コリントの信徒への手紙講解

43.コリントの信徒への手紙二3章1-3節『キリストの手紙として』

この御言葉は、「推薦状」問題をきっかけにして、宣教の言葉が、人の権威によるものか、それとも神の権威によるものかを問いつつ、パウロの宣教に与ったコリントの信徒たちがどのような存在とされているかを明らかにしています。キリストの手紙として扱われているコリント信徒の問題を、私たちに与えられている光栄がどれほど素晴らしいものであるかを理解することが、この御言葉を聞く上での重要なポイントであります。

パウロは先ず、「それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか」(1節)と言って「推薦状」問題に取り上げています。「ある人々」とは、パウロに対立する人々にことです。この人たちは、パウロとは何の関係もなくコリントにやってきた伝道者たちでした。彼らは権威ある優れた推薦状を携えてきて、自分たちの立場を有利にして、その権威を背景にしてパウロの御言葉の権威を疑わせるようなことを吹聴したり、パウロの説いた福音と異なる「さまざまな教え」を説き、コリントの信徒たちをパウロから引き離そうとしていました。そして、コリントの信徒たちの中には、パウロが推薦状を持たないという「うわべのことだけ見て」(10:7)、不平を言って、これに同調する者も現れました。

10章12節以下で、パウロは、「推薦状」の問題についての自らの立場を次のように明らかにします。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。(12)…「誇る者は主を誇れ。」(17)自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです(18)」と、論じています。

そのパウロが、ここで「それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか」と問い掛けている、この問いかけが重要です。パウロに敵対する人たちは、権威ある優れた推薦状を楯にして、自己推薦し、仲間同士を評価し合い、己を誇っていたのです。彼らはそこで自分の立場を有利にするだけでなく、次の旅行のために今度はコリントの教会から推薦状を求めようとしたようです。パウロは11章13節で、「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです」といって、断罪しています。

パウロが見ている「推薦状」問題の本質は何でしょう。パウロの敵対者は、それをもとに自己推薦したり、仲間を評価したり、己を誇ることをしていたのです。推薦状は「人間の権威」を問題にするときに用いられ、そこに重点が置かれています。パウロはこのような権威を尊ぶ人の間にあって、「推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか」と問い、「必要ない」とします。人々が人の権威に依りかかって、神の言葉を取り次ぐ権威を主張し、自己推薦する風潮にあって、パウロはこれをきっぱりと拒否しています。「推薦状」は見知らぬところに旅をするときやビジネスにおもむくときの重要なものであって、当時のキリスト教会においても一般的に用いられていたといわれます。

パウロ自身は、自分の推薦状の必要性を認めていませんが、パウロ自身も幾人かの人たちを推薦しています。たとえばフィレモンへの手紙はオネシモのための「推薦状」であります。ローマの信徒への手紙の16章では、ケンクレアイの教会の執事フェベを推薦しています。また、Ⅰコリントではテモテを、この手紙の8章ではテトスが紹介されています。このようにパウロは「推薦状」の意義を否定しているのではありません。

しかし、その推薦状がその者の説く神の言葉の権威を高め、保証するものとする魔術的な評価と結び付ける考えに対して、きっぱりと拒否します。御言葉の権威、福音の権威、パウロの使徒の権威、それらを与えるのは、人間の推薦状ではない、とパウロは言います。人間が「神の言葉の権威」を保証することも、それを説く者の権威を保証することもできない、とパウロは言うのです。

では、使徒であることの権威と証明は何によって確かめられるのか、という疑問がこの手紙を読む者に当然残ります。パウロはこれに対してどう答えているか大変興味があります。

2節で、「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」とパウロは答えています。原文を忠実に訳すと、「あなたがたはわたしたちの手紙である」となります。そして、3節において、「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています」と述べています。推薦状問題でパウロの使徒性に疑問を抱くコリントの信徒に向かって、「あなたがたはわたしたちの手紙である」といって、あなたがたこそわたしが示したい推薦の手紙である、と述べているのです。その意味では、新共同訳の「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」という訳は、パウロの真意を伝えたとても良い翻訳になっています。パウロは、コリントの信徒たちのことを、主の使徒としてのパウロの働きの実として、彼らがいつまでも主にある者として生きていることが、パウロ自身の「使徒職のしるし」であると見ているのです。

パウロがここでコリントの教会の信徒たちのことを、「わたしたちの手紙」あるいは、「キリストの手紙」として語っていることに、特別な注意を払う必要があります。コリント教会はどういう教会であったかというと、パウロは幾度となく手紙を書かねばならなかったほど、次々と問題を起こす教会でありました。分派争い、性道徳に関する問題、結婚問題、偶像への供え物の問題、聖餐式の問題、復活の理解に関する問題、権威主義に対する問題、等々、本当に次から次へと問題を起こす人間的な考えに支配されやすい教会でありました。

パウロは、ある意味でどうしょうもない、しかし、いつの時代にも存在する現実の教会が直面するありのままの姿を見ているのかもしれません。教会は、主の御名によって集まり、その権威の下にひれ伏し、一致を保っていく集団です。しかし、現実には「人間的な権威」が尊ばれ、そうしたもので動かそうとする人間が現れやすい集団でもあります。

