コリントの信徒への手紙講解

38.コリントの信徒への手紙一16章5-12節『主が許してくだされば』

ここでは教会の働き、役務のことが問題になっています。前回同様、今回もキャンベル・モルガンの注解を基にして、以下に講解をします。

パウロは、ここで一人の働き人としてあらわれています。5‐7節のパウロの言葉に対し、モルガンは、彼の不確定な旅行計画に引き付けられます。「この点にわれわれは多くの慰めを見出す。輝かしい不確定である。われわれは実に計画が好きだ。計画というもののわずらわしさを脱却するのに幾年もかかり、苦心して作り上げた計画を維持することが、わたしにはできないことが、判った。聖霊が大きい目的のために小さい計画を崩してしまうことが分かった」と言います。ある事柄には確信を持っていましたが、ここではパウロの計画は全く不確定でありました。マケドニア経由でコリントに向かう伝道旅行は、コリントに「滞在すること」、そこで「冬を越すかもしれないこと」、「次にどこ向かうか」、このすべては不確定でした。パウロが望んだのは、どこへ向かうにしても、「あなた方から送り出してほしい」という教会の働きに関する関係性を保つことです。パウロ自身は,「旅のついでにあなた方にあうようなことはしたくない」という教会の働き、役務への強い意識をもって、旅行計画を述べています。その意味で、どこへ行くか、すべての道がパウロの前に開かれていたのであります。そのすべての計画をパウロは不確定のままにしていたのです。

しかし、「主が許してくだされば」(7節)には、少しも不確定さがありません。この言葉がすべてを限定する。「どこへ出かけるか」(6節)パウロは知らなかったのです。しかし一つ、決定的なこと、権威的なこと、確実なことがありました。それはパウロが主の命令の下にあるということでありました。「主が許してくだされば」。これは既定計画というものを持っていなかった使徒の素晴らしい描写である、とモルガンは言います。

「主が許してくだされば(エピトレポー)」、これは注目すべき語であります。その意味は、もしも主が覆したもうなら、そのご指示に従う、というのであります。これが主の権威の下に置かれている働き人としてのパウロの姿でありました。そこにはあらゆる可能性がありました。マケドニア、コリント、「どこに出かけるにしろ」、―これがパウロの標語であって、ここに滞留するか、そこに滞留するか、自分では知らず、ただ一つ、自分の全生涯が主の権威の下にあるということだけを知っていました。これが主の教会のために働くパウロの姿でありました。15章58節の「こういうわけですから(だから)、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」、という言葉を、パウロはここでコリントの人々への彼自身の教えを、身をもって遂行していたのであります。「いつも全力を注いで」、マケドニアであろうと、コリントであろうと、主のお許しがあればどこへでも行き、いつも全力を注ぐことを示すもので、それは不滅の原理である、とモルガンは言います。

しかし現在のところ、自分が全く動けないことをパウロは確信していました。これが8節で、「しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。」とパウロがコリントの人たちに告げている事柄であります。実際、パウロはエフェソに3年とどまっていました。

パウロはその理由を、「わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです」(9節)、と述べています。

パウロは、「大きな門が開かれている」という確信から、「反対者(エフェソ)」の問題を見ています。エフェソは当時世界最大都市のひとつであり、ダイアナあるいはアルテミスという大女神の神殿があり、この神殿は世界の脅威の一つでありました。この異教の大都市の生活全体が、この神殿を中心として成り立っていました。そこには商人たちの銀行があり、ここでイオニア諸国家の連邦が立法上の権能をもって会合していました。エフェソの生活全体がこの神殿の周りに回転していました。そしてこの都市生活にとって重要なすべての事情と矛盾する神の教会が、ここにあった重大さをパウロは認めていました。それをパウロは、開かれた「大きな門」(9節)と言っているのであります。それは、彼はまだ進んでいくことができず、エフェソに滞在しなければならなかった第一の理由であります。「動かされないようにしっかり立ち」(15:58)、開かれた「大きな門」の前にパウロは立っていたのであります。そして、「主の業」)(15:58)を務めつつあったのです。第二の理由は、「反対者もたくさんいる」、ということです。これでパウロの「動かされず」(15:58)という句が生きてきます。「しっかり立ち」、わたしはこの地に留まらなければならない。「大きな門が開かれている」からである。「動かされず」、どんな反対者もわたしの道を曲げることはできない。ここに滞在しなければならない。門は広々と開かれている。機会は絶好である。そしてさらに、悪の勢力がパウロの主と福音に逆らって群れをなしている。これが、あなたがその場所にいる一大理由であることを忘れるな。敵対者がいなければ出て行って、敵対者のいる場所を見つけるがよい。われわれに敵対する勢力を知らないならば、キリスト教の伝道は大したことはない、とモルガンは言います。パウロのここでの判断はそういうものであったと解するのです。

パウロは、10-11節でテモテのことに言及しています。テモテについては、4章17節で、「テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう」、と述べています。パウロは、テモテを「わたしの愛する子で、主において忠実(真実)な者」と呼んでいます。このテモテをどう迎えるべきか。「テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです。だれも彼をないがしろにしてはならない。」(10-11節)と述べ、テモテをコリントの信徒たちに委託したのであります。パウロは、Ⅰテモテ4章12節では、「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい」、と述べています。その言葉が語られた時のテモテの実年齢は40歳を超えていたと考えられます。

パウロはコリントの信徒たちに決してテモテを「ないがしろにしてはならない(軽んじてはならない)」と手紙に書いたのです。コリントの信徒たちは決して無学な人たちではありませんでした。しかし、「わたしがもう一度あなた方のところへ行くようなことはないと見て、高ぶっているものがいる」(4:18)現実を知ったうえで、「だれも彼をないがしろにしてはならない」(11節)、とパウロは述べているのです。テモテは、「わたしと同様、彼は主の仕事をしている」(10節)と述べ、パウロは、神の働き人と使者に対して教会がとるべき正しい態度を示しているのであります。これがキリストの教会の交わりの在り方をしめすものであります。パウロは自分がこの交わりの中にあるといいます。テモテも神の働き人の一人です。パウロは、このテモテをコリント教会に、同労者として推薦するのであります。

12節はアポロのために費やされています。この節には実に多くのことが含まれています。アポロについてはここでは実に簡単に触れられるだけですが、それはコリント教会の中にある分派争いのこととは全然関係がありません。パウロはアポロに、「兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう」、とさりげなく語っていますが、これはパウロとアポロの関係の悪さを物語るものでありません。注目すべきは、アポロのことを「兄弟」とパウロが呼んでいることです。主の教会の働き人、同労者としての「兄弟アポロ」に対するパウロのゆるぎない信頼がこの一語で表されているのであります。

この事例は主の業における教会の交わりの実例であります。パウロはこの事例を通して、コリント教会が主の教会の交わりとして一つにされていること、主の兄弟とされている同労者への愛を忘れないことの大切さを教えているのであります。

新約聖書講解