ガラテヤの信徒への手紙講解
14.ガラテヤの信徒への手紙3章15-25節『神の約束と律法』
初期ユダヤ教の研究者サンダースがその研究者としての視点からパウロ研究の成果を著した『パウロ』という本は非常に注目されている本で、その本の共訳者の一人で、当時一橋大学の教授で日本における初期ユダヤ教研究の第一人者である土岐健治が著した『初期ユダヤ教の実像』という本を、今から15年前、教会から頂いた夏季休暇の際に神戸のジュンク堂で購入し、貪るようにして読んだことがあります。この二冊の本は、新約聖書に著されているイエスの福音理解、パウロの福音理解に非常に有益な示唆を与えてくれる良い本です。これらの本は、今回のテキスト理解にも大いに役立つものでありました。
さて、ガラテヤ書3章6-29節で扱っている主題は、「真のイスラエルは誰なのか」という問題です。6-14節では、パウロはアブラハムを取り上げ、アブラハムの子孫とは神の真実に対して、アブラハムの様に応答するものであることを論じています。創世記12章1-3節は、二つのことを約束しています。第一は、アブラハムとその子孫を祝福するということであり(神の選びと召しの第一の線)、第二は、アブラハムを祝福する世界の諸国民を祝福する(神の選びと召しの第二の線)、という約束です。この第二の線は、アブラハムの子孫に異邦人も含まれるという意味が含まれています。
パウロはこの前の段落までの議論をさらに展開して、ここで、アブラハムの子孫とは「一人の人を指して」言われており、その子孫とは、キリストのことで、16節において述べています。神の約束、祝福はアブラハムを通して与えられる、という約束は、そもそもその子孫にとって重要な意味を持つ言葉として、パウロもパウロに敵対しているユダヤ人キリスト者にとっても理解されていました。しかし、パウロがその約束がイエス・キリストにおいて成就した、イエス・キリストへの信仰において与えられると語り、ユダヤ人と異邦人の区別なき、差別なき救いを主張し、この救いにおいて、律法はなんら意味をなさないと主張したとき、彼らは、それでは律法というのは無効なのかという反発をするであろうことをパウロは知っていましたし、パウロ自身もキリスト者にとって律法がいかなる意味を持っているかを明らかにする必要を十分感じていましたので、このところでそれについて答えようとしているのであります。
まずその前に、神の約束と律法の関係を述べておく必要があります。15-20節においては、パウロはこの問題を実際に即した歴史の時間的な順序から論じています。パウロまずアブラハムに約束が与えられ、アブラハムはこの約束に対して信仰を持って応答し、神の約束に従って生きた、ということを明らかにしています。つまり、律法が与えられたのは、アブラハムの時代から430年後のモーセの時代になったからであるといいます。律法はアブラハムに与えられた約束を確かに法律的に有効なものにするという効果を持つかもしれませんが、それによって約束された内容を無効にすることができないという議論を、遺言の効力の問題と比較して論じています。大切なのは、どこまでも神の約束の内容であり、約束する神です。それを保証するのは、律法ではなく、約束する神です。
律法を絶対的な守るべき規則の体系として受け入れるユダヤ人が、主イエスやパウロの時代に多くいたのは確かに事実です。しかし、すべてのユダヤ人、ユダヤ教徒がそのように考えていたわけでも、旧約時代から、そのような考え方が一般的であったり、定着していたわけではない、ということを最初に申し上げた二冊の本にも書かれています。
日本語に「律法」と訳されていますこの言葉は、ギリシャ語ではノモスで文字通り法律という意味になります。ヘブル語ではトーラーですが、その意味はそんなに単純ではありません。トーラーという語は、文字通り規則の体系としての律法を意味することもありますが、旧約聖書の最初の五書をトーラーと呼んでいます。このトーラーが書物として生まれたとき、後の世で占めるほどの聖書の中で中心的な位置を占めていなかったといわれます。それは、捕囚から帰還して律法の編集を行ったエズラ(前458年)の時以来、トーラーはユダヤ教の伝統に対する根本法になって今日に至っています。捕囚を体験した、ユダヤ人は、自分たちが神に選ばれたイスラエルの民であるという自覚を何によって得たかというと、安息日を重んじ、シナゴグと呼ばれる会堂で神を礼拝し、割礼を守り、食事の規定を守り、倫理的な律法の規定を重んじることにおいてでありました。それは、最初は、律法として守るというよりも、信仰告白的な意味を持っていました。しかし、エズラの時代になると、異邦人と結婚しているものを離婚させるなど、律法はイスラエルと非イスラエル人を区別する信仰の証としての意味を持つように変化します。
