コリントの信徒への手紙講解

40.コリントの信徒への手紙二1章3-7節『神の慰めによって』

コリントの信徒への手紙一は、コリント教会から寄せられた質問に答える形で書かれた手紙でありましたが、コリントの信徒への手紙二は、使徒パウロに対してかけられた使徒職に対する嫌疑に対して、その使徒職の正当性を弁明するために書かれた手紙です。この点、パウロの他の手紙とは趣きを異にしています。そして、この手紙は他のどの手紙よりもパウロが自己について多く語っています。それゆえ、この手紙はパウロの自伝的要素の大きい手紙で、パウロの信仰の息吹を一番深く感じられる手紙であります。

パウロの手紙は挨拶に続いて感謝の祈りが神に捧げられるのが常であります。1章3-11節は、感謝の祈りに該当する部分です。

3-7節に、「慰め」「慰める」という名詞あるいは動詞が10回出てきます。そして、これらの語は、「苦難」という言葉と共に用いられています。この用い方を見ても明らかなように、ここに語られている感謝の内容は、苦難にある者に表される神の慰めに対するものです。

「共感」は英語でsympathyですが、この語は「同情」とも日本語に訳されます。日本人には、こちらの意味の方がよく分かるかもしれません。あるいはその意味に解されている場合の方が多いかもしれません。全共闘運動が盛んな時代(1960年代末から70年代初頭)、シンパシーの略語である「シンパ」という語がよく用いられました。全共闘運動に身を完全に投じないけれども、これに共感する人たちを指して言われた言葉です。この意味の語源は、元々は共産主義に対する側面的な精神的・物質的援助者について用いられていた言葉です。英語のsympathyは、symとpathyからなる合成語です。symは、「共に」「同時に」「類似」などの意味があります。pathyは、「苦痛」「感情」「…病」「…療法」の意を持つ名詞語尾です。それは、共に苦痛を味わうことであり、同じ感情を持つものとなる、という意味であります。

しかし、パウロがこの感謝の祈りの中で言っていることは、そのような人間の共感による慰めではありません。神の慰め、共感であります。パウロは、神を「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」と呼んでいます。わたしたちの神は、抽象的な神でありません。わたしたちは神を、イエス・キリストとの関係の中で理解することが求められているのです。神は、イエス・キリストの父として、「慈愛」と「慰め」とに満ちておられるお方であるのであります。

神の愛と慰めは、父なる神が子なるキリストに向けられる愛であり慰めであります。そして、それはわたしたちに向けられる時、イエス・キリストを通してのものであります。神がわたしたちにとって愛の神であるという時、神の御子キリストへの愛、慰め、御子イエス・キリストにある愛と慰めを抜きにして、語られることはないのです。

3節の「慰めを豊かにくださる神」は、直訳すると「あらゆる慰めの神」です。この語は、人間が経験する慰めの唯一の根源が神にあることを示しています。わたしたちの慰めは神から来るのです。あらゆる慰めが神にあるとするなら、あらゆる苦難の慰めもまた、神によって与えられます。事実、「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる」とパウロは言っているからです。

だから、わたしたちが人に慰めを与えることができるとしたら、ただ一つの可能性しかありません。4節でパウロが言っていますとおり、「神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰める」という方法しかありません。

しかし、「神からいただくこの慰め」とは何でしょうか。慰めを与えることのできる者となるために、その人はまず神の慰めを受けている人でないと、それはできません。神の慰めは、神の御子イエス・キリストが「わたしたちの主」となることによって、はじめてもたらされるものです。神は御子を与えるほどに世を愛された、とヨハネ福音書3章16節でいわれていますが、それは、御子によってわたしたちを永遠の命へと救う愛です。しかし、この愛は御子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである、といわれています。それは、御子を「わたしたちの主」と信じる者に、初めて知ることのできる神の愛であります。

御子はわたしたちの救い主として世に来られ、わたしたちの主として十字架の苦しみを受けて死に、わたしたちの主として三日目に墓より復活させられ、わたしたちの主として天に昇られ、今わたしたちの主として支配しておられます。これが聖書に語られている福音の内容です。神は御子への愛をその復活において世に明らかにされたのであります。苦難を耐え忍ぶ御子キリストに、その愛において応えたのが復活であります。それが苦難にある者に向けられた神の慰めであります。苦難にあって生きる望みを絶たれた、「死の宣告を受けた思いでした」とパウロは9節でアジア州であった体験を語っていますが、パウロは「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」といっているのであります。「死の宣告」は、「死刑の判決をいいわたす」という意味です。死刑判決を受けた者は、文字通り死を覚悟しなければなりません。そんな情況の中で希望を持つことは非常に難しいことです。人間には、こんな人を励まし助け出すことはできません。しかし、そんな人をもし助けることができるとするなら、同じ状況にあって苦しんだ人間、しかもそこから慰めを受けた人間以外にないのです。それは、パウロの信じ受けいれた救い主イエス・キリストであります。パウロはその絶望する深き淵から見た希望の光は、十字架の死を遂げ、墓に葬られたイエス・キリストが、三日目に墓より復活されたという事実であります。神はその愛を御子への復活において示されたのです。神は、御子の復活において、御子を信じ、御子を主として仰ぐ者を、その慰めのもとにおいていてくださっていることを、死を覚悟する絶望的な苦難の中でパウロは見たのであります。パウロはその事実を信仰によって見ていたから、「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」と言うことができたのであります。

愛する自分の子を死者の中から復活させる神の不変の愛こそ、わたしたちの唯一の慰めです。この御子がわたしたちの主、救い主となられたのです。神は、その愛を、御子を通してわたしたちに注いでくださっています。わたしたちの「あらゆる苦難」は、すでに御子の十字架において、背負われ担われているのです。苦難と悲しみの原因も御子に背負われているのです。神は苦難と悲しみの中にある者に、すでに御子の復活において慰めを与えてくださっているのです。御子に結び付けられた死者もまたその復活の命に与ることができるとの神の約束が与えられているからであります。

パウロはこの事実を信仰において知っています。だから、神の慰めを与えられている者として、神の慰めを苦難にある者に語ることができる、というのであります。わたしたちの苦難を共感してくれるのは、人となられた神キリストのみであります。そして、御子の苦難を、父なる神は共感されるのです。神は、御子を通してわたしたちの「あらゆる苦難」に目を注ぎ、心にとめ、その苦難を共感し、その原因を取り除き、真の慰め与えてくださるのです。

苦難の共感、喜びの共感というのは、神と御子キリストとの間にあることが、わたしたちが御子との関係において神の子として神の共感の中に入れられているだけではありません。わたしたちがキリストの体であるなら、相互の苦難と喜びもまた共感する関係にあります。キリストの体は一体でありますから、キリストの体とされている教会においては、その一部の苦しみも、喜びもまた、キリストのものとして共感され、キリストとの関係でキリストの教会に属するすべてのもの相互に共感されているのです。

それが5-6節で、「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」といわれていることの意味であります。

キリストは現在わたしが経験している苦しみを共感してくださっているのであります。その苦しみの共感を通して、キリストは慰めを与えてくださいます。そして、キリストと一体とされているキリストの教会の兄弟姉妹の苦しみを、わたしたちも共にすることができるものとされ、その慰めも共にすることになる、パウロはいっているのであります。だから、一人の人の苦悩と慰めは教会全体のものとして、キリストにある希望につながるといっているのであります。

神がキリストを通して与えてくださるこの慰めによって、わたしたちも、苦難の中にある人を慰めることができるのです。

新約聖書講解