コリントの信徒への手紙講解

53.コリントの信徒への手紙二12章1-10節『弱いときにこそ強い』

Ⅱコリント書の学びは、今日で最後にしたく思います。その理由は、9章のエルサレム教会のための献金の問題は、主題的には8章で既に扱っていて、繰り返しになるので、省いてもよいと考えるからです。そして、10-13章は、Ⅱコリント書簡の他のどの部分にも続かないまとまりとなっています。この部分を学者は、「中間書簡」とか「涙の手紙」といっております。10章から13章の書き方は非情に激しい口調となっています。この部分で、パウロは自らの使徒職について疑い非難中傷する者に向けて、比類のない激しさで弾劾を行っています。パウロに敵対し中傷する者への激しい弾劾の言葉ではじまる10章以下は、今日の教会の状況から考えると、別の機会に学んでも良いと考えるからです。

さて、12章は、「わたしは誇らずにはいられません」という非常に強い言葉ではじまっています。これはいかにもパウロらしくない、表現であるように思われます。しかし、これは、人間パウロの誇りではなく、使徒パウロの誇りが主題となっているのであれば、それを誇りとすることに納得がいきます。

パウロは、最初に、「誇っても無益ですが」と断り、その誇りは、「主が見せてくださった事と啓示してくださった事」と言って、その原因が神の啓示に基づくこと、神にあることを明らかにしているからです。ですから、その誇りの原因を自分に期すことができないことを、パウロは語っているのです。

パウロは「キリストに結ばれていた一人の人」と、三人称で客観的に述べていますが、実はこの体験をしたのはパウロ自身です。しかし、パウロはこれを他人の出来事のように、三人称で語らざるを得なかったのは、使徒の働きにとってこの体験は必ずしも重要ではないからです。パウロが使徒として召されたのは、パウロ自身の体験を語るためではなく、神がなされた救いの御業、キリストの十字架の言葉を宣べ伝えるために召されたからであります。

パウロは、ここで自分の中に二人の人間を区別しています。一人はキリストの中にある霊の人です。もう一人は生まれながらの地上的な肉的な人です。パウロは恩恵と啓示に与った者として霊の人のことを誇ろうと欲し、またそのことができるのですが、パウロ自身そうである地上的な人として、その弱さのほか誇ろうとしません。

霊の人として持つ体験は、忘我的な、エクスタティックな体験でありました。この第三の天にまで引き上げられる、楽園にまで引き上げられる体験が体のままか、体を離れてか、という意味は、終末的な意味で言われています。しかし、パウロはそれがいずれにおいて起こったか知ることの解釈は、人間には許されない、神においてなされる神秘の出来事として、神に委ねています。だから、パウロはこの出来事をそれ以上語ろうとしません。それはパウロだけの特殊な体験であり、人に理解できないので、教会の益にならないからです。パウロは異言の賜物についても同じような態度をとっています。皆の益にならないことを教会の中で語るべきでないと言います。語るとしても、それには解釈する者が必要であると語っています。

パウロは10章17節で語った「誇る者は主を誇れ」という原則のもとに、自分の誇りとなるようなことは語らないのです。そうであるのに、これを語ったのは、高慢にも自分を誇る者に強いられたからです。だから、ここで語る以上のことを語る必要を認めなかったのです。このパウロの体験は事実に基づくものである限り、真実ですから、愚か者にはならないことをパウロは知っていましたが、それを誇る気にはなれなかったのです。6-7節で告げていますように、愚かな人がそのことの故にパウロを人間的に過大評価したり、それを誇りとして自ら思い上がらせる危険性を察知していたからです。

7節において、「あの啓示された事はあまりにも素晴らしい」とパウロは素直に、その霊的体験を語ります。しかし、その後で、「そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」と、語ります。

パウロの身に与えられた刺がなんであったか、はっきりしたことはわかりません。多くの人は病気と見ます。しかし、どんな病気であったかはわかりません。ガラテヤ書4章13-14節において、「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスでもあるかのように、受け入れてくれました」と述べた病気のことであった可能性はあります。また同じガラテヤ書6章17節で「イエスの焼き印を身に受けている」という言葉から、パウロは肉体にイエスの死の苦難を身に負うことを深く実感できる痛み、病を持ちつつ使徒として宣教に携わっていたことが判ります。パウロは、その苦しみの原因を決して神に帰すことはありませんでした。だから、神を呪うようなことを言わず、その原因をサタンから送られた使いに帰しています。これはユダヤ人的な解釈です。病気の原因をサタンの働きとするのは、ヨブの苦難においても語られています。しかし、そのサタンの働きも神の支配の下にあってなされている限り、その病気にも大きな意味が与えられている、これが聖書的なものの見方です。

