コリントの信徒への手紙講解

29.コリントの信徒への手紙一14章1-25節『愛は教会を建て上げる』

パウロは12-14章にかけて、「霊的な賜物」について論じています。それは、コリント教会に見られる霊的熱狂主義による賜物の間違った理解と用い方が、教会を混乱させ分裂の危機をもたらしていたからです。霊的熱狂主義者が特に好み自慢した賜物は、「知識」と「異言」です。パウロは12章において、賜物は人ではなく、どこまでも聖霊に由来し、全体の益のために与えられていることを明らかにしました。聖霊は「イエスは主である」(12:3)という信仰を生む働きをし、賜物によって一つのキリストの体なる教会となるよう整える働きをしておられます。神は人間の目に弱く見える部分を必要とし、一人一人のどの賜物も必要とし、その意義を与えておられる、ということを明らかにしています。賜物の起源が神であるゆえに、それぞれ等しい価値があるとパウロは語りました。

そして、13章において、全ての賜物の越える「最高の道」としての愛について語りました。この愛は人間が自由にできる何かではなく、終末的な救いをもたらす不滅のものであり、すべてを完全にするものであり、神の本質、神と同義のものとして語っています。13章4-7節に示されている愛の本質は、十字架の道を歩まれたイエス・キリストを指し示しています。この愛は罪人を救うためにご自身を無にし、最後まで神を信じ、十字架の苦しみを受けられたキリストからのみ理解しうるものであることを、前回学びました。教会はキリストの愛を大切にして生きるのです。キリストの愛とは、十字架と復活において完全に表されています。そして、わたしたちは、キリストの十字架と復活において、神に「はっきりと知られている」ことを、信仰において知るものとされている。信仰において神にはっきりと知られていることを、覚えることが大切であることをお話しました。

キリストの十字架と復活において、わたしたちは神の愛を「はっきり知る」ことなく、また、その愛の内に生きる喜びを知らないなら、どのような賜物が与えられていても、すべて空しいとパウロはいっているのであります。神の賜物の中で永遠に存続するのは信仰、希望、愛。信仰と希望は永遠の神とその愛に永遠に与るものであるゆえに、永遠に存続するものとして私たちの側に与えられています。愛は神そのものであるゆえに永遠、最高であります。しかし、異言も預言も知識も終末に至る「そのとき」までの暫定的・部分的なものとして「滅びる」ものでしかない、これが13章においてパウロが語っていることです。

だから、「愛を追い求めなさい」とパウロは14章においても繰り返し語っています。そして、ここではじめて、「霊的な賜物」の間の優劣を語っています。最初に、コリントの霊的熱狂主義に「知識」と「異言」の問題があったということを申し上げましたが、ここでパウロは「異言」と「預言」を取り上げ、預言の賜物を熱心に求めなさいと命じ、如何に「預言」の賜物が、「異言」の賜物よりも勝っているかを論じています。なぜ、預言が異言にまさるか、その理由は、一言で「預言は教会を造り上げる」からであるといわれています。「造り上げる」は、ギリシャ語では「オイコドメー」です。パウロはこの語を教会と常に結びつけて用いています。

パウロはここで賜物の優劣を論じていますが、それは賜物自体の価値の優劣ではなく、「教会を建て上げる」という働きという点で、「異言」が「預言」よりも劣ると言っているだけです。パウロは「異言」の賜物を否定し、無意味であるといっているのでありません。

「異言」の特徴は、2,14節において、神に向かう祈りであることをパウロは明らかにしています。その賜物は個人の「信仰の形成」に有益でありますが、個別的な特殊な賜物であるため、それを解釈するものがいない限り、教会の中で共有できない賜物です。しかし、解釈する者がいるなら、この賜物のも「教会を建て上げる」ことが可能となるので、パウロは13節で、「異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい」と命じています。

しかし、異言はそれ自体人に向かうものではなく、神に向かうものであり、神秘を語るものとして(2節)、他の人が聴く時、それを「外国人」(11節)の言葉のように思え、少しも理解できない言葉として留まるといっています。異言の特徴の一つとして、忘我的な恍惚状態というのがあるという指摘もあります。だから、「教会に来て間もない人」や「信者でない人」には、全然理解できず、その人がたとえ感謝の祈りを神に向かって唱えていても、「アーメン」ということはできません。異言ばかり教会で語られることになれば、信仰を起こさせないばかりか、教会は「気が変」な人の集まりと誤解され、「教会に来て間もない人」や「信者でない人」は躓きを覚えて、教会から遠ざかることになり、結果として伝道の妨げとなります。

この忘我的・恍惚状態と対極にあるのが「理性的」な状態です。だからパウロは、19節において、「わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」といっています。教会は一つのキリストの体を形成する共同体ですから、皆が理解できる賜物が重んじられる必要があるということになってきます。言葉は基本的に人に「意思」を伝えるコミュニケーションの手段です。共同体全体にとって、その言葉は伝わってこそ意味を持つわけです。この場合の意思とは、キリストの意思であり、神の愛です。それがどういうものであるか「他の人に教える」、その手段が未信者の人と共有している理性による言葉が必要だといっているのであります。ここで教会的な愛の探求の問題は、神の愛を受け手である人の言語に翻訳して伝える問題として捉え直されています。どのようにして神の愛を、あの最高の道を共有できるかという風に心が動かされているのです。

