ガラテヤの信徒への手紙講解

4.ガラテヤの信徒への手紙1章11-12節『イエス・キリストの啓示によって』

キリスト教が、世界宗教として、全世界に宣べ伝えられていくことになる、その実際面の働きを考えますと、パウロという人物を抜きにして語ることができません。パウロは、キリストの福音を異邦人の世界に宣べ伝え、福音を広げていくために、神に特別選ばれた器でありました。

1章11-12節の御言葉は、パウロが自分の使徒の権威が何処からきているか、弁明しているところであります。パウロが使徒の権威の由来について語る言葉は、わたしたちの信仰がどのようにして与えられるかを考える上でも、非常に重要な示唆を与えてくれるものであります。

パウロがこの手紙を書いたのは、パウロの使徒の権威を疑い、ガラテヤの信徒たちをほかの福音に導こうとする、教会にとって非常に危険な人たちがあらわれた為です。それは、パウロの使徒権が何処からきているかを知ることが、教会にとって命に関わる重要な問題が含まれていたからです。

パウロの批判者たちが、パウロの権威を否定するために用いた議論は、パウロより上の人間的な権威を持ち出して、その権威を否定するという論法でありました。

パウロは、この批判攻撃を論駁する為、自分の生きた歴史を語っています。パウロは、主イエスとほぼ同時代に生まれ、ほぼ同時代を生きた人です。しかしパウロはイエスの弟子として直接、イエスから教えを受けたことは一度もありません。むしろ、イエスに敵対するものとして生きていいました。それは、13節以下において、パウロ自身が述べていますように、「ユダヤ教徒として」「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心」を覚えて生きた結果です。だからといって主イエスについてパウロがまったく無知であったということはできません。パウロは主イエスを信じるまで、イエスが誰であるか、「ユダヤ教徒として」の目と、「先祖からの伝承」にしたがって見る目をもって見ていました。この視点にたち、イエスをまことの救い主だと信じることができなかったわけであります。

したがって、パウロはこの視点から、イエスを救い主であると宣べ伝えるキリスト教を間違った教えを説くとんでもない人たちの集団であると考えて、そのとき理解していたパウロの真の神信仰のから、そのような「教会を迫害し、滅ぼそうとして」いたのであります。

しかし、このパウロをまったく一新する出来事が起こりました。それは、復活の主イエスとの出会いです。パウロはこの出会いによって、それ以後の人生を、まったく異なった歩みへと転換させられることになりました。パウロは、この復活の主との出会いを通して、1章1節に述べています通り、神を「キリストを死者の中から復活させた父」と認識するようになりました。それゆえ自分が使徒であるのは、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって」であると語るのであります。1節で述べたことを、12節では、自分がガラテヤの人たちに宣べ伝えた福音は「人によるものではない」ことを、強調してパウロは述べているのであります。それは、福音を「イエス・キリストの啓示によって知らされた」ことをパウロは非常に強く語っているのであります。この後の議論では、福音を受けたのは、イエスの弟子であった人たちを通してということが一切なかったということが非常に強調されています。

しかし、福音の知識を、誰もが直接イエス・キリストから啓示を受けるのでなければならないという意味で、パウロは語っているのではありません。そういう直接性を持つことのできない現代のわたしたちにとって、そのような議論は意味を持ちません。パウロは福音を聞く、その教えを受けることにおいて、直接、その権威をもっている人から聞くことが重要であるという意味で、これらの言葉を述べているとするなら、これらの言葉は現代人のわたしたちには無意味な言葉になります。しかし、パウロはそのような意味で論じているのではありません。パウロは、コリントの信徒への手紙15章において、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」と述べていますから、福音を直接受けることが、人の救いにとって不可欠な問題だというようなことを、ここでの議論において述べようとしていないことは明らかです。

パウロは11-12節において、「わたし」という言葉を2度も用いています。だからここでパウロが一番強く言いたいことは、パウロ自身に関わる問題です。その使徒権がいったい誰からくるものであるかという権威の由来の述べている問題であります。「わたしが告げ知らせた福音」といっています「福音」は、パウロがガラテヤの信徒たちに、「パウロによって告げ知らされた福音」のことです。その意味で間違いなく、パウロという人間を介して伝えられた福音です。しかしパウロ自身はその福音を、「人によるものではない」「人から教えられたものでもない」といっています。パウロは、この議論を、福音の受け取り方、知識の直接性は、自分に関しては非常に明白に意識しています。しかし、先ほど指摘したコリントの信徒への手紙第一15章3節との関連でここを読めば、福音の権威に関して言えば、直接的であるか間接的であるかはそれ程重要な意味を持たないとパウロ自身は考えていることは明らかです。