そういうことが問題になった時代の問題が、実はイザヤ書56章以下のところにおいても取り上げられています。パウロも律法を否定したわけでありません。問題は、このトーラーというものをどう捉えるかということです。トーラーと呼ばれる五書は、物語と法典とからなっています。ハダカー、あるいはハダハーと呼ばれるその物語、あるいは歴史部分は、イスラエルの「わたしたちは誰なのか」という自己確認の問題に答える役割を果たしています。これは五書だけに限っていえることではなく、その後に続く歴史を物語るすべての書にも当てはまります。預言者たちが王や民に向かって行った問いや、メッセージも基本的にはその問題をめぐって論じられています。これに対してハカラーあるいはハハラーと呼ばれる法典部分(倫理的法典も祭儀的法典も共に)は「わたしたちは何をなすべきか」という生活様式の問題に答える役割を果たしています。トーラーというのは決してそのいずれか一方のみでなく、両方が混合して与えられています。サンダースによれば、ラビ的ユダヤ教とパウロ的キリスト教の根本的違いは、トーラーについての見解の相違であると言われています。ラビ的ユダヤ教は、トーラーを主としてハハラー、つまり生活を営む上での規範を提供する法典として読み、この規範としてのトーラーをもつかもたないかをユダヤ人と非ユダヤ人を区別するものとして用いました。それに対してパウロは、ハダハーの面を強調し、古代イスラエルにおける神の義の働きの物語としてトーラーに注目しました。パウロは、福音を異邦人に説くという使命に直面しながら、キリストにおける神の行為が、その選びと贖いとをすべての人類に開かれたものであるという終末論的な確信の中で、トーラーを神の選びによる贖いの物語として強調することが適切であると発見した、と述べています。
パウロはここで、創世記12章1-3節において与えられた約束がキリストにおいて成就したことの意味を、国家的、民族的垣根を越える、ということに、もはや根拠を持たない、救いの門戸は今や世界に向かって開かれる出来事として語っています。こうして、キリストは神の民を新しく定義しなおすものとなっていることを明らかにします。
19-25節において、パウロは、神がなぜ律法を与えたかという問題(ハハラーとしての律法)について、それは「違反を明らかにする」ためと論じています。つまり律法が表れるまで、無意識の神への違反、悪行は、律法の指摘を受けることによって自覚的な故意の不従順に変えられた、といいます。
パウロは、律法の機能を養育係という言葉で説明しています。この語は、ギリシャ語のパイダゴーゴスと言葉からの翻訳ですが、パイダゴーゴスは富裕なギリシャ人やローマ人の家庭において、子供が学校に行かないときの期間、子供の世話を委託された個人を指します。それは普通奴隷でありました。パウロがこの語で言おうとしているのは、罪人が律法を経てキリストのもとにたどり着く道筋のことでありません。パウロは、律法の要求を満たし、その律法が求める罪の違反者に下される呪い(十字架)を自分の身に引き受けることによって、律法の養育係としての機能を過去のものとして救い主の到来のときまで律法が果たした役割をここでは考えています。
この点でパウロは、律法とキリストとの内的な連関も考えています。この場合、律法はキリストが来られるまでの養育係としての機能を果たしたという時代区分のことだけが述べられているのではなく、律法は、キリストの十字架の出来事と共に養育係としての務めを終えるとともに、その出来事(キリストの十字架)へ向けて重要な役割を果たしてきた、その啓示的な約束の面にも注目しています。これはパウロ的な律法理解としてサンダースが指摘する律法のハダハーの部分、物語理解に関するところから説明がつきます。つまり律法において約束されていた、パウロはこの律法を旧約聖書全体の意味で、ここでは理解しています。つまり旧約聖書が約束するキリストの到来の光の下で、ユダヤ人、ギリシャ人、奴隷と自由人、男と女、大人と子供を区別しない、そういう救いへ向けての養育係でもあった、という役割も見ています。
しかしそれは、あくまでもキリストへの信仰によって与えられる神の恵みによる救いです。
