コリントの信徒への手紙講解

14.コリントの信徒への手紙一4章18-21節『神の国は言葉ではなく力』

「神の国は言葉ではなく力にある」とパウロはここで語っています。これは、キリスト信徒となってから、自分たちは豊かになった知恵においても優れた者であると思い上がり、高ぶっていたコリントのある信徒たちに対して語ったパウロの言葉です。

彼らは思い上がるあまり、パウロの語る福音を軽んじ、パウロをまるで愚か者のように扱いました。パウロはまるで、「世の屑」のような存在として扱われました。パウロは自分にそんな扱いをするコリントの信徒たちに対して、「愛する子供として諭すために」、霊的な彼らの父として、「わたしに倣う者になりなさい」と語り、「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせる」ためにテモテを遣わすと告げています。

パウロが直接行って語るのではなく、テモテを遣わすといったとき、また彼らに誤解される可能性がありました。その誤解とは、パウロはコリントの人に面と向かって言う自信がないのでテモテを代わりに遣わしたのだというものです。その誤解がまたコリントの人たちの高ぶりを助長していたのです。

そのうわさを人づてに聞かされたパウロは、「しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう」と言っています。パウロがすぐにコリントに行かないのは、自分に自信がなく彼らを恐れていたからでない。未だ主の時が来ていない、今行くことが「主の御心」と思えないからです。パウロは何事をなすにも自分の願いや計画ではなく、主の御心=主の意思を第一の判断基準としてきました。

この点を誤解し、パウロが来られないのをパウロの臆病さ、弱さとみなす高慢なコリントの人たちに向かって、パウロは、主の御心によってコリントに行く機会があれば、「高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう」と、非常に激しい口調で語っています。パウロの福音宣教の言葉を軽んじ、自分たちの知恵や才能の力を誇るコリントの人たちに向かって、パウロは、「神の国は言葉ではなく力にある」と語っているのです。

「神の国は言葉ではなく力にある」という言葉は、このような文脈の中で語られている言葉です。人の知恵から出る巧みな言葉を誇り、才能を誇る者たちが、パウロが命の問題として捉えた十字架の福音の言葉を、その知恵によって実際上軽んじ変質させていったコリントのある信徒たちに向かって語られている言葉です。このようなコリントの信徒たちの問題は、信仰を失ったり、捨て去ってしまうという問題ではありません。むしろ、その人間的な知恵の力により頼むことから生じる高慢によって、福音の内容を変質させ、福音を軽んじるという、教会にとって抜き差しならぬ危機的な問題がそこにありました。神の国の到来と救いは、人の知恵の言葉によるのか、福音に表されている神の力によるのかが、問われているのであります。パウロは、この事柄にある問題の本質をその様に洞察していました。

ですから、神の国の実現、その福音宣教において「言葉」が無用であるとか、もはや意味をなさなくなったという意味でパウロは、「神の国は言葉ではなく力にある」といっているのではありません。

「神の国」とは、神の支配のことです。神が神として世界を支配し、救いを導き実現することによって、神の国は具現します。その完全な到来は終末の日までまたなければならないですが、イエス・キリストにおいて既に完全に到来しています。父なる神が御子イエス・キリストとの間に結ばれた契約において神の支配は完成へと向かっています。神の国の力は、ですから、1章24節においてパウロが既に述べているとおり、「ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝え」るという、宣教の働きを通して示され明らかにされていくものであります。

そして、その宣教とはいかなるものであるか、パウロは2章4、5節でこう言っています。「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるもの」であると述べています。この点を銘記すべきです。「それは、…人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるため」です。

キリストの十字架の言葉は、神の意志の前に、人間の意志が従う、神の知恵の前に、人間の知恵を愚かにする、神の力です。しかし、神はそのために、十字架のイエスにおいて、ご自身を愚かな者、弱い者とされたのです。しかし、この神の愚かさと弱さこそが、神の力、神の救い、神の偉大さ、神の知恵なのです。神は十字架の福音を聞き、その十字架の主の足元で、ひれ伏し、己を貧しくする者、御自分を愚かものとする者に、神は本当の知恵、救いの恵みを与えてくださるのです。

なぜなら、神の意思に従うために、己に死ぬことを潔しとされた十字架のイエス・キリストを、わたしの救い主と信じるすべての人を救うという目的のために、神は、死者の中から復活させられたのです。そして、キリストに世界を救う権能、裁く権能と力を委ねておられるのです。そして、キリストの十字架の福音を語る使徒パウロにも、キリストからその権能が委ねられているのです。21節のパウロの言葉は、キリストから委ねられている神の国の権威を離れて理解することができません。

十字架の言葉の前に誰一人誇ることを許されていません。この言葉の前に、人間の知恵は愚かであり、滅び、跪くしかないのです。どのような知恵の言葉も、教会の中心を占めることはできないのです。キリストの十字架に表された神の偉大な知恵と力と勝利の前に、人は感謝と喜びを持って、恐れひれ伏して、信じ受け入れるしかないのです。

そして、今もその恵みの力を聖霊の力と働きを通して人を信仰へと導く神の偉大な変わることのない力と恵みに、わたしたちは、感謝するしかないのです。神の国は言葉だけで、救いに何の力もない、私たちの現実に対して何の変革力もないものとは違います。コリントの人たちの知恵や能力はいかに優れていたとしても、それだけでは、神の国の救いに何の役にも立たないものであるばかりか、教会を分裂させる働きしかしなかったことに対して、パウロは、彼らの「霊的な父」として、愛情ある厳しい言葉をかけているのです。

教会は、十字架のキリストに表された神の偉大な知恵と力を見失い、己の知恵や立派さを誇るとき、その信仰は変調をきたします。教会は健全な成長と力ある宣教の働きを為し得なくなります。

十字架においてキリストが表された力とは、人間の徹底した神の前における無力、神の知恵と意思に従う信仰の姿です。神は、わたしたちの救いの為に、わたしたちと同じ肉体をとり、その同じ肉の弱さにおいて、神への信仰に生き、神の意志に従いぬかれたキリストを、三日目に死者の中から復活させられたのです。福音とは、十字架に架けられて死なれたキリストが復活されたという喜ばしい知らせです。この知らせが喜ばしいのは、キリストはこれを信じるわたしたちのために死なれ、わたしたちのために、復活されたからにほかなりません。この事実の中に、キリストの十字架に神の知恵、神の力が表されているのです。徹底して、己の知恵を貧しくして、神の知恵に従い、己の意思ではなく、神の知恵に従ったキリストを神は復活させてその救いの力を明らかにされたのです。

この十字架の言葉こそ神の力です。十字架の言葉こそ、どのような人間の知恵の言葉よりも優れた言葉であり、神の知恵なのです。人間の言葉がどんなに優れていて、人を驚かせる力があったとしても、人間の言葉に、人を死から命へと生かす力が存在するのでしょうか。そんな言葉は存在しません。パウロは、その人の知恵の言葉におぼれているコリントの信徒たちに向かって、「言葉ではなく力を見せてもらおう」と言っているのは、彼らの言葉にそんな力があるかと問うためです。

わたしたちもまた、己を誇る思いに支配されるときにこそ、このパウロの言葉を真剣に聞くものとならなければならないのです。

新約聖書講解