パウロは「異言」が理性におとるとか、理性こそ重んじられるべきものと言っているのでありません。パウロ自身、異言の賜物をもっていましたし、異言は個人の信仰を高める上において重要な働きをなす聖霊の賜物の一つであることにおいて価値を認めます。しかし、異言は、6節によれば、「啓示、知識、預言、教えなどによって語られることによって、教会の中で「役に立つ」ものとなり、こうしたものと結びつかない限り、教会の中で「普遍的価値」を持つ賜物とはならないのです。

しかし、理性は異言と違って、それ自体が信仰を高めたり、益をもたらすわけでありません。パウロはローマ書1章18節以下において、人間理性の座としての「心」は、不義によって、その知性は鈍く暗くなっており、神を知る感覚は鈍くなっているといっていますから、理性そのものは信仰をもたらす働きをしないといっています。エフェソ4章22節によれば、「心の一新」が必要で、それは、聖霊によって与えられるものであるとパウロは、第一コリント2章10節においても明らかにしています。ここでも、霊で祈り、理性でも祈るとか、霊で賛美し、理性でも賛美する、というように、霊と理性は常に対にして語られています。

聖霊によって一新された理性は、「啓示、知識、預言、教え」の内容を説明する言葉を整える役割を担うことができます。その限りで重要な働きをします。だから、教会を建て上げる働きをするのは、理性ではなく、教会の主であられるキリストご自身であります。復活し昇天されたキリストは、教会に聖霊を与えると約束してくださったのであります。ですからキリストは、現在、聖霊を通してご自身の体である教会を建て上げる働きを果たしておられます。そして、聖霊は教会に与えられている宣教の言葉(ケリュグマ)、と深く関わって、その業を助けることによって、教会を建てる働きをしています。パウロは教会の宣教の言葉に関わる賜物のことを、ここで「預言」という言葉で表しています。だから、この預言の賜物を教会は熱心に求め、他のどの賜物よりも重んじられねばならない理由があるのです。

パウロの「預言」と言う言葉の用い方については議論がありますが、今その詳細に立ち入ることはできません。その必要もないと思います。大切なのは、パウロがその言葉をここでどのように理解し、どのように用いているかということです。3節において、パウロは、「預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます」といい、4節で、「預言する者は教会を造り上げます」と言っています。人が慰めを与えたり、教会を建て上げることはできません。「慰め」を表すパラクレーシスという言葉は、聖霊について語られる時に用いられます。聖霊とその賜物が人に与えられ、その人が「霊的な賜物」である「預言」の力により頼んで語る時、神の慰めが人にもたらされ、教会を建て上げることになる、パウロはそう述べているのであります。

預言が人に与える具体的な影響力について、24-25節において述べられています。信者でない人に、罪を指摘し、心の暗さを知らせ、ひれ伏して神を礼拝するように導き、「まことに、神はあなたがたの内におられます」との告白を生む働きをなす、と述べられています。こんなことが起こるのは、その預言が十字架と復活のキリストを指し示しているからです。その言葉を聞く時、わたしたちは、私たちの罪のために死なれた十字架が心に迫ってくるのを深く覚えさせられます。

十字架を背負ってゴルゴタの丘を上られるイエスは、わたしの罪を背負って歩まれたのであります。そして、本当にこのわたしの罪のために死なれたのであります。ああ!これまで自分が神に背いて生きていたことさえ知らずに罪を犯し続けていた本当に罪深い人間であるということを、十字架のイエスを仰ぎ見て初めて知らされるのであります。十字架上で御自分のことを知らないで、ののしる罪人や群集の心の奥まで、イエスは知っておられます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかしらないのです」というイエスの言葉を聞いて、わたしたちは、このように赦してくださるイエスさまを知らないで平気で生きてきたこと自体が、どれほど罪深い者であったかを知らされます。主イエスは、罪を指摘して罪深さを知らせるのでなく、罪に気づかない者の罪を知って、その罪を担い、その罪を赦していてくださるお方です。わたしたちは十字架のイエスを、信仰を持って仰ぎ見て初めて、そのことを知ることができるのです。あの十字架は神に背いていた、わたしのためのものであり、自分のことばかり考えていた罪深いこんなわたしのためにも、イエスさまは死んでくださったのだとわかったとき、わたしたちは神様の前にひれ伏すでありましょう。ひれ伏して礼拝すのであります。キリストを証する預言が語られている教会の中で、今まで信じなかった人間も、ひれ伏し、「まことに、神はあなたがたの内におられる」、わたしも一緒に同じ神を礼拝し、同じ救いに与りかりたいという信仰を言い表すように導かれる、パウロはそう語っているのであります。

教会は「キリスト告白」によって、建て上げられていくのであります。そのキリスト告白は、キリストを証する言葉が教会の中で重んじられ、その賜物が重んじられている教会の中で生まれていくのであります。個人の信仰が強く覚えられる教会ではなく、キリストの言葉が語られ証されている、そういう話題が中心になっている教会が、本当にキリストの教会として建て上げられていく、パウロはそういっているのです。だから、教会を建て上げる預言の賜物を熱心に求めなさい、それが愛を追い求めることになる、という風にパウロは言っているのではないでしょうか。愛とは、神が私たちを愛する愛であり、それに応答するキリストへの私たちの愛でもあります。それは、キリストの体なる教会への愛となって表されるものであります。そして、さらに具体的にその愛は、キリストを証し教会に仕える預言の賜物を求める熱心となって表われるのです。愛は教会を建て上げるのです。預言という賜物を熱心に求めることによって、キリストの愛が教会に向けられていることを知っているからであります。

新約聖書講解