律法はもはや人を分け隔てするものとしては、役割を果たしえなくなっています。特に割礼や食事の規定はなんらその意味を果たさなくなっています。律法はすべてのユダヤ人にとっては確かに特権として与えられていました。確かに歴史のある段階において宗教的象徴ともなりえました。しかし、キリストの到来は神の民の定義の書き換えを意味しています。キリストとの交わりのうちに見出される新しい一致は、一部の人々を含み他の人々を排除していた古い区別、差別を取り去りました。だから律法はもはや脅威ではなく、律法の呪いは、キリストの十字架の贖いによって過去のものとされました。そのようにしてその養育係としてのつとめは終わりました。しかし、律法(旧約聖書)はキリストにおいてもたらせる救いを証言する故に、いまなお重要な意味を持ち続けています。パウロこの意味の律法を非常に広い身で用いています。律法の要求は今やキリストにおいて満たされています。パウロはトーラー(律法)を物語として読むことによって、イエスを、彼なしでは未完結の物語を、結末を与える救い主と見なしました。それゆえ、パウロにとってトーラーの全体は、イエス・キリストを目指しています。だからといって、このことは律法の法典部分の全否定を意味するものではありません。キリストは、律法に新しい展望を加えたのであります。Ⅰコリント9章21節では、「キリストの律法」と呼んでいますが、パウロがそこで考えているのは、モーセの律法と何か別の律法のことを考えているのではなく、あくまでもモーセの律法のことです。パウロは、主イエスと同じように、その律法を、神を愛し隣人を愛せよという言葉に集約されるものとして考えています。それをキリストにおいて実現され、表されたものとして、このキリストの光の中で解釈されたモーセの律法の理解をガラテヤ書5章において展開しています。
このように、律法は神の約束の光の下において、あくまでもそれに仕え従属もするもので、神の約束を律法に従属する、その律法の行為によらなければ得られないと考える逆立ちした考えは、聖書の福音理解の正しい読み方でないことを、覚えることが大切です。キリストは、律法の成就者で、その中に約束されていた方として、わたしたちをそこから自由にし、律法が目指す愛に生きる人間に変える方として来られたのであります。神はこの恵みをアブラハムにおいて、この歴史の中で与えておられたということを、深い喜びをもって聞くことが何より大切であることを、パウロはわたしたちに教えているのであります。
新約聖書講解
- コリントの信徒への手紙講解
- 序.コリントの信徒への書簡執筆の事情と特質
- 1.コリントの信徒への手紙第一1章1-3節 『神の召しによって』
- 2.コリントの信徒への手紙第一1章4-9節 『キリストにある豊かさ』
- 3.コリントの信徒への手紙第一1章10-17節『キリストの御名による一致』
- 4.コリントの信徒への手紙一1章18-25節『神の知恵と力』
- 5.コリントの信徒への手紙第一1章26-31節『誰も神の前に誇らせず』
- 6.コリントの信徒への手紙第一2章1-5節『神の力によって』
- 7.コリントの信徒への手紙第一2章6-9節『この世の知恵ではなく神の知恵で』
- 8.コリントの信徒への手紙一3章1-9節『成長させる神』
- 9.コリントの信徒への手紙一3章10-15節『この土台の上に』
- 10.コリントの信徒への手紙一3章16-23節『聖霊の宮としての教会』
- 11.コリントの信徒への手紙第一4章1-5節『裁くのは主』
- 12.コリントの信徒への手紙第一4章6-13節 『聖書に従う』
- 13.コリントの信徒への手紙一4章14-17節『霊的な父として』
- 14.コリントの信徒への手紙一4章18-21節『神の国は言葉ではなく力』
- 15.コリントの信徒への手紙6章1-11節『聖なる者とされ』
- 16.コリントの信徒への手紙一6章12-20節『聖霊の神殿としての体』
- 17.コリントの信徒への手紙一7章1-7節『神の賜物と生き方』
- 18.コリントの信徒への手紙一7章29-31節『ある人はない人のように』
- 19.コリントの信徒への手紙一8章1-13節『愛は造り上げる』
- 20.コリントの信徒への手紙一9章1-23節『福音に共にあずかるために』
- 21.コリントの信徒への手紙一9章24-27節『朽ちない冠を得るために』
- 22.コリントの信徒への手紙一10章1-13節『終末を生きる信仰』
- 23.コリントの信徒への手紙一10章14-22節『主の杯にあずかる者として』
- 24.コリントの信徒への手紙一10章23節-11章1節『神の栄光のために』
