ガラテヤの信徒への手紙講解
15.ガラテヤの信徒への手紙3章26-29節「キリストにある自由-一致と平等」
人間には自分で越えられない壁があります。人は自分の意思で性別を選ぶことができません。また、どの人種に、どの国に、どのような社会的な身分を持って生まれるかなど、どの一つをとっても自分で選ぶことができません。しかし、その差が現実に差別を受け、自由を制限されるということであれば、それは、差別する側にとってはたとえ納得の行くものであったとしても、差別される側にとっては決して納得のいくものではありません。ましてや宗教は人の救いに関わる、命に関わる問題を扱いますので、こうしたものによって人の救いに制限が加えられということになれば、それは見過ごすことのできない問題となります。そして、宗教が一元化された社会では、その差別、区別は、実際の社会生活における影響も大きく、社会的差別を温存することにもなりかねません。
パウロがこの手紙において、これまで一貫して強調してきたことは、キリスト者の一致に関する問題であり、キリストにある救いは律法から解放し、人を自由にする、というものです。勿論この場合の自由の意味は、キリストにある自由であり、キリストに生きる自由でありますから、そこから離れて何でもしてよいということではありません。
3章26-29節は、この手紙の頂点とも呼ばれているところです。
パウロはまず、「あなたがたは皆」という言葉で、この段落での議論を始めています。これは、前節までの「わしたちは」ということと明らかに意識的に区別した言い方です。つまり「わたしたちは」という言い方は、律法のもとに生きていたユダヤ人パウロやペトロの問題を論じています。それを、キリストが現われるまで、キリストによる信仰が啓示されるまでと、された後からの問題を論じてきました。勿論、キリストが来られてからは、その「わたしたち」の中には、差別なき、信仰のみによる救いが実現していますので、異邦人キリスト者であるガラテヤの信徒たちも含まれていますが、ここでは特に、この手紙の受け取り手であるガラテヤにいるキリスト信徒すべてに向かって、「あなたがたは皆」という呼びかけをし、これから語ることは、彼らすべてに関わる問題として述べられています。
まず、「信仰により」ということを最初に語ります。この「により」は、ギリシア語では、ディアという前置詞が用いられています。英語のthroughに該当する語です。この前置詞は、「~を通して」という意味があります。キリスト・イエスにある救いは、信仰を手段として、信仰という通路を通って私たちにもたらされる、それが神の恵みの手段として与えられているのであります。信じたから救われるということが強調されているのではなく、神が与える救いの内容を信じるという受身、そういう通路を通って私たちにもたらされるものであることが、この「により」という言葉において強調されているのであります。
そして次に、「キリスト・イエスに結ばれて」と訳されていますが、「に結ばれて」は、エンという前置詞が用いられています。それは、英語のinに相当する語です。それは、わたしという存在がキリスト・イエスの中にあって受ける神の取り扱いのことが言われています。キリストが私たちのためになしてくださった業、私たちのために立ってくださった関係、キリストが私たちに約束してくれていること、こうしたことを包摂するのが「に結ばれて」という語です。それをここでは、「神の子にする」という身分との関係で述べられています。これは前の議論との関係でも、この段落の結びの語との関係でも、神の約束、救いの相続人の身分に関わるものと述べられています。
そして、27節に、「洗礼を受けてキリストに結ばれ」という言葉が続いていますが、ここの「結ばれ」と訳されている語に用いられている前置詞は、エイスという語で、これは英語のintoに相当します。だからここは直訳すると「キリストの中へ洗礼を受けた」となります。これは洗礼という儀式が、教会に加入するときに、私たちが教会の中に参与する典礼的な意味を持つことを指し示す言葉として用いられています。
パウロはここで、全人類のための神の決定的な行為によって始まった新しい時代の出発点における偉大な出来事を強調しています。キリストにおける出来事は他の歴史的出来事とは全く異なるものです。キリストの到来は、終末的論的な出来事です。キリストの到来は世を変革させ、終末の時代の始まりを意味する出来事です。
ですから、私たちが「洗礼を受けてキリストに結ばれる」ということは、私たち自身がキリストの主権に従う者となるという信仰の表明の機会となるのであります。キリストの主権の現実支配の下に身を引き寄せられる、そういう意味をもっているのであります。それをパウロは、「キリストを着る」という言葉で表しているのであります。
神は唯一であるという信仰は、聖書において一貫して主張されています。この神がユダヤ人の神であると同様に、異邦人の神でもあるという根拠でもあります。その信仰において、安息日には、その日を聖別して奴隷も自由人も区別なく神を礼拝しなければならない、寄留の他国人もそのようにしなければならないと教えられています。雇い主も、使用人にその日を守れるように配慮しなければならないといわれています。この礼拝の自由を、神の主権の下に誰もが享受できる、この自由をキリストは十字架の死を通して実現されたのであります。キリストはこの十字架の贖いを、唯一の救いの手段として、他のすべてのそれに変わる救いの手段を締め出されたのであります。だから、新しい神の選びの民、イスラエル、唯一つの同体をキリストご自身が造られるのであります。キリストは多くの共同体を造られるのではなく、唯一つの共同体を造られるのであります。
