コリントの信徒への手紙講解

47.コリントの信徒への手紙二4章16-18節『日々新たにされる生』

この段落は、「だから、わたしたちは落胆しません」という言葉で始まっています。パウロの伝道の働きには、失望、「落胆することの多い」現実があったことを、この言葉は示しています。教会には絶えず問題が起こり、いつも頭を悩まされる現実がありました。

1章8—9節で、アジア州で「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失っていました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」という体験をパウロは語っています。健康面でもパウロは恵まれていたわけでありません。12章7節以下に、自分の体にある「一つのとげ」がなくなるよう三度主に祈ったが、主から、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と告げられたと語っています。

しかし、そのパウロが、「だから、私たちは落胆しません」といっているのはなぜでしょう。「だから」とは、非常に強い確信に満ちた肯定的な言葉です。この「だから」は、14節で、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちを復活させ」てくださると語ったパウロの希望と確信を示す言葉です。この「だから」は、キリストと共にある復活の希望と確信に支えられているという、非常に強い肯定的な言い方です。パウロは使徒としての現在の生に対して「落胆しません」といっています。パウロを落胆させることがないのは、自分の使徒の働き、生きることのすべてが「主イエスを復活させた神」と結びついているからです。自分の現在の罪、苦しみそのすべてを担い十字架に死んで復活されたキリストは現在昇天されて天におられます。パウロは、この天上の復活のキリストと共にあって自分も復活させられるという希望に生きているのです。

この希望に立ってパウロは「外なる人」は衰えていくとしても、と続けています。パウロは、若い健康に恵まれた肉体の疲れを知らない人間ではなく、「土の器」の壊れやすい刺を持つ体、弱さを知る人間でした。肉体の刺を持つパウロが六十に手の届く年齢に達し、使徒として自分の体を惜しみなく使って働くことは想像以上に大変なことです。パウロは自分の体を通して日々肉体の衰えを実感させられて、肉体が衰えるということがどういう事か、身にしみて知っている人間でありました。「『外なる人』は衰えていくとしても」という言葉は、そういう人間の実感から滲み出た言葉です。

パウロは、教会の内なる困難な問題、伝道上の危険、肉体の衰え、こうした途方に暮れる出来事をいっぱい経験しても、「落胆しません」と強く言いきることができたのは、「内なる人」は日々新たにされるという「並外れて偉大な力」が働いている現実を信仰の目で見ていたからです。

「外なる人」は、朽ち衰え過ぎ去っていく、古い世に属する人間性です。しかし、この「外なる人」をもつ同じ人間が「内なる人」を持っています。5章17節によれば、「内なる人」は、キリストに結ばれ、キリストによって新しく創造された新しき人です。イエスの霊によって、新しくキリストから出た人です。この新しい人としての「内なる人」は、今すでに復活の命と、来るべき世に属しています。

「外なる人」の朽ち衰える体をパウロは毎日実感し、その体を通して過ぎ去る世の現実を日々実感させられていました。しかし、朽ち衰える「外なる人」としての「土の器」には、「宝」が納められていて、「内なる人」には、神から出た「並外れて偉大な力」が日々新たに働いています。それは、「主イエスを復活させた神」の力です。その神が「イエスと共にわたしたちを復活させ」る力を日々働かせておられるから、「内なる人」は日々新たにされることができるのです。

「外なる人」は「衰えていく」と言われていますが、滅びるわけではありません。Ⅰコリント15:42では、「朽ちるもの」といわれています。キリスト者の「外なる人」は、衰え朽ちる性質を持つにしても、「滅びるもの」ではありません。弱さ、衰え、脆さ、朽ちる性質は、それ自体滅びを意味するものではありません。

そこに現れるのは、「一時の軽い艱難」(17節)であるといわれています。その艱難は、永遠に続く失望落胆させる出来事ではなく、それは、「一時」のことであり、過ぎ去るものであり、決して重いものではなく、「軽い艱難」でしかない、と言われているのです。だからといって、パウロの受けた艱難が軽いものであったわけでありません。「耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失う」(1:8)ほどのものでありました。