キリストはゲッセマネの園で、父なる神に「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と三度祈りました。しかし、主イエスは取り去られないことが父の御心であることを知り、「立て、行こう」といって、御心に従われました。パウロも主イエスのゲッセマネの祈りのように、「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました」が、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という主の言葉を聞き、その弱さを受け入れ、自分の誇りとし、満足することを学んだのであります。

これを読んで、実際、毎日死の苦しみを味わっている病人が簡単に納得できるかというと、そんなににわかに納得できる言葉ではないと思います。また、パウロも自分がそうだったからあなたもそう考えるべきだと、義務的にこの言葉を受け入れるように解いているとも思えません。

パウロは「弱さ」それ自体を讃美し、誇りとすべきことを単純に語っているのではありません。パウロはこの苦しみの原因を、自分を撃つサタンのせいだと言っています。だからこの苦しみそのものは決してありがたいものだとはいっていません。だからこそ、三度もそれが取り除かれるようにと祈ったのです。それは非常に自然なことです。私たちも病気の人のことを思い、その刺が取り去られ、苦しみが取り去られることを祈ります。何度も何度も祈ります。本当に祈ることによって癒していただけるなら、気が変になるまで祈ると思います。幾度となく、それが取り除かれるために、涙を流し祈ったという人は数限りなくあるでしょう。パウロはその人々のことを考えていたに違いないでしょう。

ヨハネ福音書5章には、ベトザタの池で主イエスが38年間病気で苦しむ人を癒された物語が記されています。主イエスはその病気の人に向かって、「良くなりたいか」と呼びかけられています。病気を患う人の苦しみがどれほど深いか主イエスは知っておられます。イザヤ書53章がご自分を指し示す預言である受け止め、その成就としての十字架の苦しみを受け入れる祈りがゲッセマネにおける主の祈りです。その苦しみを担って死なねばならない救い主としての祈りです。その苦しみがどれほどのものか知っておられる主の祈りの下に、わたしたちの苦しみは置かれているのであります。

そして、その主の言葉を伝える使徒パウロが同じように病気という刺を体に持ち、三度それが取り去られるようにと祈るほど苦しんで、主の十字架の苦しみがそれに比べられないはるかに重いものであると知って、自分の苦しみもまた主に担われていることを知って、多くの病気に苦しむ人を慰め、励まそうとしてパウロはこの言葉を述べているのであります。彼は病気を知らない伝道者でなかったのであります。彼は論理明晰な神学的議論をのみ好む学者ではなかったのです。自らの痛みを通してキリストの十字架の意味を誰よりも深く味わい知った人間として、キリストの福音を取り次ぎ語る使徒でありました。「わたしの恵みはあなたに十分である」という言葉を、パウロは自らの病気のために三度取り去ってくださるように主に祈っていたのです。そして、パウロはそのような体験を持つ者として、同じ苦しみにある人に聞いてもらいたいという祈りを持って、この言葉を語っているのであります。

パウロに言わせれば、そういう祈りも、また与えられた答えも、実は、「わたしの力は弱いところにこそ完全に現れる」ということを知らなければ、本当に理解できないのであります。恵みが十分あっても、高慢な人間には、その恵みを受け取ることができないのであります。

弱さという場合、それはパウロの弱さ、人間の弱さに違いないのですが、そこに、実は神の弱さがあり、パウロはその神の弱さに与ることができるように、強くされたのではないでしょうか。だからパウロは、Ⅰコリント1:25において、「神の弱さは人よりも強い」といい、その29節で世の無学な者、無力な者、地位なき者が選ばれて救われたのは、「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」と述べているのであります。

Ⅱコリント4章16節以下と12章9節、10節の言葉は、パウロ自身の現実の病気との闘い、苦しみを背景に与えられた信仰の核心から出た言葉であります。キリストがわたしたち人間の弱い肉を取って世に来られたのは、主の力が弱さの中でこそ十分に発揮されるよう、キリストの力がわたしの内に宿り、まさにわたしたちの弱さを引き受けるためであります。病気のために毎日祈って生きねばならない一人一人を思って、パウロは語っているのであります。あなただけではない、このわたしもその苦しみの中でキリストの十字架の苦しみと、復活の力を見ることができた。だから、その弱さ、苦しみを喜んで受け入れることができるのだと、パウロは言うのであります。「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」といいます。キリストの恵みの力は、弱い私たちの中に働いています。弱さの中で強くする恵みの力が、働いています。弱さが賞賛されるのではなく、その弱さがキリストに担われているという光の中で見る信仰の強さ、喜びが語られているのであります。弱さしか見られない人は、そこから立ちあがれません。しかし、その弱さを担い、その弱さの中に宿るキリストの力を見ることのできる信仰には、喜びと誇りが与えられるのであります。

新約聖書講解