そういう意味で、12節の「わたしはこの福音を…イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」という言葉をパウロがどういう意味で用いているかを知ることがこの箇所の理解にとってとても重要です。

もとになるギリシャ語には、「知らされた」という言葉はありません。だからここは、単に「イエス・キリストの啓示によった」とだけいわれています。パウロは福音を知る、ということを、単に知識の問題としてここで議論しているのではありません。パウロは主イエスと同時代を生きていますし、キリストの教会を迫害することが正しい生き方であると自覚的に信じて生きていたのですから、知識の問題として言うなら、キリストについて、教会についてまったく無知であったということはできません。むしろ知る機会を十分にもっていたでしょうし、キリスト教に無関心であったわけでもないのです。パウロは教会が宣べ伝えている福音を自分の救いの言葉として信じられなかった。それは、「ユダヤ教徒として」のパウロの目から見て、また、「先祖からの伝承を守るに人一倍熱心な」パウロの目から見て、間違った教えであるという核心から、それを信じられなかったというのです。

そのパウロに「福音」を信じさせた出来事は何であったかというと「イエス・キリストの啓示」です。この場合、パウロはイエスの幻を見る幻視体験をしたといっているのではありません。使徒言行録9章には、ダマスコ途上での劇的な回心が復活の主との出会いとして起ったことが記されていますが、パウロはこの手紙ではその出来事については何も言及していません。パウロは「イエス・キリストの啓示による」体験をもって、パウロ自身の信仰を大転換させ、一新させる、内的な信仰の体験を、聖霊による出来事として捉えています。そのことは、3章1-5節において、十字架のキリストを見るのは聖霊の働きによることを明確に述べられていることからも確実です。

つまりパウロは、「イエス・キリストの啓示によって」という言葉において述べようとしているのは、福音というのは、人からでるのではなく、その権威を与えるのも人ではなく、ただ神からだということを言おうとしているのです。その福音が人間の生き方を変革する、一新する驚くべき恵みの力として働いてる事実を、神はわたしという人間において表されたということを、自らの体験を通して証しようとしているのであります。

パウロは2章19節において信仰に生きることは、神に対して生きるために、自分に死ぬことである、と述べています。だから、信仰に生きるために「自分が」「わたしが」という自己主張を人は捨てなければならないことを述べています。しかし、そのことは、自分をまったく自覚できない夢遊病者のようにすることではありません。それは没個性に生きることでもありません。神に生きるために、本当に自分を死なせるということは、自分というものが、本当にどのようにして神に救われたか、自分の信仰は何処にたっているのか、その自分が立っている場所をはっきりと認識できていなければ、自覚的に自分を神の前に否定する、死なせるということはできません。自分がいかに神の恵みによって、本当のあるべき自分にされたか、そのことを自覚しないで、本当に神に対して生きるために自分を死なせることを人はできないのであります。

パウロはそのことを誰よりも強く自覚させられましたので、1章11-12節では、「わたしは」ということを強く言っています。「わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」という場合のパウロにとっての「わたし」は、人の権威により頼む人間としてではなく、神の恵みの力によって生かされている人間としての「わたし」の存在のことを語っているのであります。それは福音にある自由、神の恵みに生かされる自由の問題として語っているのであります。

いまわたしたちは、神のことばを直接主イエスから聞くことはできません。しかし、福音を「イエス・キリストの啓示によって」受けたという、パウロが記す多くの手紙を通して、その福音が述べているは本質が何であるかを、十分に知ることができるようにされているのであります。それが、人によるものではなく、「イエス・キリストの啓示による」と語るパウロの言葉に、むしろ安心させられます。わたしたちは、直接、イエス・キリストの啓示に与ることができなくても、「イエス・キリストの啓示」に与ったパウロが書き記してくれている手紙を今自由に読むことができることによぅて、その「イエス・キリストの啓示による」「福音」にわたしたちも与ることができるからです。

しかしその福音が、現実の歴史の中で、「わたし」という存在が何か、その意味を深く自覚することができた人間を用いて、宣べ伝えられていることの意義は、また大きいのであります。この「わたし」という人間を、神に生きるために、自己を死なせるには、「イエス・キリストの啓示による」福音の前に、自分を立たせる必要があります。そうででないと、自分が罪深き人間で、神の前に生きるに値しない人間であるということが、本当の意味で理解することができないからです。しかしその理解は、神の恵みに生かされる自由、喜びの人としてわたしたちを造り変えるのです。

新約聖書講解