ガラテヤの信徒への手紙講解

10.ガラテヤの信徒への手紙2章17-19節『神に対して生きるために』

パウロは、2章の16節において、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」、と述べています。だから、パウロは、律法を当てにして、それに従って生きていくことはとんでもないことであると言っているという印象を持ってしまうかもしれません。実際3章24節では、パウロは律法をキリストのもとへ導く養育係としての役割しか認めていない書き方をしています。そして信仰が表れたからには、わたしたしたちはこのような養育係のもとにはいない、とさえ述べています。しかし、パウロは律法の価値をぜんぜん認めていないかというとそうではありません。ローマの信徒への手紙7章では、律法には罪を自覚させる働きがあり、それ自体は霊的なものである、という積極的な評価もしています。とはいえ、律法は人を生きている間だけ支配するものである、ということも述べています。

このようなパウロの議論の進め方は、よく注意しないと、わたしたちを単純な律法無用論にするかもしれません。また、律法なしにどうやって信仰を整え、神の前に正しい歩みをすることができるのか、という疑問がわいてきます。

パウロがここで述べているのは、救いの問題です。救いの問題が、律法を守ることによって人は得ることができると考える信仰がファリサイ派や律法学者と呼ばれる人たちの間だけでなく、ユダヤ主義的な考えに立つキリスト者の間でもそのような考えに少なからず影響されている人がたくさんいました。しかし、そのような律法理解を否定するように、人が救われるのはただイエス・キリストを信じる信仰によるということを、16節においてきっぱりと述べています。宗教改革者のルターは、この信仰によるというところを、「信仰のみによる」とさらに強調して理解しています。キリストへの信仰という言葉は、ギリシャ語のテキストを直訳すると、キリストの信仰となるということを前回述べましたが、キリストの信仰が、わたしたちを救うというのは、言葉としてはわかりにくいので、キリストへの信仰と訳されているのですが、元になるピストスという言葉は、真実とか誠実という意味もあります。そうするとイエス・キリストの真実によってわしたちは救われたということです。イエス・キリストの真実ということは、わたしたちのためにキリストがわたしたちの罪を背負って十字架に死なれたということです。それは罪の贖いとして、御子キリストがご自身に与えられた使命として果たされた業です。キリストはこの使命を実現するために、神の御子でありながら自己のために生きず、己をむなしくして、神に生きるために、十字架の死を受け入れられたのであります。パウロは、それがキリストのピストスである、このキリストのピストスによって、わたしたちは本当は今も罪ある存在であるけれども、キリストのピストスのゆえに、罪なき者、義なるものとされている、と言うのであります。

パウロがここで述べていることは、人が神に義とされるのは、キリストの恵み、キリストをわたしたちに与えてくださった神の恵みによるということです。この恵みをただ、キリストを信じることにより、この恵みを与えてくださるキリストに委ねて生きることによって、神はわたしたちを義なるものとして扱ってくださる。それは律法を完全に行い得ない罪人に与える神の恵みとして与えられるものである、とパウロは述べているのであります。

しかし、律法が大事だ、それは救いに欠かせないというこだわりをいつまでももって生きている人、信仰の問題をそこからしか見ようとしない人には、このパウロの議論はなかなかわからないかもしれません。ここで述べられている神の恵みの意味がわからないかもしれません。神の恵みを恵みとして知るということは、実際にその恵みの中に委ねてしまうということをしないと、分からないのです。それは、知識として説明できる問題ではありません。一切を神に任せ、神が与えてくださる恩恵の手段を喜んで生きるとそれがよく分かってくるのですが、人間というのは、どこか自分で正しいことを行っていないと、神の救いから遠ざかってしまうのではないか、いつも不安になりやすいのです。またいい加減な自分が許せないと責めようとします。けれどもそれは本当にしんどい、苦しい信仰です。それは非常に信仰深い生き方のように見えますが、結局は自分の力で救いを得ようとしている律法主義の生き方です。だからもう大丈夫という達成感をいつももてない苦しみが残るのです。

