コリントの信徒への手紙講解

45.コリントの信徒への手紙二4章1-6節『福音の光心に輝いて』

パウロは、福音宣教の業が常によき実を結ばない現実を知っていました。けれども、「落胆しません」といっています。大切なのは、福音宣教の実りの大きさではなく、如何に主の召しに応え、委ねられたつとめに忠実であることであると自覚していたからです。2節の「卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず」という三つの否定語は、パウロに敵対する人々を意識した言葉です。

教会を破壊していくのは、こうした人間の行動です。自分はそうした態度や行動はとらないのだという決意、その姿勢を保つことが大切です。

御言葉を語る者に大切なことは、「真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心に委ね」ることであると、パウロは述べています。陰でなされる卑劣な非難や中傷、悪賢さに翻弄されて、御言葉を語る者が「神の言葉を曲げる」ようなことになれば、教会は破壊されていきます。

教会が教会であるためには、御言葉の真理をあますところなく語り伝える御言葉の役者が必要です。第二スイス信条は、「神の言葉の説教は神の言葉である」と大胆に言っています。教会で御言葉の真理が語られず、聞かれなくなったら、それは、どんなに立派な施設があっても、教会ではない。反対に、建物もないような教会であっても、そこで御言葉が語られ、聞かれるなら、そこは間違いなく神の教会であるということができます。

説教者は、福音の「真理を明らかにする」者でなければならない、という使徒パウロの強い信仰がここにあります。人は福音によって救われます。人は福音の内容である、イエス・キリストに心を向け、明け渡すことによって救われます。その真理を語る説教者がいないと、それは不可能です。

では、御言葉を語る者の責任は誰に対して負わされているのでしょうか。パウロは、福音の真理を明らかにするその行為は、「神の御前で」なされるといっています。もちろん、福音は人に向かって語られねばならないのです。使徒はそのために立てられたつとめです。しかし、その言葉の真実は、人の前で問われるのではなく、「神の御前で」問われます。わたしたちの心の中までも探り極める神の御前でその責任が問われるのです。

説教者を召し出したのは神です。それならば、説教者がもし真理を語らず、神の言葉を曲げたなら、それを裁くのは、聴衆ではなく、神です。それは、如何なる意味でも説教に批判が加えられてはならないということではありません。その審きを究極においてなすものが誰であるかという問題を述べているのです。御言葉を語るものの祝福が二倍あるなら、それを曲げる者に与えられる呪いも、人の倍与えられます。パウロはガラテヤ書1章8節で、「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」と、非常に激しい口調で糾弾しています。

パウロは「神の御前で自分自身をすべての人の良心に委ねます」といって、その御言葉の真理性について、「自分自身をすべての人に委ね」ばならないことを明らかにしています。しかし、この場合、良心が問われるのは、これを聞く「すべての人」です。福音は、その生ける力により、これを聞く者の良心に働きかけます。福音は神の言葉であり、神の意志そのものです。福音において提供されているのは、わたしたち人間に向けられた神の意志です。福音は、生ける神の言葉であり、意志でありますから、それが語られたなら、わたしたちの良心に働きかけ、激しく良心を揺さ振ります。福音はその様に生きて働く神の力です。福音が語られると、わたしたちは、好むと好まざるとに関わらず、「神の前」に引き出され、その「良心」を問われることになります。誰も、福音の真理の前でその良心を曖昧にすることがゆるされません。

パウロがここで、「真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心に委ねます」という時、使徒と一体となった福音の働きを抜きにして語っていないことは明らかです。

だからパウロは、「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです」と、その良心に向かって訴えかけています。しかし、このパウロの言葉は、福音を覆い隠そうとする人間の心の盲目性を明らかにしています。神の真理に対して閉ざされた心は、キリストに心を向けることによって取り除かれます。パウロは3章14-16節においてそう語っています。しかし、キリストに向かわない限り、わたしたちの心がその盲目の状態から自由にされません。心が福音に対して盲目のままでは、滅びの道をたどるほかありません。

わたしたちの心を福音から閉ざし、盲目にさせているのは、「この世の神」だ、と4節で言われています。「この世の神」とは、わたしたちの心を支配し、福音において表されている神の栄光、キリストの栄光を見ないように妨げるものすべてです。

この世に生きる人間が、「この世の神」に支配されている現実をパウロは知っています。たとえその支配は、神の勝利によって終わるものであっても、「この世の神」が限られた期間だけ現実に支配することがあることを、パウロは決して小さなこととは見ていません。

わたしたち日本人には、「世間」とか「世」という神格化された力が、まさしく「この世の神」として、キリストの栄光を見る目を曇らせています。「この世の神」は、「神の似姿であるキリストの栄光、福音の光が見えないように」、「人々の心の目をくらます」働きをします。

「この世の神」の力は、キリストを信じないように未信者だけに働いているのでありません。日本のクリスチャンは、「この世の神」の力にしばしば負かされています。「世」の目をはばかりながら、キリストの福音の力に委ねきれない信仰の歩みがいつまでも続く、「世」というものが前面に立ちはだかると、「神の言葉を曲げ」て生きることになります。しかし、その歩みには、祝福、平安はありません。

わたしたちに与えられているのは、「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」です。キリストは神の栄光を映し出し、世を照らす真の光で、神の似姿です。キリストは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)といわれます。キリストは神を啓示するお方です。神の栄光はキリストによって輝き出ているのであります。

神の似姿であるキリストは、わたしたちの滅ぶべき肉体を取り、その弱い人間性で栄光を現わされます。御子ご自身は、律法の下にいない神であられるのに、わたしたちを罪から救うために、人間性を取り律法の下にたち、人間として神にまったき従順を示し、わたしたちの受けるべき神の呪いの審判である十字架の刑罰を受け、わたしたちの受けるべき死の審きを受けてくださいました。神はこの御子の犠牲の死を通してご自身の栄光を現されたのです。キリストは、この僕の姿において神の栄光を現されたのです。「神の似姿であるキリストの栄光」は、十字架の受難を引き受ける僕の姿で現されたのであります。それがわたしたちの救いとなり、福音の光としてわたしたちに与えられているのです。

パウロは3章18節において、「わたしたちは皆、…主と同じ姿に造りかえられていきます」といっております。それが、ここ4章6節で、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださ」る神の第二の創造の業として語っています。天地創造において、暗闇の中から、「光よあれ」といわれた神が、「わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださ」るのです。そして、わたしたちの心の目を開き、神の真理を悟る心の目を与えてくださるのです。

その心が見たもの、その心が示す生き様とは何でしょうか。使徒パウロの生き様は、6節に語られています。自分を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えることである、といっています。自分自身は、イエスのために教会に仕える僕、奴隷だといっています。それは、「キリストの御顔に輝く神の栄光」を与えられている者にふさわしい生き方であるとパウロは言いたいのです。キリストは自らを仕える者となし、自らを犠牲として奉げた救い主であります。

使徒がこのキリストの栄光輝く福音を宣べ伝えるということは、キリストと「同じ姿に造りかえられた」者として、教会の主人ではなく、奴隷として仕えていくことである、そこに使徒の栄光があるとパウロは言っているのであります。

イエスを主とする者は、主の教会に仕えるものとなるのです。パウロは、そのことを私たちに語ってくれているのです。キリスト者は福音の光が心に輝く者にされています。福音の光が心に輝く者の、教会に仕える歩みには、いつも喜びがあります。福音の光輝くキリストを宣べ伝えているので、その福音宣教の結果に「落胆」することがありません。「この世の神」に目をくらませられない、神に仕える自由と喜びが与えられているからであります。

新約聖書講解