パウロはその艱難の問題を「内なる人」の目、復活を信じる信仰の目で見ていたのです。その艱難を「重みのある永遠の栄光」と比べたら、「一時」のもので「軽い」といいます。「重みのある永遠の栄光は」、直訳すると「永遠の重い栄光」です。ヘブル語では、「重い」も「栄光」も、どちらもカーボードという語です。カーボードには、「威厳」という意味もあります。神の栄光は重く、重量感があって価値が高く、威厳に満ちているのです。

パウロは、既に自分の内なる人が溢れ持っている永遠の重い栄光に比べれば、今耐えねばならない艱難は、「一時」のもので「軽い」というのです。この「一時」で「軽い」艱難が「永遠の重い栄光」を得させる、といっています。キリスト者が味わう苦難は栄光と必然的に結びつきます。だからといって、苦難が多いことが報いとして多くの栄光が与えられるとは限りません。

苦難それ自体に価値があるのでありません。わたしたちは、苦難を信仰的に見ることを失敗しますと、途方に暮れて失望落胆してしまいます。苦難の意味を信仰の目で見ることができないと、「何故神は、こんな厳しくて重い苦難を負わせるのだろうか」と呟きたくなりますし、「重くて負いきれません」といって、途方に暮れ落胆するほかありません。

「耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失う」苦難の体験をも、「一時の軽い艱難」といえるのは、「永遠に存続する」ものを内なる人が見ているからです。人間の目には見えないけれども、信仰の目で見ることのできる永遠のものに目を注いでいるからです。

パウロにおいて永遠に存続するものとは、復活の命と同じです。それは、キリストとともにあることと同じです(14節)。私たちは復活の体が持つ、不朽の性質、永遠性というのを知りません。現実にそれを目で見て確かめたものでありません。キリストは復活し今天におられるということが、目に見えない原因でもあります。18節で「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」とパウロが言っているのは、このためです。

わたしたちの目で見えるのは、「外なる人」が日々衰えていくという現実です。この世における人間存在の弱さ儚さ脆さです。それと結びつく生の過ぎ去る姿です。これしか目に入らず、ここにだけに目を奪われている人間の行き着くところは、失望と落胆でしかありません。

しかし、パウロが「わたしたちは落胆しません」と確信を持って強く言い切れるのは、見えない永遠に存続するキリストの復活の命が「内なる人」として、今すでにこのわたしの生の中で生きて働いているという現実を見ているからです。パウロはそういう目、視力を与えられていますので、耐え切れない圧迫、生きる望みさえ失うような苦難にあっても、失望落胆しないと言えるのです。

それを「一時の軽い艱難」といえる。しかもそれが「永遠の重い栄光」をもたらしてくれるとさえ言える。何故そう言えるか、パウロは艱難が死や滅びではなく、栄光をもたらせるのは、その艱難を欠いては、キリストとの交わりの完成はありえないと考えていたからです。それは、11節のパウロの言葉を見ればわかります。イエスのためにこの身において死に、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れる、パウロはそう信じていたのです。

苦難とは来るべきものの現在の姿を現すものです。キリストの十字架の苦難は、それで終わりではありませんでした。その後に復活がありました。キリストの復活は、十字架の苦難が終わり過ぎ去るものであることを明らかにする出来事でありました。同じようにキリスト者のこの世の苦難は、その命がキリストの命と結びついていますから、キリストの十字架と共に、過ぎ去る一時的なもの、軽い、とパウロは言うのです。それは、現在どれほど長く重いものと思われても、キリストから与えられる復活の命に比べれば、一時的で過ぎ去るものであり軽いのです。現在、キリストと結びついている、その交わりの中で味わう苦しみは、栄光をもたらし、その死も永遠の命をもたらします。

キリストとの交わりのうちにある苦難も死も一時的です。それで終わらず、永遠に存続する生命をもたらします。そして、その永遠の生命はキリストの復活である限り、霊の朽ちない体を含むものです。それは、衰え行く体に取って代わりますが、地上の人間全体の終わりではありません。「日々新たにされる」完成としての永遠の栄光への移行です。

Ⅰコリント6:13以下、15:44以下の御言葉の光に照らせば、その労苦・戦いが勝利に終わることは明らかです。神によってその体が変えられ完成させられます。その目に見えない未来のことを、わたしたちは、信仰においてのみ知ることができます。だから、わたしたちは、外なる人の体を軽視した生き方をせず、大事にします。衰えることに落胆することもないのです。信仰の目で日々新たにされている現実、復活の力の威力を知っているからです。

新約聖書講解