コリントの信徒への手紙講解

18.コリントの信徒への手紙一7章29-31節『ある人はない人のように』

パウロは、「定められた時は迫っている」(29節)と言っています。定められた時とは、キリストが来られる時です。キリストは、私たちの罪を背負って十字架に死なれたたが、その死から三日後、墓より復活され、生前ご自分と交わりをもっておられた弟子たちの前に表れ、ご自分を信じる者は、同じ復活の命に与ることを約束され、天に昇られました。それゆえ、今キリストは天におられます。しかし、キリストは、ご自身が再び来られる日まで、教会に聖霊を与え、その再臨までの期間を、パウロは「定められた時」として語っています。それが、主イエスの約束にしたがって起こる、ということが、この手紙の15章51節以下、Ⅰテサロニケ4章15節以下などに記されています。キリストが再臨される時、世界の終わりがきます。その時、主を信じて眠った者(死んだ者)はキリストに結ばれて復活させられて栄光の状態に入れられます。その時、生きているキリスト者は死を味わうことなく直ちに栄光の天に引き上げられる、と言われています。その日はまるで盗人が夜突然襲ってくるように訪れる、と言われています。主イエスも「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ父だけがご存じである」(マタイ24:36)と言われています。

しかし、パウロは、「定められた時は迫っている」と言います。パウロは、主の日は手の届くほど近いとの理解の下で生きていました。パウロはその理解の下で、今という時を如何に生きるべきかを、ここで語っているのであります。

キリストの十字架と復活は、終末においてあらわにされる神の審きと救いを明らかにしています。キリストと結びつけられて、私たちの罪は十字架において死にました。これが聖書の言葉であり、パウロが力強く語る福音の内容です。キリストの死が神の前に罪人であるわたしたちの身代わりとしての死であります。キリストはわたしの罪を背負って死なれたのであれば、罪人としてのわたしは、キリストの十字架と共に死んだことになります。そして、わたしたちはキリストと共に死んだのであれば、わたしたちはキリストの復活と共に、その命に与かる者にされています。今わたしたちは肉体が死に向かう現実を知っていますが、キリストはその体をも死から命へと救い、復活させてくださるのであります。

「定められた時」、すなわちキリストが再臨される時、わたしたちは、キリストの復活の命の状態に完全に入れられ、完全に聖化され、神のかたちとしての人間性が完成させられて、栄光の天で神と共にあるものとされる、というのです。パウロのこの章における勧告、助言はそのような時の間近さの意識と切り離しては正しく理解することができません。

その日その時、現在わたしたちが大切に思うもの、大事にしている関係は何の意味も持たなくなります。パウロは「この世の有様は過ぎ去る」(31節)と言っています。どれほど素晴らしい妻も、持ち物も、「過ぎ去る」関係であり、モノでしかないというのです。パウロはその価値を認めないのでしょうか。そうでありません。この地上の身分・関係を神の召しとして積極的に意義を認め、各自はそれを肯定的に受け止めるべきであると17節以下で述べています。しかし、それらの身分や関係は過ぎ去るものです。その身分・関係の中で、わたしたちは、キリストの奴隷とされることによって、この世の失われて行く関係や支配から自由の身とされているのであります。だから、世の環境・関係を変えなければ救われないというのではありません。そのあるがままの現実で、十分キリストの救いに与かれるのであります。救いはどこまでもキリストを通し、キリストとの関係において与えられるものであります。そういう意味で、終末の日に与えられる救いの完成の時に向かって、わたしたちの信仰の歩みを考えるべきである、とパウロはいうのであります。

「過ぎ去る」ものでしかない「有様」(ファッション)に、執着しすぎるとキリストの素晴らしい恵みを見失うことになり、主キリストに本当に喜ばれるキリスト者としての生き方を見失う、とパウロは言うのであります。本当にキリストに向かって、神に向かって一つであるべき信仰が妻や夫や世のことで、「心が二つに分かれてしまう」ことになる、とパウロは言うのであります。

しかし、パウロは「この世の有様は過ぎ去る」から、この世のあらゆる関係を断ち切りなさいと言っているのではありません。結婚は罪ではないとはっきり28節で言っています。ただそれよりも大きなキリストの救いの日のことを考えて生きる大切さを述べているのであります。その時の理解のもとにキリストとの関係を今この時にどう生かすかが、わたしたちにとって大きな関心にならなければならない、とパウロは注意を喚起しているのであります。

「妻のある人はない人のように」(29節)という言葉の意味は、独身のように振る舞えとか、夫婦としての性的な関係を止めよとか、別居や離婚を勧めているのではありません。それは、これまでのパウロの議論から判ります。結婚に、わたしたちは、救いを期待すべきでないということです。それは、天国への途上に与えられた一つの喜びの「有様」でしかなく、「過ぎ去る」ものでしかないからです。それらに過大な期待と喜びと望みを置く者は、それを失った時、その期待と喜びと望みが大きいだけ、喪失感、悲しみ、絶望的にさせられます。だから、その様なものに、究極的な期待を置いたり、望みを置くような生き方をすべきない、とパウロは述べているのであります。

キリストがわたしたちに与えてくださる喜び、希望、愛は失われることがありません。それゆえ、キリストに望みを置く者は、「過ぎ去る」ものでしかない夫婦の生活も、喜びも、その限界を知りつつ、本当に楽しむすべを知ることができるでしょう。

しかし、わたしたちにとって希望であり、救いであるのは、「この世の有様は過ぎ去る」ということを正しく理解する時です。この世の喜びが過ぎ去るということは、この世において味わう悲しみも過ぎ去るということです。大きな悲しみが長く続くのは辛くて辛抱できないことであります。悲しみの渦中にある者はそう思うでしょう。しかし、パウロは、キリストにある者の悲しみは、Ⅱコリント7章10節において「取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる」といっています。

この世に飲み込まれまれてしまっているような生き方しかできない者には、この世の価値は絶対的なものになります。命の主であるキリストを見失うような生き方しかできなくなります。しかし、キリストの救いを知る者は、その再臨の日に与えられる完成の状態から現在を見る視点を与えられています。だから、この世の事柄を相対化し、それをどこまでも「この世のこと」として、世俗化することができます。しかし、キリストがその歴史の中でわたしたちを召し、キリストにあるものとして受け入れてくださっているのであります。だから、キリストにあって、地上の事柄もまた意義と価値を与えられています。パウロは世のことに心を遣いすぎるわたしたちの心の「愚かさ」を戒めますけれども、神の賜物を考え、「人によって生き方が違う」生き方を大切にせよ、といいます。「定められた時は迫っている」(29節)から、「ある人はない人のように」と勧告しますが、それは、「束縛するためではない」というのであります。

この地上の生全体が「主に仕える」ものとしてあることの意義を見つめることが大切であります。そして、永遠に失われることのない方、主キリストに仕える者としての関係が、主キリストにあって夫婦としての関係に結びつけられているのであります。わたしたちにとって、それは、また最高の喜びとなります。パウロは「定められた時は迫っています」という強い自覚の下に、キリストにある信仰生活の大切さを強調しましたが、その大切さは今も変わりありません。本当に深く、キリストとの関係、キリストから与えられる命の大切さを信仰において理解し、大切にしていくところから、「妻のある人はない人のように」ということは初めて理解でき、実行できるでしょう。そして、そのことが互いの人格を尊重した本当の夫婦愛を築く力となるでしょう。

新約聖書講解