世界はキリストによる救いがなければ人々は多様な集団に分離されてしまっていたことでしょう。ユダヤ人は割礼において、自分たちと異邦人とを区別していました。捕囚時代に成立した頃のユダヤ教の信仰においては、安息日を守ること割礼を守ることは、信仰告白的な意味を持っていましたが、それが律法として主張され、それはやがて食物規定を守ることと合わせて、異邦人と神の選民としてのユダヤ人を区別する目印になり、パウロの時代にはそのように考えるユダヤ人が多数を占めることとなりました。割礼はユダヤ人と異邦人を区別するだけでなく、この儀式は男性だけに施されるものでありましたから、宗教的な男女の区別、差別化にもこの儀式は寄与することになりました。このように彼らが自覚するかしないかは別として、そのような差別化を生み出していた事実は、その精神面、信仰面での影響は現実に少なくなかったことは、この手紙におけるパウロの議論からだけでも十分知ることができます。
しかし、「キリストの中へと洗礼を受ける」ことは、一致を意味します。パウロは洗礼において、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(28節)と述べています。
最初に申し上げましたように、人は男か女かどちらかに生まれます。それを人は自分で操作することができません。しかし、その性差は、古代イスラエルにおいても、また周辺世界においても絶対的な意味を持っていました。ユダヤ人として生まれることも、非ユダヤ人として生まれることも、絶対的な意味で理解されていました。奴隷の場合は、経済的な理由や、戦争などの原因で、その身分に途中からなったという人もいますので、生まれたときから必ずしも絶対的なものとして存在していたとは言えません。奴隷から自由人になることも決して不可能であったわけでもありません。
パウロはここで、社会的身分の平等のことを問題にしているのでも、人権の問題を論じているのでもありません。また、彼が宣言しているキリストにある一致は、民族的、社会的、性的な違いを消し去ることを目的にしたものでもありません。しかしその差ゆえに障害となっている救いの障壁、互いの敵意、性差別や、優越感や、劣等感を打ち砕くものでありました。そういうものを教会の中で打ち砕く、キリストにある一致が述べられているのであります。
キリストの前には、ユダヤ人であることも、異邦人であることも、男性や女性、自由人、奴隷、健常者、障碍を持つ者、との間には何の区別もなく違いもありません。キリストはすべての人の間の一致、平和、平等の基礎、土台であります。28節の「キリスト・イエスにおいて一つ」の「一つ」は、原文のギリシア語聖書では、「一人」となっています。キリストにおいては、性差も身分も、年齢も、人種も関係なく、「一人」の人間として等しい救いに預かるのです。「一人」の人間として平等に扱われるのです。この場合の平等ということは、同じスタートラインに立つということでは勿論ありません。同じところからはじめるということは平等に見えても、そこでまた差が現われることになります。どの一人をも、キリストは大切に愛し、神の子として、長子であるキリストが、その弟分、妹分である私たち一人一人を大切にし、等しく救ってくださるということです。キリストの神の国の相続における等しい扱いのことが言われているのです。
このことは、キリストの教会の中における問題として論じられていますが、私たちは日曜日の教会においてばかりではなく、生活のあらゆる面、領域、世俗的な領域、人々や集団を常にこの福音の光において見ていくこと、扱う努力の必要なことも、この時代においては特に覚える必要があります。キリストの救いは、あらゆる差別を温存するのではなく、それを取り除くものとしても意味を持っています。キリスト教という宗教は、本来差別を撤廃し、すべての人を神の恵みに招き、神の恵みのもとで、隣人同士が愛し合って生きていく、そういう新しい世界、神の支配の現実を造りだす宗教であります。この御言葉から、そのことにまで理解を深めることが大切です。
新約聖書講解
- コリントの信徒への手紙講解
- 序.コリントの信徒への書簡執筆の事情と特質
- 1.コリントの信徒への手紙第一1章1-3節 『神の召しによって』
- 2.コリントの信徒への手紙第一1章4-9節 『キリストにある豊かさ』
- 3.コリントの信徒への手紙第一1章10-17節『キリストの御名による一致』
- 4.コリントの信徒への手紙一1章18-25節『神の知恵と力』
- 5.コリントの信徒への手紙第一1章26-31節『誰も神の前に誇らせず』
- 6.コリントの信徒への手紙第一2章1-5節『神の力によって』
- 7.コリントの信徒への手紙第一2章6-9節『この世の知恵ではなく神の知恵で』
- 8.コリントの信徒への手紙一3章1-9節『成長させる神』
- 9.コリントの信徒への手紙一3章10-15節『この土台の上に』
- 10.コリントの信徒への手紙一3章16-23節『聖霊の宮としての教会』
- 11.コリントの信徒への手紙第一4章1-5節『裁くのは主』
- 12.コリントの信徒への手紙第一4章6-13節 『聖書に従う』
- 13.コリントの信徒への手紙一4章14-17節『霊的な父として』
