きと深く関わっています。使徒のつとめは、キリストが成し遂げた「新しい契約」の内容である十字架の血について語ること(福音を宣べ伝える)ことであります。使徒は、「主の霊」が一人一人にキリストの救いを実現する働きに、現実の歴史の中で仕えているのです。その働き自体が霊によって支えられ、霊の賜物に与っているのです。霊はこのように使徒の働きを自由に用い、人々がキリストへの信仰を持つように、その心の覆いを取り除く自由な働きをして、「キリストの方に向かわせる」働きをしているのであります。使徒は、福音宣教によって、「新しい契約」に仕え、「霊に仕える」のです。しかし、聖霊は使徒の宣教の業を通し「福音」に与った者「ひとりひとりに」に、同じ恵みを与えるのです。聖霊は使徒たちの宣教を助け支えるだけでなく、この宣教に与る私たちにも働いておられるのです。

18節の「わたしたちは皆」という言葉に注目しましょう。聖霊の助けと導きによって、顔にかかっている覆いを取り除かれて、主の栄光を見る者に変えられる、と言われています。主を見たモーセの顔が主の栄光で輝いていたように、わたしたちの顔も主の栄光で輝くものとされるという大きな慰めと喜びがここに語られています。それはモーセのように失われることのない栄光です。わたしたち自身の存在が「主と同じ姿に造りかえられる」からです。キリストの救いの御業は、キリスト者に対して、見ること、変わることの中で現れます。キリストは霊の主として、霊に命じ、霊によって働き、この変化を創造されます。しかもその霊とは、主がいます現実にほかなりませんから、この出来事は既に現在において始まっています。その完成は未来に属する事柄であるとしても、主の霊の働きによって既に現在始められている、というところに大きな希望と慰めがあります。そして、この神を見て変えられる大きな変化を、「主の霊の働きによる」とパウロは最後に語ることによって、これを神の恵みの御業として、信仰において受けとめるべきことを示しています。しかも、キリストと同じ栄光の姿に変えられることが、使徒だけでなく、キリスト者全員に約束されているということが、わたしたちに与えられる大きな慰めであります。

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