17節に記されている言葉は、そのように神の恵みに委ねることのできない人の問題を語っているのであります。わたしたちがキリストによって義とされるというのは、キリストの義をわたしの義として神が勘定してくださるということです。それを信じるということは、その義にゆだねて安心して生きるということですから、キリストによって義とされるように努める、というのはそれ自体言葉の矛盾です。信仰も義とされるための努力の問題にすると、これもまた律法になります。律法というところから考える人はどこまでもそこから抜け出ることができないのです。そのような努力をしますと、いつまでもキリストを信じていても義とされている安心をもてませんので、自分はまだ罪人であると考えるのです。キリストはそういう罪に仕える者として来たのか、そういう議論を実際する人がいたのでしょう。また反対に、ローマ書6章1節でパウロが述べていますように、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」、という議論をする人も現れてきました。

パウロは決して律法は無用だなどと述べていません。そういう誤解を避けるために、18節では、律法という言葉で言ったほうがわかりやすいところを、注意深くその言葉を避けています。この場合、「自分で打ち壊したもの」というのは明らかに律法のことです。

本来、律法は、救いにいたる手段として与えられたものではありません。十戒の最初の序文が示している通り、十戒を授けられたイスラエルは、エジプトの奴隷の苦役から神の恵みの力によって救い出され、すでに神の救いの中に入れられている民としての扱いを受けているのであります。そのイスラエルに十戒が与えられたのは、その恵みの中で喜びながら幸いなものとして生きるためです。神に生きる真実な民としての歩み、人生を築くためであります。まず神の救いがあって、その救う神の導きの恩恵の中にいつまでも留まる恩恵の手段でありますから、それによってこれから救いに与りなさいという峻別の手段では元来なかったのであります。しかし、後になればそれを救いの手段として律法主義に陥る誤りが見られるようになりました。パウロがここで問題にしていますのは、そういう誤った律法観であります。

パウロが自分で打ち壊したもの、といっているのは、律法によって生きよう、救いをそれによって得るために生きよう、という生き方です。そういう倒錯した律法理解であります。

だから、19節の、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。」という言葉は、神の恵みに生きるために、律法によって自分の義に生きるということに対して自分は捨てたということです。律法が求める神の前での正しい歩みがどうでもよいとパウロは述べているのでありません。それは、救いに至る手段の問題としての、律法に生きる道を死なせたということであります。それでは、本当に神に生きることにはならない。神の恵みを喜ぶ生き方にならないからであります。律法によって自分の義の証を立てる生き方というのは、結局自己愛に生きる道です。本当に神を喜び、神の恵みに感謝する生き方にはなりません。神に対して生きるということは、神の恵みによって、それにひたすら寄りすがって生きるということです。キリストの十字架をわたしの救いとして喜び受け入れるということは、キリストの十字架をわたしの罪のためであると真剣に受け止めるということであります。そうすると、十字架においてわたしたちは自分の罪が裁かれ、本当にキリストと共に十字架に死んだ自分を見ることができるのであります。見ることができるというのは、自分の将来を見通すことができるということです。キリストと共に死んだこのわたしたが生きているとすれば、あるいは生きることができるとするならば、新しいキリストの命によって生きる以外にないということが信仰の問題として見えてくるはずです。それは、同じようにしてキリストの復活の命を理解することであります。それこそ神の恵みによる、その力による新しさを知ることであります。自分ではなくキリストがわたしという人間を生かす新しい力になっているという喜びの中で味わう命の充実、喜びがそこにあるのであります。キリストの恵みに生きるということはそういうことであります。パウロはこの恵みに生きるようにガラテヤの信徒に愛を込めて書き記しているのであります。そしてわたしたちにもそのように生きるように求めているのであります。

新約聖書講解