- 14.コリントの信徒への手紙一4章18-21節『神の国は言葉ではなく力』
- 15.コリントの信徒への手紙6章1-11節『聖なる者とされ』
- 16.コリントの信徒への手紙一6章12-20節『聖霊の神殿としての体』
- 17.コリントの信徒への手紙一7章1-7節『神の賜物と生き方』
- 18.コリントの信徒への手紙一7章29-31節『ある人はない人のように』
- 19.コリントの信徒への手紙一8章1-13節『愛は造り上げる』
- 20.コリントの信徒への手紙一9章1-23節『福音に共にあずかるために』
- 21.コリントの信徒への手紙一9章24-27節『朽ちない冠を得るために』
- 22.コリントの信徒への手紙一10章1-13節『終末を生きる信仰』
- 23.コリントの信徒への手紙一10章14-22節『主の杯にあずかる者として』
- 24.コリントの信徒への手紙一10章23節-11章1節『神の栄光のために』
- 25.コリントの信徒への手紙一12章1-11節『聖霊と教会』
- 26.コリントの信徒への手紙一12章12-31節『キリストの体なる教会』
- 27.コリントの信徒への手紙一13章1-7節『愛がなければ』
- 28.コリントの信徒への手紙一13章8-13節『愛は滅びない』
- 29.コリントの信徒への手紙一14章1-25節『愛は教会を建て上げる』
- 30.コリントの信徒への手紙一14章26-40節『共に学び共に励ます』
- 31.コリントの信徒への手紙一15章1-11節『この福音によって救われる』
- 32.コリントの信徒への手紙一15章12-20節『復活、キリスト教信仰の核心』
- 33.コリントの信徒への手紙一15章20-28節『キリストの復活と終末』
- 34.コリントの信徒への手紙一15章29-34節『日々死んでいる者を生かす神』
- 35.コリントの信徒への手紙一15章35-49節『神は、御心のままに』
- 36.コリントの信徒への手紙一15章50-58節『死に勝つ神』
- 37.コリントの信徒への手紙一16章1-4節『エルサレムの信徒のための募金』
- 38.コリントの信徒への手紙一16章5-12節『主が許してくだされば』
- 39.コリントの信徒への手紙一16章13節-24節『結びのことばと挨拶』
- 40.コリントの信徒への手紙二1章3-7節『神の慰めによって』
- 41.コリントの信徒への手紙二1章12-22節『神の真実を誇りに』
- 42.コリントの信徒への手紙二2章14-17節『キリストの香り』
- 43.コリントの信徒への手紙二3章1-3節『キリストの手紙として』
- 44.コリントの信徒への手紙二3章4-18節『主の霊の働きによる』
- 45.コリントの信徒への手紙二4章1-6節『福音の光心に輝いて』
- 46.コリントの信徒への手紙二4章7-15節『この土の器に』
- 47.コリントの信徒への手紙二4章16-18節『日々新たにされる生』
- 48.コリントの信徒への手紙二5章1-10節『終末信仰を生きる』
- 49.コリントの信徒への手紙二5章11-21節『キリストの愛が迫り』
- 50.コリントの信徒への手紙二6章1-10節『神の力によって』
- 51.コリントの信徒への手紙二7章8-12節『御心に適った悲しみ』
- 52.コリントの信徒への手紙二8章1-7節『神の恵みに生きる』
- 53.コリントの信徒への手紙二12章1-10節『弱いときにこそ強い』
- ガラテヤの信徒への手紙講解
- 1.ガラテヤの信徒への手紙1章1-5節『人によってではなく、ただ神によって』
- 2.ガラテヤの信徒への手紙1章4節『キリストとは、どんな救い主』
- 3.ガラテヤの信徒への手紙1章6-10節『福音-キリストの恵みへの招き』
- 4.ガラテヤの信徒への手紙1章11-12節『イエス・キリストの啓示によって』
- 5.ガラテヤの信徒への手紙1章13-17節『神の恵みによって』
- 6.ガラテヤの信徒への手紙1章18-24節『神が讃美される人間の革新』
- 7.ガラテヤの信徒への手紙2章1-14節『神は人を分け隔てせず』
- 8.ガラテヤの信徒への手紙2章11-14節『福音の真理に生きる』
- 9.ガラテヤの信徒への手紙2章15-16節『ただイエス・キリストへの信仰によって』
- 10.ガラテヤの信徒への手紙2章17-19節『神に対して生きるために』
- 11.ガラテヤの信徒への手紙2章19節b-21節『キリストが我が内に生き』
- 12.ガラテヤの信徒への手紙3章1-5節『惑わされない生き方』
- 13.ガラテヤの信徒への手紙3章5-6節『信仰こそ人生の基』
- 14.ガラテヤの信徒への手紙3章15-25節『神の約束と律法』
- 15.ガラテヤの信徒への手紙3章26-29節「キリストにある自由-一致と平等」
- 16.ガラテヤの信徒への手紙4章1-11節『神の子とするために』
- 17.ガラテヤの信徒への手紙4章12-20節『キリストが形づくられるまで』
- 18.ガラテヤの信徒への手紙5章13-15節『自由を得させるために』
- 19.ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節『聖霊の結ぶ実』
- 20.ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節『御霊に導かれる生活』
- 21.ガラテヤの信徒への手紙6章11-18節『新しい創造』