- 25.コリントの信徒への手紙一12章1-11節『聖霊と教会』
- 26.コリントの信徒への手紙一12章12-31節『キリストの体なる教会』
- 27.コリントの信徒への手紙一13章1-7節『愛がなければ』
- 28.コリントの信徒への手紙一13章8-13節『愛は滅びない』
- 29.コリントの信徒への手紙一14章1-25節『愛は教会を建て上げる』
- 30.コリントの信徒への手紙一14章26-40節『共に学び共に励ます』
- 31.コリントの信徒への手紙一15章1-11節『この福音によって救われる』
- 32.コリントの信徒への手紙一15章12-20節『復活、キリスト教信仰の核心』
- 33.コリントの信徒への手紙一15章20-28節『キリストの復活と終末』
- 34.コリントの信徒への手紙一15章29-34節『日々死んでいる者を生かす神』
- 35.コリントの信徒への手紙一15章35-49節『神は、御心のままに』
- 36.コリントの信徒への手紙一15章50-58節『死に勝つ神』
- 37.コリントの信徒への手紙一16章1-4節『エルサレムの信徒のための募金』
- 38.コリントの信徒への手紙一16章5-12節『主が許してくだされば』
- 39.コリントの信徒への手紙一16章13節-24節『結びのことばと挨拶』
- 40.コリントの信徒への手紙二1章3-7節『神の慰めによって』
- 41.コリントの信徒への手紙二1章12-22節『神の真実を誇りに』
- 42.コリントの信徒への手紙二2章14-17節『キリストの香り』
- 43.コリントの信徒への手紙二3章1-3節『キリストの手紙として』
- 44.コリントの信徒への手紙二3章4-18節『主の霊の働きによる』
- 45.コリントの信徒への手紙二4章1-6節『福音の光心に輝いて』
- 46.コリントの信徒への手紙二4章7-15節『この土の器に』
- 47.コリントの信徒への手紙二4章16-18節『日々新たにされる生』
- 48.コリントの信徒への手紙二5章1-10節『終末信仰を生きる』
- 49.コリントの信徒への手紙二5章11-21節『キリストの愛が迫り』
- 50.コリントの信徒への手紙二6章1-10節『神の力によって』
- 51.コリントの信徒への手紙二7章8-12節『御心に適った悲しみ』
- 52.コリントの信徒への手紙二8章1-7節『神の恵みに生きる』
- 53.コリントの信徒への手紙二12章1-10節『弱いときにこそ強い』
- ガラテヤの信徒への手紙講解
- 1.ガラテヤの信徒への手紙1章1-5節『人によってではなく、ただ神によって』
- 2.ガラテヤの信徒への手紙1章4節『キリストとは、どんな救い主』
- 3.ガラテヤの信徒への手紙1章6-10節『福音-キリストの恵みへの招き』
- 4.ガラテヤの信徒への手紙1章11-12節『イエス・キリストの啓示によって』
- 5.ガラテヤの信徒への手紙1章13-17節『神の恵みによって』
- 6.ガラテヤの信徒への手紙1章18-24節『神が讃美される人間の革新』
- 7.ガラテヤの信徒への手紙2章1-14節『神は人を分け隔てせず』
- 8.ガラテヤの信徒への手紙2章11-14節『福音の真理に生きる』
- 9.ガラテヤの信徒への手紙2章15-16節『ただイエス・キリストへの信仰によって』
- 10.ガラテヤの信徒への手紙2章17-19節『神に対して生きるために』
- 11.ガラテヤの信徒への手紙2章19節b-21節『キリストが我が内に生き』
- 12.ガラテヤの信徒への手紙3章1-5節『惑わされない生き方』
- 13.ガラテヤの信徒への手紙3章5-6節『信仰こそ人生の基』
- 14.ガラテヤの信徒への手紙3章15-25節『神の約束と律法』
- 15.ガラテヤの信徒への手紙3章26-29節「キリストにある自由-一致と平等」
- 16.ガラテヤの信徒への手紙4章1-11節『神の子とするために』
- 17.ガラテヤの信徒への手紙4章12-20節『キリストが形づくられるまで』
- 18.ガラテヤの信徒への手紙5章13-15節『自由を得させるために』
- 19.ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節『聖霊の結ぶ実』
- 20.ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節『御霊に導かれる生活』
- 21.ガラテヤの信徒への手紙6章11-18節『新しい創造』