パウロはそれにもかかわらず、「あなたがたはわたしたちの手紙である」といい、「あなたがたはキリストの手紙だ」と言うのです。パウロがコリントの信徒たちを「キリストの手紙」とみなす時、そう呼ばれるにふさわしい完全な姿を予想していっているのではありません。そこには欠け多き人間くさい信仰の現実があります。それにもかかわらず、その現実がキリストにおいて「受け入れられている」、そうした現実もキリストにおいて「変えられている」ことをパウロは見ているのです。

キリストはコリント教会に見られるような破れに満ちた教会を「受け入れ」、その群れを十字架の下なる教会として、救いの対象とされ、その支配の下においておられます。言い換えれば、人は神の恵みによってのみ救われるということが、コリントという破れに満ちた教会の現実の姿を通して表されることが、「キリストの手紙」という言葉において表されている意味ではないでしょうか。そのような罪と汚れに満ちている教会がもし救われるとしたら、キリストが受け入れておられるという、恵みの支配を抜きにして考えられません。パウロはこの教会にもキリストにある恵みの支配を見、確かにそこに働いている果実を知っていましたので、コリント教会を「キリストの手紙」として推薦することができたのです。

そして、「それは、わたしたちの心に書かれており」(2節)とパウロは述べています。「わたしたちの心」と大半の写本はなっていますが、「あなたがたの心」と読み替えている写本もあります。前後の文脈からすると「わたしたちの心」より「あなたがたの心」の方が良いように思います。「心」を表すギリシャ語、「カルディア」は、「人間の中心的器官としての心臓」を表しますが、ヘブル語の「ラーベ」は、「人間の最も深い内部」を意味します。いずれにせよ、心は神の顧みたもう人間の中心であり、信仰生活を基礎づけ、行動のほとばしり出るところを意味しています。

パウロはこれをエレミヤ書31章33節の預言との関連で、述べていることは明らかです。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」、と告げるエレミヤ書31章33節から、古い契約はモーセに「石の板」に書かされた律法であったが、新しい契約は、生ける神の霊によって人間の「心の板」に記されるものであるという理解を与えられたことを明らかにしているのであります。

パウロはここで微妙に主題をずらして語っています。人の手で書かれた「推薦状」の問題を、古い契約の問題になぞらえ、文字で石の板に書かれた「律法」として置き換えています。そして、「推薦状」が使徒の権威を与えるものでないように、古い契約である律法が人を罪に定める働きをすることがあっても、それによって人を罪から救うことがない現実へと目を向けさせています。

パウロが問題にしているのは単なる「推薦状」問題ではないことがこれによって分かります。人を本当に救うのは、わたしたちの心が「キリストの手紙」として生ける神の霊によって刻まれることによるということです。具体的には、人がキリストの福音に与り、神の霊が働いてその心に刻み込まれる、という恵みに与ることによるということです。パウロが真実の使徒であるかどうか、それは、その語られた言葉が神から来た言葉であり、真実な福音であるなら、あなたがたの心が生ける神の霊の働きによってキリストの手紙として刻み込まれ、永遠の命の息吹によって、その内奥から新しい人に造り変えられるという事実に与ることによってはじめて確かめられる問題である、とパウロは述べているのであります。

そうすることによって、彼らが「キリストの手紙として」、「すべての人々から知られ、読まれています」というのです。現実の教会に神の福音を本当に識別できる信徒がわずかの人数しかいないかもしれません。しかし、生ける神の霊の働きによって、神の福音は守られ、語られ、聞かれるように導かれ、信仰者の心の奥深く刻み込まれていきます。それは、ただ神の恵みの働きによります。神の恵みによって、教会は「キリストの手紙として」、「すべての人から知られ、読まれる」存在となる、とパウロは言うのであります。

パウロは現在の教会が、「キリストの手紙」と呼ばれるに値する立派な完全な姿であるゆえに、「すべての人々から知られ、読まれる」存在であると語っているのではありません。教会が「キリストの手紙」としての存在となるのは、見えない、生ける神の霊の働きによって心の奥に刻まれる働きによります。現実の教会が多くの弱さ、欠けを持つにもかかわらず、教会が「キリストの手紙として」世に証し、「すべての人々から知られ、読まれている」存在であり続けることができるのは、キリストご自身が、その弱さを担い、その弱さの中に、生ける神の霊によって、人の心にご自身の救いの力を刻み込まれるからにほかなりません。

福音の使者が語る神の言葉が、この生ける神の霊に支えられ、聞く私たちの内に働き、心に刻み込まれて、「キリストの手紙として」、わたしたちを永遠に生かす働きをしている神の恵みの力にこそ、わたしたちは目を留めるべきです。教会はどんなに貧しく、罪深くとも、生ける神の霊の働きによって、キリストの救いの恵みが刻み込まれ、神の恵みによって生かされている集団として、「キリストの手紙として」神に受け入れられているのです。その様な手紙として、「すべての人々に知られ、読まれる」限り、わたしたちは弱さをもつにもかかわらず、宣教の教会として世に証しすることができるのです。

新約聖書講解